第46話 危害
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・木村、大野…戸川厩舎の厩務員、解雇
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川…尼子会の調教師(呂級)
・南条…赤根会の調教師(呂級)
・相良…山桜会の調教師(呂級)
・津野…相良厩舎の調教助手
・井戸…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・高城胤弘…三浦厩舎の調教助手
・清水…三浦厩舎の主任厩務員
・大森…幕府競竜場の事務長
翌日、最上は一旦仕事に戻ると言って帰っていった。
高城と清水は定期的に『セキラン』の様子を見てくれていて、月曜と火曜は特に大きな事件は起こらなかった。
水曜の朝、中里という厩務員が『セキラン』の引き運動を終え、これから竜房に戻そうとしていた。
すると一人の記者が近づいてきて、会見を『セキラン』の前でやりたいから岡部を呼んで欲しいと申請してきた。
中里は特に疑いもせず、竜房の外に『セキラン』を繋ぎ岡部を呼びに行った。
その頃、岡部の方は記者から厩舎の前で取材がしたいと言われて厩舎前で待機していた。
中里から連絡を受け、岡部はしまったと思い全力で『セキラン』の所に駆けつけた。
そこで岡部は信じられない光景を目にする。
記者が『セキラン』に暴行しているのある。
ある者はペンを腿に刺し、ある者は『セキラン』を蹴っている。
乱暴に引き綱を引き回す者もいる。
岡部は大声でふざけるなと叫ぶと、記者を次々に乱暴に引き剥がしていく。
その中の一人が岡部に殴りかかると、岡部も殴り返し、もみ合って大激闘になった。
岡部ともみ合った男がポケットから刃物を取り出し岡部に向ける。
岡部もそれに対抗しようと棒状の物を手にすると、二人は微妙に距離を取って睨みあっている。
徐々に周囲が騒がしくなってきた。
周囲の厩舎から厩務員が何事かと駆けつけてきて、その場を取り囲み始める。
既に暴行を加えた記者たちは喧噪の中逃げ去っていて、岡部を殴った記者も人混みに紛れ逃げ去った。
岡部も追いかけたのだが、まんまと逃げられてしまった。
大森は出勤早々その騒ぎを耳にし、慌てて竜主会へ連絡を入れた。
手当を終えた岡部から事情聴取をすると、その場にいた中里ほか幾人かの厩務員にも話を聞いた。
厩務員たちは、あれはどこどこの記者だったと、別々の名前を口にし埒が明かない。
しかも岡部を殴った記者は誰も見覚えが無いという。
事務棟の小会議室に、話を聞きつけた武田が血相を変えて駆けつけてきた。
遅れて最上も現れた。
最上は激怒し、幕府競竜場の警備体制は一体どうなっているのかと、大森を怒鳴りつけた。
さらに混乱に乗じて犯人全員に逃げられたと大森が言うと、最上の怒りは頂点に達した。
「怪我人まで出ているんだぞ! おまけに逃げられましただと? どの面下げて言ってるんだ!!」
武田は最上に落ち着くように宥めたのだが、最上は逆に挑発する始末だった。
「どうやらお前の対応は随分と温かったらしいな!!」
「手は打ってあるから少し落ち着いてくれと言ってるんだ」
そう宥めると最上はすこし自我を取り戻した。
「『セキラン』とうちの従業員が暴行を受けるんだから、余程良い手を打ったようだな!」
「そう言わんでくれ。私も半信半疑だったから詰めが甘かったのは認める。そこは申し訳ない」
すると一人の記者が、現像が終わりましたと言って会議室に入って来た。
武田は写真を一通り見ると、こいつらに見覚えがあるかとその記者に聞いた。
幾人かはと記者が答えると武田は頷き、写真を机の上に並べた。
中里が『セキラン』から離れ群衆が取り囲むまでの一連の現場の写真が並べられた。
大森は写真を見ると、全員普段出入りしている人物では無いと言った。
特にこの人物と言って岡部を殴った人物を指さし、この人物は全く知らないと答えた。
そこに幕府府警と連合警察が数人入って来た。
武田はその中の高官を呼ぶと、公正競争違反、並びに暴行、さらには不法侵入の疑いもあると言って写真を指さした。
「彼が目撃者だ。参考人として連れて行ってかまわない」
武田は写真を持ってきた記者を参考人として紹介した。
警察は鍵のかかる部屋をお借りしたいと言って、事務棟内に緊急の対策本部を設置。
すぐに捜査を開始した。
「こうなるかもと最上さんから聞いたからな。抱えの記者を『セキラン』の竜房の前の厩舎に待機させて、証拠の写真を撮らせていたんだ」
かなり落ち着きを取り戻している最上は、どう対処するつもりだと尋ねた。
「警察にやらせる。遠慮も配慮も一切無しだ。厳格にやってもらうよ。なんなら私が使える政治力も全て使ってやる」
私を舐めた報いを受けさせてやると、武田は静かに激怒していた。
午後、竜柱が発表された。
注目はやはり主競走の『新竜賞』と『新月賞』。
皇都の第十競走『新竜賞』の竜柱は二頭が回避し十六頭立て。
『ジョウイッセン』は七枠十四番。
幕府の第十競走『新月賞』の竜柱は一頭が回避し十七頭立て。
『サケセキラン』は二枠三番。
警察からの事情聴取が終わり解放されると、岡部は真っ直ぐ『セキラン』の竜房へ向かった。
『セキラン』の体をくまなく調べた。
竜牙は血が滲み、目は潤み、後ろ脚も所々軟膏が塗られ血が滲んでいる。
満身創痍なその姿に思わず涙ぐみそうになった。
『セキラン』は完全に岡部を信頼しており顔を摺り寄せ続けている。
そんな『セキラン』が岡部から気をそらした。
岡部は後ろを振り向いた。
「綱一郎君。君、えらい男前な顔になっとるやないか」
戸川は優しい笑顔を岡部に向ける。
思わず涙が零れそうになった。
「どうして……明日の夜の予定じゃ?」
「こっちがどえらい事になってるって聞いてな。池田と長井に任せてすっ飛んできた」
岡部は『セキラン』を一瞥し戸川に頭を下げた。
「申し訳ありません。『セキラン』に怪我をさせてしまいました」
「走れそうなん?」
岡部は戸川に後脚の傷を見せた。
「後ろ脚がどうかというところですが、間違いなく万全ではないと思います」
「起きてもうた事はしゃあないよ」
岡部は俯いて悔しがった。
戸川は静かに岡部に近寄ると優しく頭を撫でた。
「君のせいやない。『セキラン』も君も無事や。命あっての物種やがな」
戸川も『セキラン』の状態を確認した。
「これ、竜牙は別のを使うた方が良えな。後脚は何とも言えへんなあ」
岡部は無言で『セキラン』の首を撫で続けている。
戸川は予想以上に落ち込んでいる岡部を見ても、どうしたら良いかわからなかった。
ただ声をかけ続けなければと必死だった。
「綱一郎君、君、何ぞ勘違いしてるんと違うか?」
岡部は顔を上げて戸川を見る。
「本番はここやないぞ。来年の『上巳賞』やで? 敵は今回の十五頭やないぞ。今皇都にいる『イッセン』やで?」
「そうですね……ここで無理させる事もないですね」
岡部はやっと表情を和らげた。
「そうやで。経緯なんどうでも良えねん。『上巳賞』に勝てたら問題ないんや。気楽に行こうや」
武田と最上が『セキラン』の竜房にやってきた。
最上は戸川を見て状況はどうだと尋ねた。
これだと競走にならないかもしれないと戸川は答えた。
「一度ならず二度も……重ね重ね申し訳ない」
武田は戸川に深々と頭を下げた。
最上はそれを見て人の悪そうな笑みをうかべた。
「戸川、岡部君。今日はお詫びに武田会長が奮発してくれるそうだよ」
最上は武田から顔を背けほくそ笑んでいる。
武田は最上の袖を引いた。
「おい最上さん、それはないだろう。私だってだね……」
「経過より結果がどうのって、誰か大見得を切っていたような……」
武田はバツの悪い顔で最上を見た。
「わかった。奢る! 奢れば良いんだろ!」
武田はやれやれといった仕草をした。
そういう事だから三浦に言って来れそうな人を集めさせろと、最上は岡部に命じた。
急な召集で、来れたのは、三浦、高城、清水、正木以外には厩務員が二人という状況だった。
最上は事務長の大森も無理に連れ出した。
合わせる顔がないと大森は渋ったのだが、一番合わせる顔の無い人が主催だからと説得した。
武田は流石に最大会派『雷雲会』の会長だけあり、会場は代々木の超高級料亭の一室だった。
武田が音頭を取ると思い思いに食事をとった。
最上が麦酒を頼もうとすると、武田はせこい事を言うなと言って『越後の大吟醸』を持って来させた。
一同に歓声が上がり沈み気味だった雰囲気は一気に盛り上がった。
「まさか本当にこんな事になるなんてなあ。過熱報道も極まってるなあ」
武田は信じられないという顔をする。
だが、最上はいつもの事だと言って不貞腐れた。
「皇都の良い竜が幕府で悪戯されるっていうのは有名な噂ですよ」
高城は吟醸酒で舌が滑らかになり、そう武田に指摘した。
「そうだったのか……私は聞いた事が無かったが……」
「武田さんとこは組織が大きすぎて手が出せないだけの話だ」
最上は吐き捨てるように言った。
「じゃあ他の会派も毎回こうなのか?」
一同は静まり返っている。
「何で誰も私に言ってこないんだよ!」
「みんな諦めているんだよ」
最上は武田を裸の王様を見るような哀れみの目で見た。
「いや諦めるって……公正競争違反なんだぞ? 殺人と同級の重犯罪だぞ?」
何を馬鹿な事を言ってるんだという口調で武田言った。
「……何となくわかります」
最上と武田が岡部を見た。
「今回こうして接して人となりを見せていただきましたから、そうじゃないってわかりますけど」
そこまで言って岡部はお猪口を口に運んだ。
酒が昼間の殴り合いでできた傷に触って少し痛んだ。
顔を少ししかめ、続きを話し始めた。
「稲妻牧場系以外の会派からしたら、もしかしたら武田会長が指示してるんじゃないかって」
「それじゃあ何か? 私は平気で大罪犯す人物だと思われてるってことか? ありえんだろ! どんな中傷だよ」
最上は武田に酒を注いで落ち着かせた。
「そう訝られているって話だよ。そうやって悪意を武田さんに反らせるのも犯人集団の思惑だろ」
「犯人集団絶対許さんからな!」
武田は怒りに任せて米酒をくいっと飲み干した。
最上は苦笑いして武田に酒を注いだ。
「そういう態度を常に表に出せよ。竜主会長なんて肩書きですまし顔してるから、痛くもない腹を探られるんだ」
「いやあ、最上さんは威圧を表に出し過ぎだわ。大森君泣きそうになってたじゃない。かわいそうに」
二人はお猪口を片手に笑いあった。
大森は最上を見て、ヒグマに睨まれたのかと思った、何かを覚悟したと顔を引きつらせた。
その一言で場が笑いで包まれた。
そろそろお開きだという頃に、三浦厩舎の中里が最上に土下座をした。
最上は何のつもりだと三浦を見た。
「あの時、僕が騙されて『セキラン』を放置しなかったらこんな事には……」
お前のせいじゃないって何度も言ってるだろうと三浦は中里を慰めた。
だが中里は申し訳ありませんと土下座のまま震えていて、三浦の話を聞いていない。
すると戸川が岡部を見てにやっとした。
「だとしたら綱一郎君も同罪やな。土下座せんでも良えの?」
岡部も戸川の意図を察した。
「僕は『セキラン』を害してませんし、害したやつらの仲間でもないですよ。なんでそんな事しなきゃいけないんですか」
岡部はわざとらしく心外だという態度をとった。
「そしたら彼は害したやつらの仲間なん?」
中里は戸川の顔を見て滅相もないと震えた。
酔っぱらった最上がその三文芝居に入り込んできた。
「ではお前は何をそんなに怯えているんだ?」
戸川は悪い顔を中里に向けた。
「まだ何ややましい事があるんやったら、全部吐き出した方が身のためやぞ?」
中里は何もありませんと言って震えている。
「ならば気に病む事など何も無いではないか」
最上がそう言うと、戸川と岡部は三浦を見て締めを促した。
「中里。皆さんこうおっしゃってくれている。もう自分を責めるのは止めろ」
中里は涙目で顔を上げた。
「頭が高い!」
酔った武田が明らかに的外れな事を言い、一同は大笑いした。
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