第33話 常府
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産相談役
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(伊級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・長野業銑…岡部厩舎の調教師補佐
・関口氏勉、高橋圭種、遊佐孝光…岡部厩舎の厩務員
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
岡部厩舎の『エンラ』と『スイコ』が新年一発目の重賞『昇竜新春杯』に挑戦している。
一月の新聞の話題は、大須賀の史上初の『呂級二年突破』一色だった。
岡部厩舎にも日競の萩原が個別に取材に来たほどだった。
最初にこの期の質がおかしいと話題になったのは松本だった。
初年度いきなり重賞の決勝に残った。
その松本を抑えて新人賞を取ったのが松井だった。
翌年、岡部が夏空三冠を制し、武田と共に二年で八級へ昇級。
その武田は史上四人目の『大賞典三階級制覇』を成し遂げている。
ここまで、実績上では一番地味だったのが大須賀だった。
その大須賀が、今回史上初の呂級二年突破という事で話題となったのだ。
わずか九年で伊級が三人、呂級が二人。
「先生を筆頭に『五伯楽』はごついすね。ほんまに毎年、ネタに事欠きまへんわ」
そう言って荻原は羨望の眼差しで岡部を見た。
「いくら持ち上げても珈琲のお替りくらいしか出ませんよ」
そう言うと、じゃあお願いしますと笑って荻原は空の器を差し出した。
その荻原が吉田と二人で岡部厩舎に来ている。
最初は『新春杯』の事だと思っていた。
だがどうやら違うらしい。
少し見てもらいたい資料があると言って、吉田が新聞の切り抜きを出してきた。
『セイメン』の近三戦の競争結果の記事である。
さらに、こちらも見て欲しいと言って別の新聞の切り抜きを出してきた。
それは十二月の『八田記念』の競争結果の記事。
何が言いたいのかすぐにわかったのだが、これが何かあるのかと岡部はとぼけた。
「見てくださいよ、この翔破時計を。国際競争の決着より、『セイメン』のここ三戦の方が早いんですよ!」
「へえ、そうだったんですね。去年の『八田記念』は外国竜の質が低かったんですかね?」
「はあ? 冗談でしょ。勝ったんはゴールのグランプリの三着竜でっせ?」
そう言って吉田はじっと岡部の顔を見続ける。
「ほら、三戦共に頭数が少なかったから、駆け引きが無いから気持ちよく飛んだんですよ。きっと」
岡部は吉田から目を反らし続け、吉田は目を細めて岡部を凝視し続けている。
「ふん。まあ、ええでしょ。今月の『新春杯』ではっきりするでしょ」
岡部は珈琲を一口飲み、じっとりした目でこちらを見ている吉田をちらりと見た。
「で、こんなの持ってきて何が言いたいんです?」
「海外に行きましょうよ! 絶対勝てますって!」
吉田は身を乗り出しているが、逆に岡部は少し身を引いている。
「行きたくても資格が無いんですよ。知ってるでしょ、それくらい」
「今年の結果で先生は確実に資格を得るでしょ。ほな、来年は行ってくれるんですね!」
吉田は何かを期待したようなニコニコ顔で岡部の発言を待っている。
「発言は控えます。ただ、皇都がそう期待しているというのは聞いていますよ」
まるで官僚答弁のような岡部の回答に、吉田は口を尖らせ露骨に不満顔をした。
吉田としては、行く気があるのか無いか、さらに『皇都』というのは、竜主会か競竜協会か、そういうところをはっきりと聞きたい。
だがこれ以上は言えないというのが岡部の言いたいところなのだろう。
「……先生、ずいぶんと取材の受け答えがうまなりましたね」
「おかげさまで」
予選一、さらにその翌週の予選二も『エンラ』と『スイコ』は余裕だった。
最終予選、『エンラ』は、本当にこれが最終予選なのかという強さであった。
一方の『スイコ』は、強いには強いが『エンラ』ほどではなかった。
決勝に向けて岡部は、服部、畠山、坂井、花房、赤井、山崎を引き連れて常府へと向かった。
残念ながら常府には紅藍系の調教師がいない。やむを得ず大須賀に連絡をし、案内を頼む事にした。
常府駅は東海道高速鉄道の終点の駅である。
大津からだと一度皇都に行き東海道高速鉄道に乗るか、中山道高速鉄道で幕府まで行って乗り換えるかとなる。
今回は幕府乗り換えの方で行った。
常府は霞ケ浦北西の都市である。
霞ケ浦は『浦』の字の通り、かつては深く入り組んだ湾であった。
その水源は日光連山から流れる鬼怒川。
だが鬼怒川は、火山活動や山の地滑りなどで大量の土砂も同時に運んできた。
ただでさえ、だだっ広い平地を走る川である。水に勢いというものがない。
そのため、大量の土砂が川底や河口にどんどん溜まっていく事になった。
徐々に河口付近の川幅は狭くなり、複数の支流に別れて、ちょろちょろと流れるだけになっていった。
それに合わせ、堆積した砂で港入口が閉じていき、巨大な湾は巨大な湖になっていった。
閉じたとはいえ、海岸近くは高波などで度々大きな水害にあっていたのだろう。
恐らく嵐を鎮める目的と思われる『鹿島神宮』という大きな神社が建てられた。
現在、霞ケ浦は西浦という巨大な湖と、北浦と言う南北に細長い湖に分かれている。
西浦は「レ」の字をしていて、切れ込みの部分一帯が常府である。
海産物が豊富だったこの地には太古の昔から集落が存在しており、国府が置かれて栄えていた。
街道が整備されると、皇都からの東海道の終点がこの常府となったのだった。
霞ケ浦周辺には、鹿島神宮の他に『香取神宮』というもう一つ大きな神社がある。
この二社によって、毎年、奉納された竜を競わせるという神事を行っていた。
この神事は昔から非常に人気があり、徐々に市民は金を賭けるようになり始めた。
神社が胴元をして莫大な儲けを得ていた。
ある時、皇都の御所からこの神事が不純であるとして中止命令が出た。
だがそうは言っても元は神事である。
続けていきたいという市民からの要望も強く、当時の常府の統治者だった八田氏が常府競竜場を作り、代理で執行する事になった。
この常府競竜場が竜を止級から伊級に切り替えて大成功を収めた。
高速道路と高速鉄道が整備される事になった際、東海道線をどこで終点にしようという議論があがった。
当初、終点は幕府で良いという意見が多数を占めていた。
だが長い目で見ればこの競竜場への交通費は、そこまでの延伸費用と相殺しておつりがくると考えられ、終点が常府に変わったのだった。
常府競竜場は、常府駅を降り路面電車に乗り換えて、霞ケ浦方面へ行ったところにある。
大須賀の話によると、決勝の日にはこの路面電車が五倍の増発になるらしい。
常府競竜場駅で降りると、目の前に巨大な白い建物が横たわっている。
「ここが常府競竜場……」
競竜場を見上げ、坂井がため息まじりに呟いた。
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