第34話 武田会長
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・杉尚重…紅花会の調教師(伊級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(伊級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・藤田和邦…清流会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・成松…岡部厩舎の副調教師
・垣屋、花房、阿蘇、大村、真柄…岡部厩舎の厩務員
・長野業銑…岡部厩舎の調教師補佐
・関口氏勉、高橋圭種、遊佐孝光…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・富田、山崎、魚住…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・三木杏奈…岡部厩舎の女性厩務員兼ブリタニス語通訳
・江馬結花…岡部厩舎の女性厩務員兼ゴール語通訳
・香坂郁昌…大須賀(吉)厩舎の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
・ラシード・ビン・スィナン…パルサ首長国の調教師
・チャンドラ・ブッカ…デカン共和国の調教師
・ラーダグプタ・カウティリヤ…デカン共和国の調教師
・アレクサンドル・ベルナドット…ゴール帝国の調教師
・ギョーム・エリー・ブリューヌ…ゴール帝国の調教師
・エドワード・パトリック・オースティン…ブリタニス共和国の調教師
・クリーク…ペヨーテ連邦の調教師
加賀美部長は統括部長の職を辞したのだが、それでも参考人招致は続いた。
一人の野党議員の一つの質問が、加賀美元部長の立場を非常に悪化させる事になった。
「なぜ、協会の総意として抗議すべきという意見を封じてまで、岡部調教師の処分を受け入れたのですか?」
加賀美元部長は「そのような事実は無い」と証言した。
だが、さらにその議員は追及した。
「では、岡部師に悪い噂があったのは事実で、抗議すれば次回から国際会議で私の発言が軽んじられる事になってしまうと言って反対したという報道は真実では無いのですね?」
加賀美元部長は再度「そのような事実は無い」と言おうとした。
だが、「嘘がバレれば、今度は偽証罪に問われる事になる」と、その議員に言われてしまった。
「記憶にありません」
そう言って加賀美元部長は追及から逃げた。
「では、協会の総意を退け岡部調教師の処分を受け入れたというのは、否定したままで良いのですか?」
これも加賀美元部長は「記憶に無い」と訂正した。
この答弁は加賀美元部長の立ち場を非常に悪いものにした。
現役官僚から、おまえのせいで官僚は無知蒙昧の集まりと思われていると恨まれる事になった。
『瑞穂の癌』とまで言っている報道すらいる。
どこから知ったのか、加賀美の自宅の電話は昼夜関係なく鳴りっぱなしになり、線を抜いている。
二人の娘は学校に行けなくなり、マスコミに家を囲まれて外にも出れず、戸締りをした家に籠る事になった。
妻は完全に精神を病んでしまい、皇都郊外の彼の家は荒れ果てた。
そんなある日、加賀美元部長は夜中に家族を連れて旅行に出かけた。
そして、そのままペヨーテに亡命してしまったのだった。
加賀美が辞任し、統括部長には二階堂が就任する事になった。
二階堂は竜主会から人員を借り受け、特別対策班を組織。
班の目標は二つ。
加賀美元部長の連合議会での証言に虚偽があるのか否か。
国際競竜協会の監査の対応及び岡部への処分の撤回。
一つ目の加賀美元部長の発言は、そもそも二階堂も聞いていて、証拠を探すだけの作業であった。
しかも会議の議事録にしっかりと記載されており、こちらは早々と目的を達成。
偽証罪が立証される事になり、加賀美元部長は指名手配される事となった。
だが、本題は国際競竜協会の査察の対応と岡部の処分の撤回の方である。
竜主会の全面協力が必要、特別対策班はそう二階堂に進言した。
天皇賞の祝賀会は義悦たちが緊急の竜主会議に出席する事になり、翌週に延期される事になった。
そんなある日、緊急の会見放送があるという事で、岡部は、杉、武田、松井と食堂に向かった。
食堂は厩務員たちも多数詰めかけており、かなり手狭となっている。
祝賀会延期の話を岡部がすると、武田と松井は「何かあったっぽいなあ」と言い合った。
「例の天下りの件じゃないか」と杉が言うと、三人は、あの件かとため息をついた。
会見が始まると、登場した人物に食堂はざわつく事になった。
雷雲会会長の武田善信が、秘書の加賀美、息子の照信社長と共に映し出されたのである。
通常であれば秘書から話し始め、途中で会長に代わるという流れである。
だが、この時はいきなり善信会長が話し始めた。
その内容は、岡部がゴールとペヨーテで受けた酷い仕打ちの報告から始まった。
ゴールの処分を検討する国際競竜協会の会合で、瑞穂の代表が勝手にゴールの処分を無しにしてしまった事。
ペヨーテの処分を検討する国際競竜協会の会合で、瑞穂の代表が被害者たる岡部師の誹謗を行った事。
そのせいで岡部師が半年間の国際競争への出走資格停止処分を受けた事が、淡々と報告された。
そして、その瑞穂の代表が秘書の加賀美の兄である事が公表された。
既に新聞や連合議会などで周知の話ではあったのだが、改めて口にされ、その衝撃的な内容に食堂はシンと静まり返った。
善信会長はそこまでで一度話を区切った。
そして、うつむいている加賀美の顔を見て、また話し始めた。
「この秘書の加賀美が、この件に責任を感じて辞職したいと言ってきました。だが兄と異なり加賀美はずっと岡部先生の中傷に対処してきたはず。それは道理に合わないと私は説得しました。でもそれでは世間が納得しないと加賀美は譲らない」
「そこで」と言って、善信会長はまた言葉を区切った。
「私は竜主会会長を辞する事にいたしました。さらに、長年保持し続けた会派首位を明け渡し、今年大きく順位を後退させてしまった事を鑑み、相談役に退き、会長職は息子の照信に譲る事にしました」
そこで照信社長が起立し無言で一礼した。
「加賀美にはペヨーテに渡ってもらい、兄を探しだして罪に服すように説得に行ってもらう事にしました」
善信がそう言って加賀美を見ると、加賀美は座ったまま無言で頭を下げた。
「岡部先生には、これまで大変ご迷惑をかけ続けてきてしまいました。竜主会の会長として、私がもっと早くから竜主の気持ちを纏めあげて対処できていれば、こんな苦労をせずに済んだのに。故武田調教師から、何度も繰り返して岡部先生をしっかり守れと、あれほど言われてきたのに……」
徐々に善信の声は震え声になり、瞳が潤みだしてしまっている。
「そうしていれば、主三国の重賞制覇秒読みとなって、なお、内から足を引っ張られるような事なんて無かったはずなのに。全て私の怠惰の結果だと猛省している次第です。本当に申し訳ございませんでした」
義信は深々と頭を下げた。
その瞬間、目から雫がぽろりと落ちた。
いつの間にか岡部の前に秋山が立っていた。
秋山も岡部の前には来たものの、何と声をかけたら良いかわからなかった。
「十分、僕は武田会長に支援してもらったと思っているんですけどね」
岡部は顔をしかめて秋山にそう言った。
秋山は小さく息を吐き、無言で岡部の顔を見ている。
既に会見放送は終了し、調教師や厩務員たちは続々と食堂を後にしている。
「珈琲、飲ませてもらえるかな?」
精一杯笑顔を作って秋山はそう言った。
杉たちの顔を見て、岡部は無言で厩舎へと足を向けた。
岡部厩舎に来た、杉、秋山、松井、武田は、岡部の淹れた珈琲を無言ですすった。
弘中、雑賀、逸見といった厩舎幹部たちも、長野に珈琲を淹れてもらって飲み始めた。
「涼しうなって、熱い珈琲が旨い季節になったな」
杉が呟いた。
すると秋山は杉に、「今度、うちの珈琲も試して欲しい」と微笑んだ。
「最初にお会いしたのは『セキラン』を取材しようと、報道が押し寄せた時の事でした。その後、セキラン暴行事件で知己を得て、競竜学校で激励してもらい、そこから、事あるごとに僕を支援してくれた。そのせいで、義父の会葬の時には身を危険に晒す事にまでなってしまって……」
これまでの武田会長との思い出を、岡部は珈琲と共に喉に流し込んだ。
「会葬で何があったんだ?」と松井が聞くと、「やつらに車を狙撃されたんや」と秋山は苦笑い。
「武田神社でも命を狙われたよな」と杉が言うと、「そないな事もありましたねえ」と、秋山は力無く笑った。
「竜主会会長として、いつも僕を心配してくれて、親身になってくれた方だった」
そう岡部は涙目で呟いた。
「筆頭の俺が不甲斐ないばっかりに、会長職を辞職まで……」
秋山はうなだれて、両拳を強く握った。
「今頃、常府で松平さんも、そう言って自分を責めてらっしゃるんでしょうね」
岡部の発言に誰も返答はしなかったが、その事は容易に想像ができた。
「今やから言うけども、武田先生、久留米でお前に会うてから、ずっと稲妻に紅花会を入れろ言うてたんやで」
「えっ、ホントですか、それ」
「ほんまや。もし紅葉会と組まれでもしたら、稲妻はもう勝たれへん言うてたんや。その後、紅藍系を作った時には、稲妻も紅も、もう終いや言うてた」
あまりに衝撃的な話に、岡部だけじゃなく、杉と松井、武田も目を丸くしている。
「でも、何でそこまで」
「あれだけの逆境をはねのけた若い雑草がおる会派は、もう手が付けられへんって。幸いな事に一門に同期がおるから、あれを頼みに上手い事好結んどけ言うてたんや。紅葉会にはそういうんがおらへんから勿怪の幸いやって」
「だからあの時、病床で僕に秋山さんと仲良くしてやってくれって、お願いしてきたんですね」
秋山の話を消化するため、五人の調教師は少しの間、無言で珈琲を口に運んだ。
「なあ、岡部。俺たちはどうしていったら良えと思う?」
「それに対する答えは一つだけですよ。新会長の下、一つでも多く勝てるように、自分たちができる事を全てやりきるだけです」
「相変わらず、お前の答えは明快やな」
潤んだ瞳で岡部は秋山に優しく微笑みかけた。
「そうやな、それしかないわな」と呟いて、秋山も珈琲を飲んだ。
月末、坂井は一通の封筒を持って岡部に報告に来た。
坂井の顔は、どちらとも取れない表情をしている。
封筒を開け、岡部は中の書面をじっくりと読んだ。
「よく頑張ったね。厩舎がゴタゴタしてたから勉強に集中できない事も多々あったろ」
「勉強なん、それまでの先生の元での日々に比べたら、大した事無いですよ」
「そんなに厳しくしたかな」と岡部が言うと、目が合った長野が苦笑いした。
「来年、西郷が実地研修に来るそうだから、坂井には、その後、副調教師をお願いするから」
「引き続き、ご指導のほど、よろしうお願いします」
岡部が皆を呼び坂井の合格を発表すると、皆大喜びした。
荒木が「『串焼き 弥兵衛』に予約入れますね」と言うと、「今日は呑むぞ!」と坂井が満面の笑みで両拳を握りしめた。
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