第35話 開花
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産相談役
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(伊級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・長野業銑…岡部厩舎の調教師補佐
・関口氏勉、高橋圭種、遊佐孝光…岡部厩舎の厩務員
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
大津の大宿は異常な盛り上がりだった。
宿側も祝賀会など初めての事で、皇都の大宿から担当者を呼び寄せたほどだった。
岡部厩舎は夜勤以外の厩務員全員が参加する事になった。
さらに南国牧場からはみつばたち、北国牧場からはあすかたち、三宅島から大宝寺、本社から大崎や各部長、いろはや奈江、すみれにまなみまで、会の重鎮がどっと押し寄せた。
会派設立以来の初の伊級重賞制覇に皆大興奮だった。
義悦が挨拶して乾杯の音頭をとると、会場はあっという間に収拾が付かなくなった。
本社では、日曜日の昼に、わざわざこの競争を見るために多くの社員が集まったらしい。
伊級は初めて見るという者も多く、まだ陽も高いというに大興奮で酒をあおっていたのだとか。
南国牧場でも牧夫が食堂に集結し、休みの牧夫までわざわざ来て皆で観戦していたらしい。
珍しくみつばがご機嫌である。
北国牧場も三宅島も同様の状況だったらしい。
岡部厩舎の面々は、会派の、それもそれなりに役職のある人たちからあれやこれや話を聞き、話を聞かれ、改めて自分たちが凄い結果を出したのだという実感を得たらしい。
翌日からの業務は皆かなり気合が入っていた。
月が替わり三月となった。
三月ともなれば、少しづつ暖かい日が増えてくる。
伊級の三月は世代戦の初戦、短距離戦の『雲雀賞』と、古竜の長距離戦『総理大臣賞』が行われる。
今年の岡部厩舎の世代戦は長距離竜の『ジョウラン』しかいない。
恐らく『ジョウラン』は中距離の『駒鳥賞』に出ても普通に圧勝できるだろう。
なんなら今週『雲雀賞』に出しても普通に勝てるかもしれない。
だが、あまりあれもこれもと欲をかいては余計な敵意を招く危険がある。
だから秋の『雷鳥賞』一本で行くと決めている。
実は先月までは『駒鳥賞』から使おうと少し思っていた。
だが『新春杯』終了後の検量室の雰囲気で完全に諦めた。
『ジョウラン』は今月から始まる長距離の能力戦に出走させ、放牧する事にしたのだった。
現状、古竜の長距離竜は『サイメイ』のみ。
『サイメイ』は正直そこまで良い竜というわけでは無い。
だが直近の三連勝はどれも圧勝だった。
明らかに現状なら重賞でも通用するだろう。
今回の鞍上は契約したばかりの畠山。
厩舎内で多少異論が出たが、ここで服部を乗せてしまうと、来年『ジョウラン』が古竜になった時に鞍上が被る事になるからだと岡部は説明した。
予選一、予選二と『サイメイ』は圧倒的だった。
それもそのはずで、短距離よりも長距離の方が速度の差が出やすいのである。
それをはっきりと見せつけたのだった。
二週の能力戦、世代最初の長距離の能力戦に出走した『ジョウラン』は終始他竜を圧倒した。
最後、服部はもはや追う事すらせず直線を流して終着させた。
それでも八竜身の差が付いたのである。
『サイメイ』の最終予選を控えた水曜日の追切で、西国の調教師の意識を変えさせる出来事が起こった。
昨年十一月、岡部は武田に、放牧をしたら『ジョウラン』の矯正ができたという話をしている。
そこで武田も駄目で元々と放牧に出してみた。
一月の帰厩をかなり心待ちにしていた武田だったのだが、帰郷後最初の追切を見てがっかりしてしまった。
飛び方は全く変わっていなかった。
岡部の竜を見てから、武田なりに『燕理論』についてずっと研究をし続けている。
武田の結論はみつばと同じで、血統によるというもの。
そこで武田は、自厩舎の竜のうち『ハナビシテンデン』というセプテントリオン系の長距離竜に絞って研究をしていた。
だが岡部の調教を思い出し、十二月から中距離の『ハナビシシュウテイ』も研究に加えた。
これもセプテントリオン系の竜で、どちらも素質はありながら現在は能力戦二級に甘んじている竜である。
さらに十二月からは、調教順が岡部の竜のすぐ後ろになるように板垣に指示している。
『燕理論』の研究対象の竜は非常にわかりやすい。
とにかく最初の飛び出しが鈍いのだ。
武田は個人的には『ハナビシテンデン』にかなりの期待をしていた。
もしこの竜が燕理論を会得すれば素質勝負に持ち込む事ができる。
そうなれば確実に岡部の竜に勝てると睨んでいたからだった。
この日も先に『テンデン』が飛び出した。
だがいつもと何も変わらない。
体を重そうにして、よろよろと飛び立っただけ。
今日もダメかと諦めていたその時だった。
『シュウテイ』が羽を丸め気味にし、風を掴むように素早く羽をばたつかせて飛び立ったのだった。
おもわず武田は小声で「やった」と呟いた。
岡部にもその声が聞こえ、双眼鏡で『シュウテイ』を見た。
間違いなくその飛行の姿は飛燕であった。
「やったで! 岡部くん、僕もやったで!」
その声は周囲の調教師に一斉に双眼鏡を握らせた。
嬉しさで武田が岡部の手を両手で握りしめた。
かなり興奮しており、力加減に失敗しており握りつぶさんばかりの強さで。
「やったね、武田くん! これで一緒に世界に行けるね!」
「ああ! ゴールでもペヨーテでもブリタニスでも、どこへでもついて行ったる!」
武田は目に涙を浮かべている。
岡部は握られていた手をぶらぶらとさせた。
『シュウテイ』を見た周囲の調教師は、やはり燕理論は可能なのだと改めて確信した。
武田の竜が飛燕になったという報は、即日常府に届けられた。
岡部以外にもやれるなら、岡部だけが特別ではないという事になる。
翌日から武田の厩舎に次々に調教師が押し寄せる事になった。
この日を境に、再度、東西で燕理論の研究が盛んに行われる事になったのだった。
『サイメイ』は順調に最終予選を勝ち、決勝へと駒を進めた。
翌週、『総理大臣賞』の決勝のため、東国から幾人かの調教師が訪れた。
彼らの興味は武田厩舎の『ハナビシシュウテイ』。
少しでも話を聞こうと武田厩舎に押しかけた。
特に熱心に話を聞いているのは藤田だった。
「まだ一頭が掴んだだけで、もう一頭がそうやないから、僕もわからへん事だらけなんですわ。そもそも、なんでずっとやってた『テンデン』やなく、後から始めた『シュウテイ』やったんやら。飛燕はわからへん事が多すぎんねん」
そう言って武田は困り顔をした。
だがその武田の数少ない情報の中に、藤田は何か得るものがあったらしい。
「そういう事か。『共鳴』か。可能性はあるな……」
そう藤田が呟くと、「次はお前の番かな」と織田が藤田の肩を叩いた。
「期待してるぞ」と松平も藤田の肩に手を置いた。
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