第39話 豊川
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・杉尚重…紅花会の調教師(伊級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(伊級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・藤田和邦…清流会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・成松…岡部厩舎の副調教師
・垣屋、花房、阿蘇、大村、真柄…岡部厩舎の厩務員
・長野業銑…岡部厩舎の調教師補佐
・関口氏勉、高橋圭種、遊佐孝光…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・富田、山崎、魚住…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・三木杏奈…岡部厩舎の女性厩務員兼ブリタニス語通訳
・江馬結花…岡部厩舎の女性厩務員兼ゴール語通訳
・香坂郁昌…大須賀(吉)厩舎の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
・ラシード・ビン・スィナン…パルサ首長国の調教師
・チャンドラ・ブッカ…デカン共和国の調教師
・ラーダグプタ・カウティリヤ…デカン共和国の調教師
・アレクサンドル・ベルナドット…ゴール帝国の調教師
・ギョーム・エリー・ブリューヌ…ゴール帝国の調教師
・エドワード・パトリック・オースティン…ブリタニス共和国の調教師
・クリーク…ペヨーテ連邦の調教師
忘年会に出席するため、岡部は、服部、成松、新発田、坂井を連れ豊川へと向かっている。
電車の中で服部が岡部に少し相談があると言い出した。
「実は、日章会の藤原会長が秘書の工藤さんと先日家に来たんです」
「用向きは?」
「戻って来ないかって。どんだけ岡部先生に大恩ある思うてるんですかって言うたんですけどね」
元々服部は日章会の騎手として競竜学校に入学している。
ところが日章会が調教師候補を用意できず、岡部の騎手候補となった。
最終的に競竜学校の卒業に際し、紅花会に移籍してしまっている。
「で、うちを助けると思ってと泣き落としされたとか?」
まさに工藤に言われた通りの事を言われ、服部は面食らって黙ってしまった。
「僕は前から言ってる通り、日章会に戻るならそれでも良いと思ってる。それによって専属を切ったりはしないし、騎乗方針変えたりもしないよ」
「それ、誰かに言いました?」
「誰かか。言ってないと思うけど、ぽろっと酒の席で零したかもしれない」
服部が小さくうなづく。
「実はそれも言われたんですよね。岡部先生はこっちでも良え言うてくれてるんやろって」
「ああ、もしかしたら相談役が言ったのかも」
「相談役か。なるほど、あり得ますね……」
そこで服部は俯いてしまった。
「で、どうするんだ? 調教師の所属と違って、騎手の所属変更はそこまで会派には影響は無いだろうけど」
すると、「だからそれを先生に相談したいんじゃないですか」と成松が指摘。
「ああ、そういう事か。なら僕より良い人がいるよ」
豊川の駅で降りた五人は、まず豊川稲荷に行き、その後で大宿へと向かった。
受付は今年もあやめが行っており、岡部を見ると、腰をくねらせながら「海外遠征なんて凄いですね」と手を取った。
実は成松のところに事前に内田から連絡が入っていて、受付で櫛橋先生に会う前に先生の手を取って会場入りしろと命じられていた。
そのため成松は、「先生、そろそろ」と言って早急に会場入りさせようとした。
だが遅かった。
「相変わらず受付長いんやな。筆頭さんは、そないに書くもんがあるんかいな」
その声を聞くと岡部は櫛橋の手を取り、池田に代わりに受付をお願いし、服部を呼び、会場へと向かった。
櫛橋は耳を赤くし、「ちょっと何? どうしたん?」と、戸惑いながら手を引かれていく。
「何なのよ、もう!」と、あやめは口を尖らせて不貞腐れた。
会場に入ると、岡部は真っ直ぐ三浦の下へ向かった。
今回、三浦は少し早めに来て、杉、津軽、平岩、斯波と歓談していた。
そこに岡部が櫛橋の手を引いてやってきた。
櫛橋は顔を赤くしているし、岡部は切羽詰まった顔をしているし、服部はうなだれているしで、一体何事かと五人は思った。
五人を見て、皆揃ってますねと言って岡部は服部の件を話した。
すると皆一様に困ったという顔をした。
「確かに、事情を聴いたら日章会に行くいうのはアリやろうな。調教師と違い、騎手の所属は会への収入にはほとんど関係あらへんのやから」
まず杉が見解を述べた。
「服部に父の志を受け継ぐという気持ちが少しでもあるのならば、今からそれを示しておいて欲しいという、日章会の気持ちもわからないでもないよな」
そう平岩は言ったのだが、それに津軽は不満なようであった。
「おいおい、こういうんは理屈や建前と違うやろ。服部よ。お前には岡部への義理いうもんがないんか?」
服部を見て津軽は憤慨。
「まあ、引退後はともかく、どのような事情があれ、普通は専属騎手が専属のまま会派を移ったりはしないもんだぞ」
斯波もやんわりと反対の意見であった。
「私も反対やね。それを許してもうたら、うちの会派は引き抜き放題になってもうて、調教技術やら調教方針やらがダダ漏れになってまうもの」
櫛橋の意見に「それだよ」と言って杉が同調。
そんな中、三浦は静かに服部を見て思案し続けていた。
「三浦先生、どう思います?」
「非常に難しい問題だな。お前が悩むのもわからんでもない」
「僕も正直言えばどちらでも良いと思ってます。ですが、櫛橋さんの危惧するように、それで引き抜き放題になったら困るんですよね」
三浦は服部を見て微笑むと、少し二人で話をしようかと誘った。
紅花会の戦略級調教師が一同に会していると言う状況は、かなり耳目を集めていたようで、周囲を見ると調教師が大量に取り囲んでいた。
「見世物やないぞ」と津軽がすごみと、平岩と斯波が「まあまあ」となだめた。
そこに運営が来て、岡部と櫛橋を連れて行った。
今年、昇級者の目玉は何といっても伊級昇級の櫛橋だろう。
史上初、女性の伊級調教師の誕生である。
開業七年の伊級昇級は岡部と同じ年数で、呂級で『海王賞』制覇も岡部と同じ成績。
仁級、八級と古竜二冠を制し呂級に昇級。
今年、古竜二冠と『海王賞』を制し昇級となった。
それも『海王賞』で撃破した相手は岡部である。
そのせいで、岡部が忖度したのではないかという疑惑も出た。
その件を記者に聞かれた伊東と国重が、忖度した岡部に負けたと言いたいのかと激怒するという一幕もあった。
史上初の女性伊級調教師という事で、未だにあちこちから取材責めになっている。
今日も今日とて、駅から大宿までパラパラと報道が待機していて会派の職員と揉めていたし、今も恐らく懲りずに外で待機しているのだろう。
八級に昇級した頃から、櫛橋も犬童も芸能事務所に所属しないかと勧誘を受けているらしい。
犬童に至っては端正な顔つきもあって、仁級の頃から既に様々な勧誘を受けている。
写真集を出そうという勧誘が多いらしいが、歌番組の出演なんかの勧誘もあるらしい。
困った事に、競竜協会の広報まで番組の出演依頼を頻繁に持ってくるのだとか。
呂級に上がってから櫛橋は、その手の誘いがある都度、本社に話は通しているのかと聞くようにしている。
そこから白桃会と桜嵐会のしつこい引き抜きがピタリと止んだ。
それで済むとわかると、犬童も同じ対応をするようになった。
管理課の六郷課長は、面倒事を押し付けやがってと苦い顔をしていたらしい。
その六郷課長は小野寺部長に相談し、最近では営業部に振るようにしており、今度は営業部の米泉部長が、広報課の課長と二人で頭を抱えているらしい。
まず、義悦が壇上に上がった。
義悦は、じっと何かを我慢しているような顔で皆の顔を黙って見渡した。
おもむろに集音器を手にし、反対の手を天に突きあげ、人指し指を伸ばす。
「ついに会派首位です!」
その言葉に皆の顔がぱっと明るくなり、大歓声が沸き起こった。
「この結果は皆の日々の努力の賜物ですよ!」
調教師たちは興奮して、もはや義悦の声は書き消え気味になっている。
「次は連覇、その次からは、どこまで首位を守れるかの戦いが始まります。皆の奮戦に期待します!」
そう言うと義悦は深く頭を下げた。
「何かあったらすぐに本社に相談ください。我々は対応に骨身を惜しみませんから」
会場が最高に興奮した状態で岡部が壇上にあがった。
第一声から「会派首位に乾杯!」と言うと、調教師たちは大声で「乾杯!!」と叫んで麦酒を呑みほした。
次に昇級者と研修の挨拶が始まった。
まずは伊級昇級の櫛橋。
「みんな観てくれた? 『海王賞』で、そこの兄弟子もろとも伊級調教師を全員蹴散らしたったで!」
櫛橋はそう言って胸を張った。
岡部が露骨に嫌そうな顔をし、会場は大爆笑になった。
「伊級なん言うても大した事あらへんよ。みんなとそれほど変わらへん。そやから、みんなさっさと上がってくるんやで!」
今年、呂級昇級は無く次は八級だった。
まずは牧、次に高木が挨拶した。
高木は「開業から何年経ったか知らないが、ついに八級に昇級だ」と泣き出してしまった。
「腐らず上を見続けとったら、必ず結果に表れる日が来るいうことを知った。次は呂級や」
そう言って牧と肩を組むと、牧も、「一緒に呂級を目指しましょう!」と言って高木に微笑んだ。
その光景に会場から暖かい拍手が起こった。
最後に今年開業の西郷と研修に行く成松が挨拶した。
昇級の挨拶の後少し歓談が続き、義悦と岡部が再度壇上に上がった。
それぞれ椅子が用意され、二人はやや正面を向いて腰かけている。
そこで、恐らく今会場の皆が一番気になっているであろう、海外遠征の話を二人は始めた。
デカンの歓喜から始まり、ゴールでの誘拐事件、ペヨーテの逮捕事件、その後の『八田記念』中止勧告の話になった。
最初は楽しく聞いていた調教師たちだったが、徐々に憤りで静かになってしまった。
「岡部先生。来年、海外遠征はどうするつもりですか?」
義悦はそう岡部にたずねた。
岡部は小さくため気をつき、少し考えてしまった。
「はっきり言うと、今、主三国に対して大きく失望しています。昨年はあれだけ憧憬を抱いていたのに」
「じゃあ、来年は少し慎重に?」
その質問に岡部は服部たちの姿を探し、鼻から息を漏らした。
「今、競竜協会が八方手を尽くして対応してますので、その成果を見ない事には何とも」
「じゃあ、もしも、それなりの良い結果に落ち着いたら?」
義悦の問いに岡部はすぐに回答せず、麦酒をくいっと喉に流した。
その後で会場の皆の表情を見渡していった。
「その時は、最後の一国、ブリタニスに乗り込んでやろうと思います!」
会場はその言葉に大きな歓声をあげた。
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