第28話 結審
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産相談役
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
大津に戻った岡部は、日競の吉田を呼び、先日奈菜が言った話を聞かせた。
これが報道が好き勝手書いてくれた結果だと。
その話を吉田は悲痛な表情で聞いた。
なぜ報道が何かにつけて有能な調教師に薬物疑惑を擦り付けるか、報道側に身を置く吉田はその理由を知ってはいる。
端的に言えば記者の理解力不足のせいなのだ。
記者の多くは自分がこの世で最も賢いと増長しきっている。
相手の説明が自分に理解できないという事は、相手が嘘をついているのだと勝手に思い込む。
自分よりも相手が賢いと認めたくないという心理がそうさせるのである。
そこで自分が理解できる話にまで水準を落とし、そんな嘘をつく人物だから禁止薬物を使ったに違いないと結論付けるのである。
本来真実を伝える事が大前提の報道の姿勢からしたら、知能と道徳が根底から欠如しているのである。
ただそれを岡部に説明しても、理解はされるが納得しては貰えないだろう。
むしろ耳の痛い小言をチクチクと聞かされるのがオチである。
「吉田さん、どうしたら良いと思います? もし裁判に勝ったって、垂れ流された悪評は消えないと思うんですよ」
珈琲を飲みながら、吉田は首をコキコキと鳴らし考え続けた。
「ここまで、長くかかりすぎましたよね」
「『筆の暴行』とは、よく言ったもんですよね」
岡部の厳しい視線に、吉田もさすがに耐え切れなくなってきている。
目頭を摘まみ「はあ」と小さくため息をついた。
「裁判の結審って、いつになりそうなんです?」
「なんせ新聞社があの状態ですからね。次で最後だと思うんですけど」
吉田は手帳を取り出し、岡部が言った日付を確認した。
「そしたら、そこに合わせて提灯記事書くなり何なり、するしかないん違いますかね」
「自分で提灯とか言わないでよ! 僕関係の記事、全部そういう風に見えちゃうじゃない!」
「これは失敬。何にしても、特報やら何やらで相殺させるんが一番やと思いますよ。例えば今話題の『飛燕』とか」
少し目を細めて頬を緩めながら吉田は言った。
つまり対価をくださいという事なのだ。
飛燕の何を聞きたいのかと岡部がぶっきらぼうにたずねる。
「そもそも、その『燕理論』っちゅうもんが何なのか、記者はまだ誰も知らへんのですよ」
そう吉田は言った。
それはそうだろう、当人の岡部すらまだ謎だらけなのだから。
記事にしないという条件でわかっている事を解説しても良いと言うと、吉田は少し考え込んだ。
「まあ、良えでしょう。それで手を打ちましょ」
解説を受けた吉田は悔しがった。
これが記事にできないとは。
「つまり、これまでの瑞穂の竜は言うなれば駈歩やったと。そっから襲歩にするんが『燕理論』やと」
「多分ね。でもまだわからない事だらけなんですよ」
だから記者はおろか、調教師も誰もわかっていないんだと岡部は説明した。
「なるほど。ただ納得はいきますね。そら、相手が全力で走っとんのに早足で歩いとったら、どうあがいても勝てしませんわな」
「でも、これまでそれなりに勝負にはなってたんだよなあ。不思議ですよね」
この岡部の言葉に、吉田は何か違和感を抱いた。
珈琲を口に運ぶと、まさかねと呟いた。
「先生、来年の『新春杯』って出るんですか?」
「もちろん。重賞は世代戦以外は全部出してくつもりですよ」
「もし優勝したら独占記事書かせてくださいよ。期待してますよ」
十二月の三週。
岡部への誹謗中傷の件の二審目となる西国裁が行われた。
一審目の皇都裁では岡部側の全面勝訴。
新聞側が上告して二審目となっている。
すでに新聞側の弁護団はかなり人数が乏しくなり、被告は会社責任者として各社の社長だった者が出頭している。
その裁判の途中で、別室に双方の主要関係者が裁判官に呼ばれた。
もう和解してはどうかと裁判官は持ちかけてきたのだった。
新聞側の行為は誹謗中傷以外の何物でも無く、知る権利の範疇を大きく逸脱している。
それを出版物として販売しており、社をあげて行ったという証拠が揃いすぎている。
何度やっても新聞側の全面敗訴以外の裁定にはならないだろう。
どのような角度から判断しても新聞側の行為は一方的であり、弁護の余地が無いように思う。
さすがに賠償請求額全額というわけにはいかないが、一割減くらいでどうだろうかと。
岡部たちは無言で新聞社側の回答を待った。
一割減だとしても、六社合わせて西国の四半期予算に近い超高額の賠償額である。
だが、もう有力紙を休刊させている新聞社に三審目を戦う資金力はどこにも無い。
すでに資金提供してくれていた大陸の工作機関『紅天団』は、名前を公表され、外交札にされた事で、新聞への資金提供を停止している。
あとは関連会社を売却し、かつて政府からこっそりと譲渡された国有地だった幕府の一等地を売却し、粛々と倒産手続きを取るしかない。
三審目を戦えば、それもできなくなるだろう。
そうなれば次は家財の差し押さえである。
他の社長の顔を見渡し、子日新聞の社長は大きくため息をついた。
他の五社の社長もうなだれている。
新聞側の弁護団は、少しお時間をいただけませんかと裁判官に申し出た。
すると裁判官は、原告側がお待ちですので手短にお願いしますと冷たく釘を刺した。
十五分ほどして弁護団だけが戻って来た。
先ほどの裁定で和解をお願いできませんでしょうかと弁護団は頭を下げたのだった。
どうなさいますかと、岡部側の弁護団が、加賀美、丹羽、岡部にたずねる。
三人とも無言で頷いた。
こうして、瑞穂の裁判史上、歴史的に高額な賠償額となった裁判が終了した。
この裁判はその賠償額から世間からかなり注目を浴びており、記者会見が開かれる事になった。
その場で岡部は、四歳の娘がこの件で酷く傷つく事になったという話をした。
根も葉もない中傷、流す方は好き勝手に、ニヤついた下衆顔で書いた記事だろう。
だがその記事を販売してしまえば、それを信じる者が少なからず出る。
子供を持つ親が信じれば、それは子供のいじめに直結する。
幸いにも娘はまだ四歳で、そこまで重大な事にはならなかったが、それでも小さな心をずっと悩ませ続けた。
新聞はそれを読者が勝手にやった事と言い逃れをするが、断じて違う!
これは報道という『筆の暴力機関』が行った『集団暴行行為』に他ならない。
知る権利、報道の自由、それは結構だ。だがその前に最低限守らねばならない道徳があるはずだ。
それが守れないのなら、そこらのチンピラ、やくざと何一つ変わらない。
そんなやつらに報道業を担う資格なぞない!
以降はこのような事が起こらないように、自らを律して職務に当たって欲しい。
演説にも似た岡部の発言に、目の前の報道は言葉が無かった。
そこから五分ほど無言で、岡部の睨みと威圧を受け続けるという時間が流れた。
たまらず産業日報の山科記者が手を挙げた。
「我々報道協会は新聞協会とは違います。そういった事が無いように、新しい協会を立てましたのでご安心ください」
そう言って笑顔を向けた。
山科からしたら発言に一切の悪意はなく、岡部を宥めようとしての発言のはずだった。
ところが、山科の言葉に乗じて他の記者たちが、そうだそうだと言って岡部を責めたてた。
そんな記者たちの態度に激昂した岡部は、机を両手でバンと叩き、椅子から立ち上がった。
「先日の大津の暴行事件をもう忘れたのか! まだ三か月も経ってないのに! どんだけ罪の意識が無いんだよ!」
その怒声は集音機に乗って会場に響き渡った。
山科は小声で申し訳ありませんでしたと謝罪。
だが岡部は更に表情を険しくした。
「例えお前たちが忘れても僕は忘れない! 首と胸の黒い痣を見るたびに、左胸の銃痕を見るたびに、お前らへの憎しみが僕の中に募ってくるんだよ!」
そう言うと、岡部は着ていたシャツのボタンを外し、左胸の弾痕を露わにした。
生々しく残る丸い弾痕に会場はシンと静まってしまった。
「なあ、教えてくれよ! 僕がいったいお前たちに何をしたって言うんだよ!」
記者たちは、皆、岡部から目を反らした。
「なあ、答えてくれよ! 僕の娘が、わずか四歳の女の子が、お前たちにいったい何をしたっていうんだよ!」
記者たちは一斉にうつむいてしまった。
「金の問題じゃないんだよ! 勝った負けたでもないんだよ!」
会場はしわぶき一つ聞こえず、中継機材の駆動音だけが不気味に音を立てている。
「何で戸川先生は、お前らに殺されなきゃいけなかったんだよ! 戸川先生がお前らにいったい何をしたっていうんだよ! なあ!」
岡部の頬をつうと涙が伝わる。
「誰か、僕に教えてくれよ……」
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