第50話 江の島
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産相談役
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(伊級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・長野業銑…岡部厩舎の調教師補佐
・関口氏勉、高橋圭種、遊佐孝光…岡部厩舎の厩務員
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
奈菜も寝起きの悪さは大概だが、まなみも負けていなかった。
小田原の大宿に着き、義悦に抱き起された衝撃で目が覚めた。
急に泣き出し、帰りたいと喚き出してしまったのだった。
義悦が抱っこして、あやしているのだが、まなみはぐずり続けている。
受付横の待合に座り、あげはが膝に乗せ、背中をぽんぽんと叩き続けると少し落ち着いた。
あげはの話によると、まなみは普段は明るく聞き分けの良い娘なのだが、義悦には我がままを言って困らせる。
母のすみれにも怒られるほど、義悦に対してだけ我がままになるらしい。
義悦が二人だけで出かけるのを嫌がる最大の原因がそれだったりする。
外面が良いだけで甘えん坊なんだと、義悦は困り顔をした。
奈菜の頭を撫でながら、「うちのは人見知りの甘えん坊」と岡部が言うと義悦は笑い出した。
幸綱の手を引いて風呂場に行くと、義悦と最上が待っていた。
「義悦さんのところは、生まれるのいつくらいになりそうなんです?」
「十月くらいらしいですね。名前をなんて付けようか今から悩んでます。先生はどうやって名前を付けたんですか?」
最上の隣で湯舟の段に腰かけ、「じいたん、ぶんぶ」と言いながら嬉しそうに足をばたばたしている幸綱を二人は見た。
「僕は、奈菜の時に、男の子なら『幸』の字を使おうと決めてたんですよ。だから服部の子にも『幸』の字を使ったんです」
「なるほど、なるほど。じゃあ、うちは通字が『義』ですから、『義幸』か『幸義』って感じですか」
するとそれを聞いていた最上が「義幸」と何度か呟いた。
最上の呟きから、義悦も『幸義』よりは『義幸』だなと感じたらしい。
「義幸、義幸。確かに結構良い名前ですね。候補の一つにいただいておきますよ」
その後、競竜の話をしていると幸綱がのぼせそうになったので、早めに風呂をあがり食堂へと向かった。
晩酌を済ませ、もう一度風呂に入り部屋に戻ってくると、梨奈が窓辺で涼んでいた。
幸綱はもうすっかり夢の中の住人と化している。
今回、部屋割りは梨奈が勝ったらしく、にこにこ顔で岡部の顔を見ている。
長い濡れ髪を肩で束ね、胸前に垂らしている。
足を組んでおり、細く白い足が浴衣の裾から伸びている。
細身の体に浴衣が実によく似合っている。
「奈菜、怒ってなかった?」
「母さんのいびきがうるさいから嫌やって、文句ぶうぶう言うてはった」
「うるさいも何も、その前に寝ちゃうくせにね」
そう言って二人は笑いあった。
夫婦二人水入らずなんていつ以来であろうか。
「やっと、まなみちゃんと、まともにお話できるようになったみたいやね」
「あんな感じで、来年の小学校大丈夫なのかな?」
「何をするにも、少し時間のかかる娘やから、気長に見るしかないんやないかな」
梨奈はあえて言わなかったが、幼稚園での酷い待遇が奈菜を酷く臆病な性格にしてしまったらしい。
それは岡部も感じている事であった。
「食が細いみたいだけど、給食食べきれるのかねえ」
「のんびり食べる娘やからねえ、心配やね」
梨奈が用意してくれていた缶麦酒をくっと喉に流し込み、少し赤い顔で梨奈の顔をじっと見つめる。
梨奈が微笑むと、岡部は手を前で組み一呼吸置き小さく息を吐いた。
「来年、外国に行く事にしたんだ。ゴールにも行こうと思う。梨奈ちゃんは来れるかな?」
「ほんまにゴールに行かはるんやね」
「来年四月にデカンに行って、七月にゴール、秋にはブリタニスかペヨーテに行くつもり」
岡部の目はいつもの優しい目ではなく、かなり覚悟のできた力強いものであった。
そんな目も梨奈にとっては愛おしい。
「決勝だけ見に行けたら行くね。そやないと、熱出て倒れてまうから」
「それで良いよ。梨奈ちゃんに何かあったら義父さんに会わせる顔が無いもん」
「綱一郎さんも無理せんといてね。無事に帰ってきてくれはったら、私はそれで良えんやから」
二人が少し良い雰囲気になったところで、幸綱が泣き出してしまい、岡部は幸綱のところへ行ってしまった。
翌朝、奈菜は岡部の姿を見て走って飛びついた。
朝から元気だなと声をかけると、今日はどこ行くのと聞いてきた。
奈菜を抱っこして、江の島だよと言うと、やったあと言って抱き着いた。
朝食を食べ終え、輸送車に乗って江の島へと向かった。
境川河口から、長い橋に乗ると江の島に到着。
駐車場で降りて江島神社へと向かった。
青銅の鳥居を過ぎ、細い仲見世通りを真っ直ぐ歩くと竜宮城のような門が現れる。
どうやらそう感じたのは岡部だけじゃなかったらしい。
まなみと奈菜も竜宮城みたいと興奮気味にはしゃいでいる。
梨奈は目ざとく左手に有料の移動階段を見つけ、上で待ってると言って、直美と最上夫妻、子供たち三人で行ってしまった。
残された岡部と義悦は、二人で階段を上っていく事になった。
途中の手水舎で手を清め、さらに階段を上って行く。
岡部は定期的に竜に騎乗して体を鍛えているが、義悦はそうではないらしい。
階段を上りきった時には息が切れてしまっていた。
義悦の息が整ってきたところで辺津宮に参拝。
帰りに食事をしようという事になったのだが、少し時間が早く、どうせなら小田原に帰って市場で食べてはどうかという話になった。
まなみも奈菜もかなり渋っていたのだが、あげはが、「蒲鉾と出汁巻卵はそっちの方が美味しいと思うわよ」と言うと、一転大喜びだった。
輸送車は小田原市内外れの早川港へと向かった。
早川港は三宅島などの小笠原郡への船便が出ている港であり、かつ漁港でもある。
近くには小笠原郡の物産市場が建てられており、その隣に早川港の鮮魚市場が建てられている。
さらには食堂も併設されている。
明らかにここ数年の観光名所である。
まずは何を置いても生シラスだという事で、食堂で生シラス丼を皆で注文。
出てきたのは、丼に生のシラスが山になっており、その周りに青葱が散りばめられ、上に擦った生姜が乗っている代物だった。
上から醤油を垂らし、生姜をまぶして一口口に入れてみる。
生のシラスは、生魚特有の旨味と、少しプチプチ感のある不思議な食べ物だった。
これがまた実に旨い。
「おお、これは! これを食べてしまったら釜揚げは食べれないですね!」
「そうだろう、そうだろう! これがな、日付が経つと、この張りが失われて溶けたようになってしまうんだよ」
「言ってた意味がわかりますよ。この触感込みの旨さですよね!」
「それがあるから大宿でも出すのが難しいのよ」と、あげはが残念そうに言った。
「たいていの魚は獲ったばかりは水っぽく、さばいて一日二日寝かせると旨くなるんだが、こればかりは、そうじゃないんだよ。朝上がったものを冷蔵庫で冷やして、その日の昼か夜に食べるのが良いんだ」
すると奈菜が岡部の袖を引っ張って、「このかまぼこ、すごいおいしい」と言って嬉しそうな顔をした。
一口食べると確かに白身魚独特の良い風味が口全体に広がり絶品であった。
「確かにこの蒲鉾旨っ! 多賀城に行った時の笹蒲鉾と同じくらい美味しい!」
「ここは昔から蒲鉾が有名だからな。工場に行けば手作りで作らせてくれるよ。これが、なかなか上手にはいかないんだけどな」
後で買って行こうと言うと奈菜がやったあと喜んだ。
すると奈菜たちのやり取りを見ていたまなみが、「このたまごも、すごくおいしい」と義悦に報告した。
「市場で目の前で焼いてもらうのは、もっと美味しいのよ」とあげはが言うと、「後で買って行こう」と、義悦もまなみに言った。
「そう言えば、幸君は何が好きなんだ? あまりそういう話を聞かないんだが?」
「僕が知ってるのは、馬鈴薯と唐黍が大好きという事でしょうか」
芋類が全般的に好きみたいと、幸綱の頭を撫でながら梨奈が最上に言った。
「ほう! それは氏家に教えておかないといけないな。きっと毎年大量に送ってくれるぞ」
「そうですね。そのうち北国にも連れて行きますよ」
するとその会話を聞いていたあげはがクスクスと笑い出した。
「芋が好きだなんて、食糧難の時は困らない子ね」
それを聞いた最上と直美が大笑いした。
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