第54話 勅命
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」(故人)
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(伊級)。夫は中里実隆
・杉尚重…紅花会の調教師(伊級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(伊級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・藤田和邦…清流会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…岡部厩舎の契約騎手
・荒木、真柄…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・成松…岡部厩舎の副調教師
・垣屋、花房、阿蘇、大村…岡部厩舎の厩務員
・長野業銑…岡部厩舎の調教師補佐
・関口氏勉、高橋圭種、遊佐孝光…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・富田、山崎、魚住…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・三木杏奈…岡部厩舎の女性厩務員兼ブリタニス語通訳
・江馬結花…岡部厩舎の女性厩務員兼ゴール語通訳
・香坂郁昌…大須賀(吉)厩舎の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
・ラシード・ビン・スィナン…パルサ首長国の調教師
・チャンドラ・ブッカ…デカン共和国の調教師
・ラーダグプタ・カウティリヤ…デカン共和国の調教師
・アレクサンドル・ベルナドット…ゴール帝国の調教師
・ギョーム・エリー・ブリューヌ…ゴール帝国の調教師
・エドワード・パトリック・オースティン…ブリタニス共和国の調教師
・クリーク…ペヨーテ連邦の調教師
五月、岡部たちがブリタニスに遠征していた間、瑞穂では『駒鳥賞』に『サケブンセイ』が、『大金杯』に『サケリコウ』が出走していた。
『ブンセイ』は松井の『ミズホエンシュウ』を、辛うじてクチバシ差押さえて勝利したが、『リコウ』は十市の『クレナイミナシ』に最後の最後で差されてしまった。
六月に入り、岡部厩舎は『サケジュエイ』を『竜王賞』に挑戦させていた。
だが予選を迎える前に回避の指示が下される事に。
指示には従ったものの、厩舎ではかなり不満が溜まっていた。
酒田での最上の葬儀を終え、大津の厩舎に戻った岡部の腕を荒木が掴んだ。
「とてもやないですが厩舎は海外遠征するいう雰囲気やないですよ。すでに古竜が三頭しかおらへんのです。その現実を直視してください!」
そう言って声を荒げた。
垣屋と花房も、「同感だ」と岡部に詰め寄った。
そんな荒木に真柄は「怪我しても大会に出なければいけない時はあるでしょ」と指摘。
「多少の怪我やったら俺もそう言うわ! そやけども、今は重傷なんや!」
そう荒木は気迫で真柄を怯ませた。
「『ブンセイ』と『ホウギ』は秋は古竜戦線だし、杉さんと櫛橋さんが新竜を一頭づつ融通してくれる事になりましたから、今年は四頭も新竜が来る事になったんですよ」
そう岡部は説得したのだが、荒木は強く左右に振った。
「その四頭が順調にいったとして、重賞戦線に乗るんは来年以降やないですか! うちらは今の話をしとるんです!」
坂井、亘理も「荒木の言い分が真っ当」と岡部に進言。
事務室で一人悩んでいると杉が訪ねて来た。
今回、『サケユウダチ』で『竜王賞』に臨んでいる杉は、ほんの数日前に太宰府から帰ってきたらしい。
「相談役の葬儀、俺も行ったけども、酒田は良えとこやったわ。寿司は旨い、酒は旨い。松井たちとつい呑みすぎてもうた」
「すみませんでした、わざわざ遠くまで」
「大したことあらへんよ。故人への感謝を思うたら。櫛橋もよう泣いとったなあ」
岡部も末席とは言え家族の席に座っていたので、櫛橋が号泣していたのは見えていた。
「櫛橋さんは感情が昂りやすい方ですからね」
「三浦先生もよう泣いとったよ。平岩さんも斯波も。津軽のおっちゃんなん、号泣しすぎて何言うてるかようわからへんかったで」
「津軽さんは、まあ、いつも通りというか何と言うか」
二人は小さく笑いあった。
「なんや、厩舎揉めとるらしいな」
「ええ。まあ……」
「実はこんなものが来ていまして」と、岡部は事務机から陛下の親書を取り出した。
「これが噂になっとる例のブツか。俺なんかが中見ても良えもんなん?」
岡部はくすりと笑うと、どうぞと促した。
内容は『ゴール皇帝から直々に『グランプリ』への招待があり、ぜひ出走をお願いしたい』というものだった。
「行くとしたら『ジュエイ』か」
「もう『ジュエイ』しかいません。しかもあれ競竜会の竜なんで、何かあるわけにいかない竜なんですよね」
杉は綺麗に金で縁取られた親書を丁寧に封筒へ収めた。
「その上、厩務員も総反対と」
「正直、服部があんな事になり、畠山さんを乗せるのもちょっとためらってしまって」
杉はため息をついて親書を岡部に返却。
そのままじっと岡部を見つめる。
「……戸川先生やったら、こんな時、何て声かけるんやろう」
そうボソッと呟いた。
「喪失感を埋めるためにはな、足を前に出すしか方法は無いと俺は思うんや。この意味、わかるな?」
岡部は困り顔を無理やり笑顔に変え、こくりと頷いた。
「何か困ったら相談に来い」と言って杉は珈琲を飲み干し、厩舎を後にした。
翌日には松井がやってきた。
松井も今回『ミズホアズミ』で『竜王賞』に挑んでいる。
「デカンのマトゥーラ、パルサのアル・ザハビー、どちらの竜もかなり強そうだが、何とか瑞穂の意地を見せてやる」とかなり鼻息が荒い。
「臼杵がかなり気持ちが沈んでるよ。同期二人が瀕死で帰ってきたんだから無理も無いが」
「見舞いに行った時に武田くんから聞いた話だと、板垣も銃弾が右肩の骨を砕いたらしくて、今、金具でつなぎ合わせてるんだって。当分退院は無理って言われてるみたいだよ」
松井は眉をハの字に寄せ苦しそうな顔で首を横に振った。
「そこまでの酷い状態から、復帰なんてできるのかね?」
「運動障害がどの程度残るかって事みたいだね。できないとは言われてないみたいだよ」
「なんでこんな事に」と呟き、松井は額に手を当てた。
「まるで戦場帰りだな……」
「今、ブリタニスは民衆反乱でめちゃくちゃらしいから、あながち間違いじゃないのかも」
「ペヨーテでも暴動が起きたって朝の報道番組で言ってたな。麻薬密売組織と警察の大規模な癒着が発覚して」
ペヨーテの件には何も返さず、岡部は珈琲を口にした。
「なんだか、あっちもこっちもきな臭くなってきちゃったね。ゴールでも民衆反乱が起きたって聞くし、僕が行った国、どこもかしこも悲惨な事になっちゃって」
「それだけの事を奴らは君にやってきたんだよ」
松井がじっと岡部を見る。
その視線に気づいた岡部は、ぷいと顔を背けた。
「別に僕のせいじゃないよ」
「ああ、もちろん奴らの自業自得だ」
松井は鼻を鳴らし、静かに珈琲を飲んだ。
「杉さんから聞いたよ。陛下から勅命が出てるんだって」
「勅命って、また大袈裟な。親書が来たってだけだよ」
「いやいや、それ自体、でれ凄い事なんだけどな」
「まあね」とお道化て、岡部は陛下からの親書を松井に手渡した。
松井は杉と違い封を開けず、その封筒だけを様々な角度から眺めている。
「でも厩舎は反対派が主流でね。服部もいないから、どうしたもんかなって」
「臼杵貸そうか?」
「臼杵は気が弱いから、危険な海外遠征には不向きだよ」
「かもしれん」と松井は笑い出した。
珈琲を飲むと、松井は笑顔を消し、急に真面目な顔になった。
「今から俺が言う事は、他会派の調教師が言う無責任な事だから、笑って聞き流して欲しい」
その松井の前置きに岡部は首を傾げた。
「君は何のために海外遠征を始めたんだ? それをもう一度、思い出してくれ。勝ったらいう事を聞いてもらえる。君は何を望むつもりだったんだ?」
松井の指摘に岡部は無言で視線を落とした。
「今、主三国は国家として大打撃をこうむった。それが君の本当の望みだったのかい? そうじゃないだろう。聡明な君なら、目的をはき違えるような愚かな真似はしないはずだ」
「それはわかってる! だけど兵が乏しいんだよ。補給もまともに来ないんだよ。弾薬も、糧食も、底をつきかけてるんだよ!」
ぎゅっと唇を噛んだ岡部の右肩に松井はぽんと手を置いた。
「よく前を見ろ! 敵兵はもう残り僅かだ。ここが最後の正念場なんだよ! だから腰を引くなよ!」
「それもわかってる! だけど孤軍でどうしろってんだよ!」
「相手はもう本国から見捨てられたやつらだ。だけど君は違うだろ! 確実にすぐそこに補給部隊も増援も迫ってるじゃないか!」
「違うか?」と松井は岡部に問いかけた。
「なら、それを待って……」
「今を逃せば、奴らは、『君を虐げた奴ら』は、すぐに窮地を脱し安全なところに逃げる。これまでの犠牲は全て無かった事にされるだけだ!」
松井は左肩にも手を置き、両手でぎゅっと岡部の肩を掴んだ。
「……もう少しだけ、もう少しだけ時間が欲しい」
その日の夜、ゆうげの後に、岡部は少し相談があると言って梨奈を客間に呼び出した。
奈菜も呼び、梨奈の横に座ってもらった。
「ゴールにもう一度遠征しようと思うんだけど、梨奈ちゃんどう思う?」
『ゴール』という単語に奈菜は顔を歪め下腹をさすった。
それを見た岡部は、奈菜に膝に乗るように促し背中を優しく撫でた。
梨奈は当然のようにブリタニスの中継を、あの惨劇を見ている。
聞かれるまでも無く、即答で反対と言いたいところである。
「無事に帰って来れる保証はあるん?」
「無い」
岡部は即答だった。
競争は一着で終えられるかもしれない。
だが生きて瑞穂に帰って来れるかどうかは、現状では五分五分だと思っている。
「それでも行きたいんやね」
「行きたいだけじゃなく、梨奈ちゃんと奈菜、幸綱にも来てもらいたい」
「奈菜、壊れてまうよ、そんなん……」
奈菜がぎゅっと岡部に抱き着いた。
「どこかで良い思い出で上書きしないと、奈菜はずっとこのままだと思うんだよ」
「そんなん単なる荒治療やん。母親として許可できるわけないでしょ」
「こうなったのは僕のせいだから! だから何とかしたいんだよ!」
ゴールの件からずっと、岡部が責任を感じているのも梨奈は知っている。
その気持ちもわからないでも無かった。
「ほんなら、酒田のお義母さんが何て言いはるか、相談してみたらどうやろか」
奈菜を膝に乗せたまま、岡部は酒田に電話を入れた。
事情を話すと、あげはは梨奈に代わって欲しいと言った。
そこからあげはは暫く梨奈に何かを言い続けていた。
最終的に、「わかりました」と言って梨奈は静かに電話を切った。
「義母さん、何だって?」
「私もゴールに行って奈菜を守るって」
岡部は静かにうなずいた。
膝の上の奈菜を、顔が見合うように胡坐の正面に座らせた。
「奈菜。父さんと一緒に、もう一度だけゴールに行ってくれないかな?」
奈菜はうんとも嫌とも言わず、じっと俯いて黙っている。
「去年みたいな事は絶対にさせない。約束するから。ね」
奈菜は涙目で首を縦に振って岡部に抱き着いた。
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