第32話 褒賞
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産相談役
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(伊級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・長野業銑…岡部厩舎の調教師補佐
・関口氏勉、高橋圭種、遊佐孝光…岡部厩舎の厩務員
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
二月に入り、大津もかなり白いものが舞う日が増えてきた。
近江郡は皇都と同じような周囲を山に囲まれた盆地地形であるのだが中央に琵琶湖があるせいで皇都ほど雪が降らない。
そんな大津でも二月は底冷えした上に雪が降り積もる。
雪が舞い散る中、岡部厩舎に事務長の藤堂がやってきた。
肩の雪を払いながら、事務棟にお客様がお見えになられましたと藤堂が告げた。
事前に連絡のあった叙勲の件である。
岡部と服部は傘をさして、藤堂に付いて事務棟へと向かった。
岡部は来賓室にはもう入り慣れているが、服部はそうではないため、がちがちに緊張してしまっている。
最上階に着くやいなや、「すみません、便所に」と言って、若干青い顔で駆けて行ってしまった。
だが最上階は便所の作りも他と違って格式高く作られている。
便所から出てきた服部はもっと緊張していた。
「服部。あんまり緊張しすぎて漏らすなよ」
からからと笑いながら岡部はからかった。
藤堂も笑い出したのだが、服部は漏らしたらどうしようと震えている。
来賓室に入ると、昨年も来ていた内務省式部課の菊亭主任が来ていた。
菊亭は名刺を二人に手渡し、岡部の顔を見て、お久しぶりですと握手を求めてきた。
用向きはわかっているのだが、岡部は服部をちらりと見て、今日はどのような御用件ですかとたずねた。
いたずら好きの菊亭は、服部を見て何かに気が付いたのだろう。
「先生、《《陛下》》がお待ちです」
殊更仰々しく言ったのだった。
服部が「ひぃ」と変な声をあげたので、菊亭もくすくす笑い出した。
昨年の事があり、警護をどうしようという話が内務省内でも出ているという話を菊亭はした。
出資者が潰れ、もうそういう輩は出ないとは思うと岡部は言うのだが、そういう話では無いと菊亭は言う。
「御所いう場所は、伝統的に見える場に無粋な警護を置かへんいうのが慣例となっているんです。そやけども、それによって個人的な恨みを晴らせる場になってもうたらあかんいう事も考えているんです」
そこで、今年から御所内の一般立ち入りを禁じる事にしたのだそうだ。
「それはそれで寂しい気もする」と岡部が言うと、「報道はいますから」と菊亭は顔を引きつらせた。
「意味ない」と藤堂がぼそっと言うと菊亭も苦笑いだった。
ただ警備員は三倍に増えるので安心度は増すはずと菊亭は言った。
厩舎に戻った岡部たちを伊東と秋山が待っていた。
二人は完全に自分の厩舎かのように、勝手に珈琲を淹れてくつろいでいた。
岡部はさすがに二度目だし全く平然としているのだが、服部はガッチガチに緊張している。
岡部が脇腹を突くと、服部は「ひぃ」と叫んで涙目で岡部を睨むような状態だった。
「どうした、服部? なんぞ粗相でもしたんか?」
「粗相せんように事前に便所にはちゃんと行きました!」
伊東のからかいに服部が真顔で抗議。
一同は爆笑だった。
「正直、去年アレやからな。俺らとしては、お前には行って欲し無いんやけどな」
そう言って渋い顔で伊東が珈琲を飲んだ。
「陛下の御心だそうですよ。そんな事できるわけないでしょ」
それはわかっているのだが、それでも懸念が払拭できないというのが伊東と秋山の言いたい事だった。
「一般人は紫宸殿はおろか御所も立ち入り禁止だそうですよ」
「そら、去年あないな事があったからな。今度は陛下を標的にされかねんやろし」
「そんな事になったら、今度は僕のせいって言われても返す言葉が無いですよ」
困ったもんだと伊東と岡部は頭を抱えてしまった。
「お前、今からそんなで、本番大丈夫なんか?」
秋山がからかうように服部に言った。
「で、で、でも、先生がおるから。一人やないですから、安心は安心ですけど」
かなり引きつった顔をして、震える手で服部は珈琲を口に運ぶ。
そんな服部に、等級が違うから別々だぞと岡部が真顔で指摘。
「え? え? 嘘やろ。僕一人なん? 嘘やん!」
去年、岡部が撃たれた時に松下はいなかっただろと、伊東も真顔で服部に指摘。
服部のカップを持つ手が大きく震える。
「さ、最悪や! 絶望的や! 僕、どないしよう……」
「粗相せんようにな。社会的に生きていけへんようになるぞ」
「僕、当日は何遍も便所行っときます」
あまりに切羽詰まった服部の態度に、もはや誰も笑いはしなかった。
当日、皇都の大宿で燕尾服を借り、岡部と服部は内務省へと向かった。
昨年とは打って変わって、風は強いものの、晴天そのものだった。
ただし、昨日まで降り続いた雪が道の横に積もっている。
内務省までは二人で来たのだが、その先の控室からもうすでに違っていて、服部とはそこで別れる事になった。
六等の控室に入ると、すぐに岡部先生と言って近寄ってきた者がいる。
柔道家の柳生である。
「昨年はご迷惑をおかけしました」と言うと、柳生は、「先生を守りきれず格闘家として悔しい」とうなだれた。
すると一人の男性が柳生の後ろに立った。
「お前だけじゃ先生の護衛は不安だから、今年は俺も付くぞ」
そう言って声をかけて来た。
男性は上泉と言う西洋相撲の選手で、昨年、国際競技大会で金賞を取った人物らしい。
今回、岡部は柳生と上泉の二人と共に行動する事になったのだそうだ。
昨年は偶然、柳生と同じ車だった。
そのおかげで最初の襲撃を防げている。
ならばという事で、正式にこの二人の格闘家を前後に挟み込む事になったのだとか。
柳生と上泉は国際大会でよく顔を合わせているらしく、かなり仲が良いらしい。
控室で柳生は二人に昨年の話をした。
柳生はあまり話したがらなかったのだが、あまりにも岡部が聞きたがるので渋々という感じだった。
あの後、柵の上にいた狙撃犯は報道に紛れて逃げようとした。
だが陸上の国際競技大会金賞の選手が全力で追いかけ取り押さえた。
すると観衆が一目見ようと押し寄せ、その中の一人が、まるで蹴球の球かのように狙撃犯の頭を蹴り飛ばした。
その陸上の選手の話によると、蹴ったのは子日新聞の記者だったそうだ。
狙撃犯は頸椎骨折で即死だったらしい。
自分が取り押さえた犯人が首を変な方向に曲げて泡を吹いている。
まるで自分が殺害したような気になり、陸上の選手はそれが心痛となってしまったらしい。
そのせいで今年の成績は散々だった。
また、目の前で血が噴き出ている岡部を見た鳥居は、その後精神を病み現役を引退している。
さらに柳生が投げ飛ばした襲撃犯は、気が付いたら服毒して亡くなっていた。
だが周囲から毒の入った容器等は見つからなかったらしい。
「それが子日たちのやり方なのか……」
話を聞いた上泉は改めて戦慄を覚えた。
「あれから、俺は頑なに子日新聞系の取材は受けなかったよ。誰が人殺し共に協力なんてしてやるかってんだよ」
そう言って柳生も憤った。
摂津内大臣から賞状と記念品が手渡された後、内務省前の黒塗りの車で御所へと向かった。
事前に言われていたように、御所前には人だかりはあったが、朱雀御門を通ると報道がまばらにいるだけになっている。
その報道を監視するかのように警備員が立っていた。
建礼門前で降車し、紫宸殿に入ると机と椅子の準備がされていた。
車内での会話で上泉も競竜がかなり好きだという事が判明。
柳生ほどではないが、呂級以上の決勝の竜券は必ず買うらしい。
去年の呂級は杉厩舎と大須賀厩舎から買っておけばほぼ当たった、おかげで財布はほくほくだったと自慢げに語った。
柳生は狙いすぎてイマイチだったらしい。
六等から八等までの受勲者が全員到着すると陛下が現れ、最初に全体へ向けてお言葉を発せられた。
そのお言葉の中で昨年の出来事にも触れていて『許されざる蛮行』と表現されていた。
その後陛下は一人一人に勲章を手渡しし、一言お言葉を賜っていった。
岡部の番になった。
陛下はひと際嬉しそうな顔をし勲章を首にかけた。
「貴方の話を聞いて、中継だけでは満足できへんようになってまいまして、浜名湖に行ってしまいました。ほんまに楽しかったです。次は伏見に『優駿』を見に行こう思うてます」
「楽しんでいただけて大変光栄です。よろしければ、年末に常府に『八田記念』を観にいらしてください」
「ええ。もちろんそのつもりです。貴方のご活躍を期待しています!」
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