第43話 弱点
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・坂崎…戸川厩舎の厩務員
・池田…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・木村…戸川厩舎の厩務員、解雇
・大野…戸川厩舎の厩務員、解雇
・垣屋…戸川厩舎の厩務員
・並河…戸川厩舎の厩務員
・牧…戸川厩舎の厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・花房…戸川厩舎の厩務員
・庄…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川…尼子会の調教師(呂級)
・南条…赤根会の調教師(呂級)
・相良…山桜会の調教師(呂級)
・津野…相良厩舎の調教助手
・井戸…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
『サケセキラン』は新竜戦の時とは異なり熱発は起こさなかった。
脚の発熱もなく、前回に比べれば反動は少ない。
土曜の新聞は『青毛の風神、剛脚一閃』『芦毛の雷神、全竜瞬殺』と大盛り上がりだった。
いつの間にやら『セキラン』には『芦毛の雷神』というあだ名が定着しているらしい。
『セキラン』の名は、登録時の説明で『積乱雲から』と記載されており、そこから想起されたものらしい。
『セキラン』に『雷神』というあだ名が定着すると、自然と『ジョウイッセン』には『風神』というあだ名が付けられた。
月曜になると戸川は報道の記者の質問攻めに会い、運営業務は専ら岡部が代行している。
戸川は自分が取材を受けるから、厩務員への取材はやめてくれと頼んでおり、そのおかげで厩務員は自分の業務に集中できている。
「先週の下見所は酷かったですね。今週もああなんですかね?」
岡部は長井に愚痴った。
「もしかすると先週より酷いかもな。来週なんてもっとやぞ?」
長井が脅すと岡部は小さく悲鳴をあげた。
「遮眼帽(=周囲の音を遮る覆面)を被せるとかした方が良いのかも」
長井は岡部の提案を少し考えた。
「あれ、嫌がる仔は嫌がるぞ?」
競争前に暴れたら競争どころじゃなくなると長井は反対した。
「でも先日のあれを思うとね。下見所だけ被せて入場前に取るとかならどうでしょう?」
「竜はうちらが思うより賢いからな。慣れさせる方向の方が良えと僕は思うけどな」
それもあるけどと言って、長井は話を別の方向に持っていく。
「『セキラン』、来週のどこで輸送させるんやろうな。君、聞いてる?」
「聞いてないですね。僕は、日曜に持って行くのが良いと思ってますけど」
金曜の競争で日曜輸送は早くないかなと長井は思ったが、岡部の事だから何かしら考えがあるのだろうと察した。
「明後日、また松下入れて会議やろうな」
「でしょうね。実は僕も一つ気になってる事があるんですよね……」
それもその会議で聞きますと長井に言うと、長井もそれ以上の追及を止めた。
結局、月曜、火曜の二日間、丸一日、戸川は報道の対応に追われた。
だが、水曜の午前は極秘会議だからと報道を締め出した。
会議は、戸川、岡部、長井、松下に池田を加えた五人で行われた。
「先生、報道対応、大変そうですね」
岡部が戸川を心配そうな顔で見る。
「毎回同じ事聞かれてな。毎回同じ事答えるんやで。もう飽きたわ」
帰って麦酒が呑みたいと戸川は唸った。
わかるわかると言い合って場が笑いに包まれた。
「綱一郎君、全部投げてしもうてすまんな。そっちも大変やろ」
戸川が労うと、もう慣れましたと岡部は笑った。
「池田も、これからは毎回会議出てもらうから頼むな」
遅れて会議室にやってきた池田に、戸川はちくりと言った。
「いやいや、出ますって。出るから忘れずに声かけてくださいよ」
池田は岡部を見て苦笑いした。
池田に連絡を失念していた岡部は、両手を合わせ池田を拝んだ。
さて会議始めようと言って戸川は手を打った。
議題はもちろん『セキラン』の事である。
「ここからは今週の最終予選を抜ける事を前提で話をする」
戸川が前置きを話すと、松下がそこは余裕でしょうと笑い出した。
「まずは輸送時期なんやけど、僕は火曜にしよう思うてるんやけど皆はどう思う」
戸川が提案すると、真っ先に岡部が日曜を推した。
「僕は土曜様子見て日曜に持って行くのが良いと思います。一日でも長く向こうの匂いに慣れさせる方が良いんじゃないかと」
「なるほどなあ。確かにそれも一理あるなあ」
戸川は岡部の提案に唸った。
「平日やと幕府は道が異常に混みますからね。僕も岡部君の案に賛成ですね」
池田もそう言って日曜を推した。
それでも悩む戸川に岡部は強い一言を叩きこんだ。
「牧さんの言った、少しでも悪戯されたら竜主会に報告するという話があるんで、なるべく長い日数いた方が良いというのもあります」
そうだったと戸川が手をパンと叩き輸送は日曜日に決まった。
「幕府には綱一郎君に土曜に先行で行ってもらおうと思う。僕は木曜の夜に行くから」
戸川がそう言うと岡部は目を丸くして驚いた。
「え? 僕だけで行くんですか? 『セキラン』の世話とか調整追切とかは?」
「世話は三浦さんのとこでやってもらうから気にせんで良えよ。調教は君がやっても良えし、喜入君や高城君に頼んでも良えよ」
そこは君の裁量に任せると戸川は微笑んだ。
喜入君は三浦さんのところの契約騎手、高城君は調教助手だと長井が説明した。
「報道がごっついうるさいやろうけど、そこは……その……頑張ってくれ」
戸川が疲れた顔で言うと、岡部もげんなりした顔をした。
「下見所の事なんですけど、遮眼帽被せたりしなくて大丈夫でしょうか?」
岡部が尋ねると戸川だけじゃなく松下と池田も猛反対した。
竜は賢いから一度慣れさせれば嫌がらない。
だから対策するより慣れさせた方が断然良いという事だった。
「実は先週の競争の後から、とても気になってる事がありまして……」
岡部は真面目な顔で松下を見つめた。
戸川は何事かと不安な顔をした。
「もしかしてなんですけど、『セキラン』松下さんの指示聞かないとかありますか?」
松下は少し焦った顔で黙っている。
戸川は口に手を当て考えこんだ。
「どうしてそないな風に思うん? 確かに先週の競争は酷かったけども、初戦なん普通に走ってたやん」
岡部の指摘に長井はかなり驚いて尋ねた。
「前走の検量の時の事なんですけどね、松下さんが指示を聞かなかったと取れる事を言った気がしまして」
確かにそう取れる事を言っていたなと言って戸川はさらに考え込んだ。
「ちゃんと指示は出してるんやけどね。確かに言う事は聞かへんね。一見すると好き勝手走ってる感じやわ」
告白するように松下は言った。
「は? 好き勝手走ってアレなん? 規格外いうかバケモンいうか……」
池田はかなり驚いた顔をする。
「どこかで調教計画を誤ったんでしょうか?」
岡部は長井を見てから戸川の顔を見た。
「新竜いうても、まだまだ子供やからな。そういうやんちゃな仔でも、いづれはちゃんと落ち着いてくるから、そない心配せんでも良えと思うけどね」
戸川は、そう言って岡部を慰めた。
だが松下が意外な事を言い出した。
「そういうんやないんですわ。あの仔、自分の走る速さを制御できへんのです」
一同、松下の言う意味が解らず、松下はさらに補足した。
「普通の仔は変速をいくつか持ってるもんなんですけど、あの仔は二速しか無い言うたら、わかってもらえるやろか? それも減速が効かへんのです」
松下の説明を、真っ先に理解したのは長井だった。
「最悪やん。ほな一回行かせたら、もう行ったまんまいう事やんけ」
長井は顔を曇らせて言った。
「そやから、あの前走やったんですよ。あれしかできひんのです」
松下は苦悶の表情で説明した。
戸川も呆れた顔をした。
「それやったら、もういっその事、最初から大逃げかましたらどうなん?」
長井は、かなり困り顔でそう提案した。
「そんなん捕まってまいますよ。無限の体力があるわけやないですから。少なくとも『イッセン』には絶対通用しませんよ。はあ……僕がうまく乗るしかないんやろうな。せめてもう一速あれば……」
松下は巨大なため息を付いて頭を抱えた。
午後、最終予選の竜柱が発表になった。
『サケセキラン』は金曜第十競走、十八頭立て三枠六番。
『ジョウイッセン」は木曜第十競走、十八頭立て七枠十四番。
翌日、中継映像を見ようと垣屋や庄と先週同様に食堂へ向かった。
戸川は『セキフウ』の出走予定があり競竜場の方に行っている。
食堂に入ると、吉川先生が画面前の特等席に陣取っていた。
岡部を見ると皇都の有名人が来場だとからかって場を爆笑させた。
その後で横に座れと手招きした。
周囲も岡部たちに席を譲ってくれた。
『セキフウ』の未勝利戦は第九競走。
『セキフウ』はここまで二戦して、八着、五着。
ただその二戦は短距離戦で、今回は今月から始まった中距離戦に出走している。
どうやら距離が伸びた事で本来の性能が発揮されたらしい。
『セキフウ』は一着から差の無い二着に終わった。
「あの感じやったら、さらに距離が伸びたら、もっと良くなるやろな」
吉川は自分の厩舎の竜のように嬉しそうに話している。
最初は吉川の威圧の強さに脅えていた庄だったが、その顔を見て少し気持ちが緩んだようだ。
いよいよ『イッセン』の競走の番になった。
下見ではあいかわらず堂々としており、これが本当に新竜かといった風である。
最終単勝倍率は安定の一・〇倍。
「こいつに本命印付けれへんようなひねくれ者は、竜券辞めたほうが良え」
垣屋は悔しそうに笑った。
『イッセン』は前回とは異なり、発走してすぐ先頭集団に取付いた。
三角でもじっくりその順位を保持。
四角を過ぎるとすっと先頭に躍り出て、直線で一旦伸びてからその差を保ったまま終着した。
完全に最終調整という感じの内容であった。
「『先良し、中良し、終い良し』まさに名竜やな」
横で見ていた吉川調教師がそう評価した。
岡部も同感だと頷いた。
それでも『上巳賞』は『セキラン』だという声が出ると、食堂はまたも歓声があがった。
翌日、『セキラン』の番が来た。
下見所の観客の数は明らかに前回より多い。
『セキラン』を曳いていた岡部は、『セキラン』が写真の発光を、ほとんど気にしていない事に驚いた。
ざわついた観客の声すら、ほとんど気にしていない。
たまに指笛を吹くやつがいて、それに反応しているくらいだった。
他の竜は、後脚を跳ね暴れる竜や首を振って嫌がる竜が続出。
またもや調教師が係員に詰め寄って口論になっている。
松下は『セキラン』に乗ると、前回のちゃかつきが嘘みたいに落ち着いてると首を撫でた。
他の竜の中には騎手を振り落した竜が出ている。
各竜が発走機に収まった。
出遅れや出負けする竜が何頭も出る中、『セキラン』はしっかりと発走。
『セキラン』は、先頭集団を勝手にささっと抜けてしまうと、二番手の竜と距離を取った状態で三角を回った。
曲線でも距離は詰まらず四角に近づく。
松下は右から後方をちらりと見ると、四角を過ぎてから一度だけ『セキラン』に合図した。
『セキラン』は、くいっと速度を上げ他竜の追随をあざ笑うように加速。
そのままゆったりと終着した。
松下は検量室に戻ると、これが最良だろうかと岡部を見た。
前か後ろかしかないでしょうねと言って岡部は鞍を渡した。
検量を終え松下と戸川が戻ってきた。
「果たして、これが来週もできるかやな」
戸川は今回の出来には満足したらしく、表情はかなり穏やかである。
「今回は他の竜が暴れまくりでしたからね。その点この仔はよく落ち着いてましたよ」
岡部は『セキラン』の首を撫でた。
『セキラン』は顔を岡部に摺り寄せ鳴き声をあげた。
「これだけ強い勝ち方できれば、来週も余裕なんですけどね」
岡部も手放しでは喜んではいなかった。
「まあ、今回は『イッセン』がおらへんのやから何とかなるやろ」
松下が楽観がすぎると言って戸川を笑った。
「前回おちょけて出遅れたお前に言われたないわ!」
新竜戦から三戦三勝。
二戦連続で最終単勝倍率一・〇倍。
『芦毛の雷神』が、いよいよ幕府に乗り込むことになった。
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