第45話 慰労
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産相談役
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(伊級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・長野業銑…岡部厩舎の調教師補佐
・関口氏勉、高橋圭種、遊佐孝光…岡部厩舎の厩務員
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
その日の夜、いつものように部屋割りで揉めた。
たまに怖い夢を見たと言って泣きながら布団に潜り込んでくる事はあるものの、奈菜は普段は一人で寝ている。
ただ、旅先では心細いと甘えて岡部の布団に入ってきたがる。
一方の幸綱は、よちよちながらも元気に歩き回るようになり、まだ夜泣きもする。
大抵は横で寝ている人が体をぽんぽんとすれば安心して寝てしまうのだが、おむつを替える事もある。
その為、体力的に梨奈は幸綱と二人だけというのは厳しい。
であれば、そこは直美ではなく岡部と一緒が良い。
こうして、またもや梨奈と奈菜で部屋割りで揉める事になった。
岡部としては、どっちでも良いと思っているが、それを正直に口に出すと梨奈がピリピリする。
そこで「明日苺狩りして帰ろうと思うから、二人で仲良く決めてね」と言い残し、幸綱を抱っこして浴場に向かった。
つまり、揉めたら苺狩りは無しだと暗に言っているである。
義悦と最上と四人で風呂に入った。
風呂は少し深く、義悦が幸綱をお風呂に入れると、幸綱は義悦にしがみついたままになってしまった。
「男の子は良いなあ」と義悦がしみじみ言う。
「お! 幸君、泣かないねえ。結構お風呂熱いのに。意外と我慢強いね」
「熱い風呂は平気みたいなんですよね。ただ最近、風呂自体を嫌がって泣く事が多くって」
岡部がそう言うと、私に変わってくれと最上が言い出した。
義悦の代わりに最上が抱くと、今度は最上にしがみついた。
その姿を義悦が慈愛に満ちた目で見つめている。
「こういうの可愛いくてたまらないですよね」
「ですね。ですけど、あまり長湯させると粗相するので、そこらへんにしときましょうかね」
岡部が幸綱を抱き上げると、幸綱は「ぶんぶう」と言って足をばたばたさせ、お湯を蹴った。
それが顔にもろにかかり、最上は笑いながら顔を拭った。
脱衣所に行くと服部親子と畠山親子が入ってきた。
幸綱に寝巻の甚平を着せ、畠山の息子の義勝に、果実牛乳をお駄賃に幸綱を見ていてくれとお願いした。
義勝はかなり困惑した顔をしたが、畠山と服部から凄い大役だと煽られ、嬉しそうに目を輝かせて引き受けた。
岡部は義勝の頭を撫で、幸綱お気に入りの電車の模型の玩具を渡し風呂に入りなおした。
服部たちが湯舟につかると、話題は秋の重賞の事になった。
「武田くんと藤田さんが飛燕を作っているので、秋はここまで楽ではないでしょうね」
そう岡部が言うと、畠山が素朴な疑問を口にした。
「最近気になってるんですけど、全員が飛燕を作る事って可能なんですか?」
それは服部も義悦も最上も疑問に思っていたらしい。
「馴致でできてしまえばそうなるでしょうけど、当面は成績上位者以外、無理だと思いますよ」
原因は、そこまで竜を追い込む必要があるから。
生半可な技術では竜を怪我させるだけ。
恐らくここからは、伊級でもごく一部とそれ以外という差が出てくる。
「ごく一部の調教師が重賞の常連となって、それ以外は全く歯が立たないという状況になるでしょうね」
「そしたら、そこの上澄みだけで、調教や騎乗技術で勝負するいう感じになるんですか?」
「ですね。でもそれって少し前の状況と変わらないですよね」
確かに言われてみれば飛燕ができる前の状況もそんな状況であった。
実際、今飛燕を作ろうと躍起になっている調教師は、元々首位争いをしていたような人たちばかりである。
「なるほど。じゃあ海外はどうなんでしょう?」
その畠山の質問に、岡部は少し答えづらそうにした。
だがどうしても知りたいという感じの畠山たちに小声で回答した。
「多分、しばらくは『竜王賞』と『八田記念』は瑞穂が取り続けられると思う。今の彼らと、瑞穂の上層なら、瑞穂の方が調教技術は高いと思うよ」
その回答に、畠山と服部がかなり驚いた顔をした。
「どういう事ですか? だって今まで全然勝ててへんかったやないですか」
「今までは調教の根本が違ってたんです。なのに、それに食らいついて来れてたんですよ」
「あ! ほな、飛燕になった今なら!」
岡部は静かに頷いた。
幸正がもう風呂を出ると言うので、岡部、最上、義悦は一緒に風呂を上がった。
義勝にお礼を言い、岡部は幸正の体を拭き寝巻を着せた。
その後、服部たちが風呂から出るまで、湯冷ましして過ごした。
あそこまで人が多いと、しんどいと言って、最上は按摩椅子に乗り続けている。
岡部は扇風機の前で幸正のおしゃべりを聞いている。
義悦は幸綱を抱き上げて、頬を突いて可愛がっている。
義悦の膝の上で、幸綱も嬉しそうに電車の玩具を見せびらかしている。
幸綱と一緒に部屋に戻ると、奈菜が布団の上で足を外に出してぺたりと座って電視機を見ていた。
「ねえたん」と言って、幸綱が奈菜の方に歩いていく。
幸綱の頭を撫でて、奈菜はお風呂どうだったとたずねた。
岡部が窓際の椅子に腰かけると、幸綱がやってきて両手を広げた。
奈菜は対面の椅子にちょこんと腰かけて、足を前後にパタパタさせる。
いつもの可愛い橙色の寝巻を着た奈菜は、長い髪を無造作に背中に垂らしている。
「結局、奈菜になったんだね。こっちで寝るの」
「いちごいきたいから、がまんしはるんやって」
奈菜はあっけらかんとした顔で言うのだが、何となく背筋に冷たいものを感じる。
「……母さん怒ってなかった?」
「ばあちゃんがおこってはった。いちごいけへんでしょって。かあさん、ぶうってなってた」
今頃、向こうの部屋はかなり空気が悪いんだろうなと思い、思わず顔が引きつる。
「いちご!」と言って膝に座っている幸綱が岡部の顔を触ってきた。
「明日、苺、食べようね」と言って岡部は幸綱の頭を撫でた。
その後、しばらく幸綱の背中をぽんぽんと叩きながら奈菜の話を聞いた。
徐々に幸綱が瞼をゆっくり落とし始める。
指を咥えて寝たのを見て梨奈の部屋へと寝かしに行った。
翌朝、目が覚めると、奈菜は岡部にしがみついて涎を垂らして寝ていた。
熱が出ていたりしないかと気になったが、そんな事はなかった。
以前のように所狭しと暴れまわる感じじゃなく、ずいぶんと成長したものだと嬉しさが込み上げてくる。
寝る前は岡部の左側だったのが右側に移ってはいたが。
朝食を食べ終えた後、最上夫妻、義悦親子、服部家、畠山家と合同で花公園へ向かった。
一通り公園を見て回った後、いよいよ苺狩りに向かった。
幸綱に苺を食べさせていると、奈菜が岡部の服を引っ張った。
「とうさん、いちごすっぱいんやけど、どれがおいしいん?」
一つ食べた奈菜が眉をひそめて聞いてきた。
いくつかの苺の中から一つを摘む。
「ヘタの部分が、こうやって開いてるやつが美味しいんだよ。これを食べてごらん」
「ほんまや! あまくておいしい!」
畠山一家と服部一家も、おお、本当だと言い合っている。
義悦だけじゃなく最上まで、おおと唸った。
そんな最上を冷ややかな目であげはが見る。
「桃色になってるやつは傷んだやつだから食べちゃダメだよ」
「ねえ、とうさん。わからへんから、ななのもえらんで」
幸綱と奈菜、二人の苺を選ぶ岡部を見て、琴美は先生もすっかりお父さんだと笑い出した。
美味しそうに苺を食べる奈菜を見て、梨奈がくすくす笑い出した。
「懐かしいわあ。昔、駿府で私も同じ事聞いて、それ知ったんやった」
「ああ、石垣苺ね」
あの時の苺の味は今でも忘れないと、梨奈が幸せそうな顔で苺を頬張った。
「あの時、父さん、興味無い言うて外で苺酒呑んではって」
「そうだった、そうだった」
「食べ終わって出てきたら、父さん瓶二本抱えて寝てはるんやもん」
戸川らしい、目に浮かぶようだと最上が大笑いした。
「あの時の漬け卵飯、今となってはすっかり駿府の大宿の名物なのよ」
そう言ってあげはは苺を摘まみながら笑った。
「人気商品ちゅうけん、お取り寄せで食べてみたばい。がばい美味しかったとよ。そいばってん、あれば食べた時に、今度駿府に行こうって言いっとったけど、まだ連れて行ってもらえとらんねえ」
そう言って琴美が文句を言って服部の姿を探す。
服部は小さく屈んで苺の陰に隠れて琴美の視線をかわしていた。
すると、お取り寄せって何の話なんですかと、芽衣が琴美にたずねた。
あげはから説明を受けると、芽衣はすぐに携帯電話で紅花会に会員登録。
「これで全国の旨い物を食べつくせるのね!」
芽衣の逞しい言葉に一同は大笑いであった。
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