第27話 父娘
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産相談役
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
「まさか、こんな事になるなんて思いもしなかった」
昼食の席でみつばがため息交じりに言った。
昼食は牧場を出て、直美たちと合流して花蓮の大宿という事になった。
その昼食が半分ほど進んだあたりでの発言であった。
「これまで斯波先生以来、何十年も伊級に上がる先生がいなかったのに、それがいきなり二人だなんて」
来年松井くんも上がってくると言うと、みつばは再度、どうするのよと最上に聞いた。
「どうするも何も、杉先生たちの分は当面は全部、生産監査会と古河さんで買うしかないだろ」
「先日わざわざ電話がかかってきて、いろは姉さんに言われたのよ。伊級の先生が出たのに会員募集ができないって」
実はその話は最上も義悦から相談を受けている。
競竜会は同じ酒田に本社があるから、直接文句を言いに来られてしまっているらしく、かなり参った感じであった。
「もういっその事、いろはたちが古河さんに幼駒を買いに行ったら良いんじゃないか、なあ」
「仕切りがあるでしょうが! 仕切りが! 他所から買った竜は募集できないっていう」
少し興奮してみつばが机をぱんと叩いた事で幸綱が泣き出してしまった。
あげはにじろりと睨まれて、みつばはしまったという顔をした。
「で、肌竜はどうしたんだ? さすがにそこはちゃんと三人分揃えたんだろうな」
「あのねえ。伊級の新竜は七歳なのよ! 四年前から急いで揃えてるけど、まだ三年はかかるの!」
そこでまたみつばは、「まさか、こんな事になるなんて思いもしなかった」と再度ため息交じりに言った。
七年前といえば綱一郎さんたちは全員仁級だったと、あげはも失笑する。
もしかしたら櫛橋さんも上がってくるかもと岡部が言うと、みつばは、再度、「どうするのよ!」と顔を引きつらせた。
「で、さっそく来年の杉先生の新竜がいないんだけど」
恨みがましい声でみつばが最上に言う。
古河さんの競りで買うしかないと、最上もうなだれてしまった。
「買うしかないのはわかってはいるんだが、伊級の新竜は高いんだよな……」
『エンラ』を二月に『大金杯』に出す予定だと岡部が言うと、最上は何かを考え込み、にんまりと笑った。
「まあ、値段の件は、そこまで気にしないで良いかもしれないな」
岡部のひそひそ話が耳に入ってしまったようで、みつばは営業用の笑顔を作って最上に向けた。
「父さん、資金補填のためにうちに一頭よこして。いや、買わせてください」
「おいおい。競竜は今の私の最大の楽しみなんだぞ」
「そのお金で新竜買ったら良いじゃないの!」
ため息をつくと、最上は岡部にこそっと『エンラ』と『セイメン』どっちが稼ぐと思うかとたずねた。
圧倒的に『セイメン』ですと岡部もこそっと回答。
だが、どうもその会話も聞こえてしまっていたらしい。
「父さん、『セイメン』買うからね」
「ふざけるな! 『エンラ』なら売る。それで手を打て」
せこいなあと言って、不貞腐れたような顔でみつばは葡萄酒を呑んだ。
その態度にカチンときた最上は、じゃあ『エンラ』も売らんと怒りだしてしまった。
焦った中野が間に入り、『エンラ』を売ってくれたらかなり財政的に助かると泣き落としにかかった。
渋々最上は岡部に、帰ったら『エンラ』の竜主登録の変更をかけてくれと頼んだ。
ここまでのやり取りを、あげはと梨奈は、けらけら笑いながら聞いている。
昼食を取り終え、みつばたちと別れた一行は南府へと向かった。
南府で再度観光し、夕飯を食べた後に大宿へと向かった。
風呂場で最上は、みつばのせいで大損だとうなだれた。
「でも結局、みつばさんのおねだりを聞いてしまうんですね」
「いくつになっても、そこはやはり末娘だからな」
「男親の悲しい性」と最上は照れながら言うのだった。
岡部が伊級に上がってから、紅花会の竜の所持はかなり変更がかかっている。
それまで最上は呂級と止級を所持していたのだが、伊級も所持するようになった。
義悦は会長になる前は仁級、八級、呂級と幅広く所持していたのだが、会長になって呂級と止級だけに切り替え、さらに現在は伊級と止級だけに切り替えた。
それまで所持していた仁級、八級、呂級は、全て妻のすみれの所有となっている。
競竜会では、それまで呂級の募集は少なかったのだが、かなり増える事となった。
「杉さんが上がってきて、呂級が減ると思ってましたが、津軽さんと平岩さんが上がって来れそうですね」
「土肥では牧君もなかなか頑張ったな。ずっと三着続きだったが、最後に勝って意地を見せたものな」
相変わらずあの人は飲み込みが悪いと岡部が毒づくと、最上は大笑いした。
「紅花会も気が付いたら大会派ですね」
「本当だよ。少し前まではずっと呂級二人だったのが、伊級二人、呂級四人と来たもんだ」
「あの感じだと、斯波さんも再来年には」
まさに順風満帆。
満面の笑みで最上が高笑いし、それが浴室に響きわたった。
「二、三年に一人だった新規開業が、気が付いたら毎年だものな。それも順番待ちと来たもんだ」
「何十年もかけて、種から実が付くまで、皆で諦めずに育て続けてくれた結果でしょう。僕が今伊級にいれるのも、その恩恵ですよ」
岡部の言葉が心に沁みたらしく、最上の目からほろりと涙がこぼれた。
最上は急いで湯で顔を洗った。
「いかんな。夕飯にちと呑みすぎたかもしれんな」
部屋に戻ると、先に戻っていた奈菜が岡部に駆け寄り抱き着いた。
奈菜を抱っこしたまま窓際に涼みに向かう。
すると膝に腰かけた奈菜が体を岡部に預けた。
「どう? 少しは幼稚園楽しくなった?」
岡部としては何気ない親娘の会話のつもりであった。
奈菜が無言で岡部の浴衣に顔を埋める。
「びわこきてからね、みんなの、かあさんがね、ななとあそんでても、おこらへんようになったんやで」
「えっ?」
「さいきんはね、せんせいもね、ななのこと、たたいたりせんと、ちゃんと、はなし、きいてくれはるようになったんよ」
その奈菜の言葉に、岡部は軽いめまいを覚えた。
奈菜が幼稚園を嫌っていた理由は、ずっと奈菜の人見知りのせいだと思っていた。
だがそうじゃなかった。
岡部に対する新聞の中傷記事を読んだ親御さんたちが、奈菜と遊ぶのを見ると、子供を叱っていたからだったのだ。
さらには先生まで、奈菜に暴力をふるったり、無視したりしていたのだ。
岡部は思わず涙が零れそうになってしまった。
「それ、母さんには言ったの?」
「うん。そしたらね、かあさん、そんなん、すきにならへんでええって。なにいわれても、とうさんのこと、すきでいたらええからって」
岡部は堪らずぎゅっと奈菜を抱きしめた。
「ごめんな。父さんのせいで奈菜を辛い目にあわせちゃって」
「なな、とうさんだいすきやで。みんなが、とうさんのこときらいなら、ななは、みんなのこときらいや」
奈々が小さな手で岡部の浴衣をぎゅっと掴む。
まだ少し湿っている奈菜の髪を岡部は優しく撫でた。
「父さん、奈菜の可愛い声で嫌いなんて言葉、聞きたくないな」
「でも、なな、ししとう、にがいし、からいから、どうしてもきらいや……」
「そっか。徐々に嫌いな食べ物が好きになると良いね。食べれるものが多い方が何かと楽しいよ」
少し潤んだ瞳で奈々はじっと岡部の顔を見る。
にっと笑ってまた岡部の浴衣に顔を押し付けた。
「でもね! ななね、このあいだ、といにいってから、あかなす、たべれるようになったんよ!」
「そうなんだ! そっかそっか。奈菜は良い子だな。父さん、そんな奈菜が大好きだよ」
「ななも、とうさん、だいすきやで!」
愛くるしい事を言う奈菜を岡部は強く抱きしめた。
「とうさん、くるしいよ」
照れた表情でえへへと奈菜は笑った。
翌朝、目が覚めると、奈菜は岡部にしがみついたままで寝ていた。
いつも寝相が悪いのになと思いながらも、朝風呂に行くため、奈菜をどかそうとした。
すると、岡部を掴んでいる奈菜の手が妙に熱い事に気が付いた。
額に触れると、こちらもかなり熱い。
奈菜を仰向けに寝かし、宿の手拭いを濡らして額に置いた。
受付に行き、体温計と市販の熱冷ましと氷嚢をもらい部屋に戻る。
測ってみると熱は八度近くあり、氷嚢を奈菜の額の手拭いの上に乗せた。
おそらくまた扁桃腺が腫れてしまったのだろう。
喉にも濡れた手拭いを置いた。
朝食の時間になって奈菜は目を覚ました。
おはようと言うと、にっこり笑って、おはようと言って起きようとした。
そのまま寝ているように言ったのだが、奈菜は口を尖らせ、お腹すいたと訴えた。
仕方ないなと言って奈菜の頭を撫でてから受付に連絡し、お粥を二人分持ってきてもらうようにお願いした。
朝食が来るまで、奈菜は岡部に色々なお話をした。
岡部が浜名湖に行っていた時、大宝寺から芒果と鳳梨が届いたらしく、岡部に内緒で食べちゃったと暴露した。
美味しかったかたずねると、うんと頷くので、今度お取り寄せしようと言うと奈菜は非常に喜んだ。
奈菜にお粥を食べさせていると、岡部たちが食堂に現れない事で何かあったと察し、最上たちが焦って部屋にやって来た。
奈菜が思ったより元気そうで、皆ほっとしている。
念のため、帰宅予定を一日遅らそうと最上が言い、最上夫妻と直美、梨奈は、もう一日市内観光に出かけて行った。
部屋に残った岡部は、幸綱をあやしながら、一日奈菜に付き添い、レイシを摘まみながら色々とお話をして過ごした。
奈菜の穏やかな寝顔を見ていたら、昨年の『海王賞』の時の藤田調教師の言葉を思い出した。
”挫ければ、お前は見捨てられる。そうなれば近しい人が無下に殺されていくだけだ。お前は身内がそんな事になるのを望むのか?”
もし身内に犠牲者が出るとすれば、最初に犠牲になるのは間違いなくか弱い存在である奈菜だろう。
改めてその事を思い知らされた。
再来年、奈菜は小学生になる。
恐らくそうなれば奈菜は、同級生からのいじめの標的になっていくだろう。
”絶対に腰を引くな、目を反らすな、悪い芽は小さいうちに摘め、味方を増やせ”
故武田翁は、そう言って覚悟を促した。
「味方を増やせか……」
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