表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】競竜師  作者: 敷知遠江守
第一章 師弟 ~厩務員編~
39/491

第39話 次走

登場人物

・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員

・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)

・戸川直美…専業主婦

・戸川梨奈…戸川家長女

・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」

・氏家直之…最上牧場の場長

・長井光利…戸川厩舎の調教助手

・坂崎…戸川厩舎の厩務員

・池田…戸川厩舎の厩務員

・荒木…戸川厩舎の厩務員

・木村…戸川厩舎の厩務員、解雇

・大野…戸川厩舎の厩務員、解雇

・垣屋…戸川厩舎の厩務員

・牧…戸川厩舎の厩務員

・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員

・花房…戸川厩舎の厩務員

・庄…戸川厩舎の厩務員

・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手

・本城…皇都競竜場の事務長

・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員

・吉川…尼子会の調教師(呂級)

・南条…赤根会の調教師(呂級)

・相良…山桜会の調教師(呂級)

・津野…相良厩舎の調教助手

・井戸…双竜会の調教師(呂級)

・日野…研修担当

 翌朝、気分よく出勤した戸川は、花房からの報告でどん底の気分に落とされた。

『セキラン』が熱発を起こしているとの事だった。


 人間の子供と一緒で新しい事をしてはしゃぐと熱を出す竜は稀にいる。

戸川は、昨日の競走で怪我が化膿したのではないかと非常に心配したのだが、ただ熱が出ただけという感じらしく安堵した。

ただ患部である左前脚は他の脚に比べ少し熱を持っていて、あまり無理の効く状態ではない事を知らしめられた。

これで『セキラン』は当分は調整も様子見という事になり、あれだけみっちりと作成した長井と岡部の調教計画はあっさりと瓦解した。




 週が明けて月曜、竜房の清掃を終えると戸川がやってきた。

戸川と岡部は『セキラン』の竜房で立ち止まった。


 岡部が少し元気の無い『セキラン』の首筋を撫でる。


「『セキラン』、まだ少し熱があるみたいですね」


 慣れない新竜戦後に、発熱をする竜はそれなりにいる。

ただ通常であれば一日、長くても二日程度で熱は引く。

金曜の競争から三日が過ぎたというに、まだ『セキラン』は発熱が治まっていない。


「怪我が化膿して重症化したんやないかって心配したよ」


 戸川と岡部は『セキラン』の脚の状態を交代で確認している。


「前脚の状態がよくないですね。左だけじゃなく右にも少し熱が出てる。無意識に庇ってるんでしょうね……」


 アレさえ無かったら、こんな風に苦しむ事もないのに。

岡部は喉まで出かけたが、言っても詮無い事と言葉を飲み込んだ。


「癖になると何かと面倒やからね、次走までじっくりやるんやな」


 最悪の場合、脚の左右の筋肉の均衡が崩れ、走る度に痛がる事になる。

そうならない為にも、まずは完治させることが優先と戸川は説明した。


「当分は輪乗り程度ですね……」


「は? 輪乗りさすんか」


 普段戸川の方針では、こういう場合大事を取って引き運動だけに留めておく。

戸川はこれまで、引き運動も輪乗りもそこまで違いは無いと考えていた。

ならば養生の為には軽い引き運動に留めた方が良いと考えていたのだ。


「新竜なんで、乗せ続けないと人の重さを忘れるんじゃないかと思って。それくらいならそこまで傷に触らないでしょうから」


「そういう方針なんか。そういえば初回から輪乗りさせてたもんな」


 思った以上に方針が重めだと戸川は笑い出した。



 他の竜を一通り見ると、戸川は櫛橋の前で足を止めた。


「そうやった。櫛橋、今日、後で会長が来るから挨拶してな」


 櫛橋は、わかりましたと言ったものの不安そうな顔をする。


「そない心配せんでも。なんやったら綱一郎君を魔除けに横に座らせるから」


 戸川はそう言って櫛橋に微笑んだ。

櫛橋は岡部をちらりと見ると、それなら安心と言って笑った。


「ま、魔除け……」


 二人が笑い合っている横で、一人岡部は心外だという顔をしている。


 戸川は、竜を曳いて入って来た庄にも同じことを伝え竜房を出て行った。


 戸川がいなくなると、櫛橋と庄は岡部のところに集まって来た。


「会長ってどんな方なんです?」


 後ろから垣屋の『禿鷲』だよと言う声がした。


 櫛橋が豪快に噴き出した。

庄は、ここで笑うと本番も笑ってしまうと感じ必死に堪えている。


「容姿は想像できました。できればそれ以外を……」


 笑いを堪え声を震わせながら庄が尋ねた。


「まさに慇懃無礼いう感じや。岡部くんが挨拶した時、上機嫌でたまげたよ」


 牧が笑いながら言うと垣屋も同調した。


「え……私、大丈夫やろか……」


 櫛橋が不安そうな顔をすると垣屋が鼻で笑った。


「先生も言うてたけど、岡部君が横にいたら魔除けになるんと違うかな」


 櫛橋は心配そうな顔で岡部を見た。


「多分ですけど、櫛橋さんも庄さんも普段通り変に物怖じせずに受け答えしてくれれば、会長、気に入ってくれると思いますよ」


 岡部は二人に優しく微笑んだ。




 午後、岡部は吉川厩舎に呼ばれ調整調教を行った。

その帰りに最上に出会った。


「お久しぶりです、会長!」


「おお、岡部君! 竜主会から報告を受けたよ。色々大変だったみたいだな」


 例の事件について、最上は、竜主会から最終的な報告だけ受けているらしい。

最上も北国から帰っていきなりだっただろうから、さぞ驚いた事だろう。


「僕の方はそれほどでも、先生は大変だったみたいですけどね」


 岡部が口角を緩めると、最上は、そうかと言って高笑いした。


「まあ、その話は後でゆっくりと聞こう。戸川に言いたい事もあるしな。ところで新人はどうだ?」


「二人いますけど、どちらも気に入る感じの方だと思いますよ」



 岡部は、最上を伴って戸川厩舎に帰ってきた。

その姿に、戸川だけじゃなく垣屋と牧も顔が引きつっている。


 最上は帽子を取り応接長椅子にどかっと座ると、杖を壁に掛けた。


「戸川、色々大変だったようだな」


 戸川は、お茶を差し出すと苦笑いを浮かべた。


「ただ、怪我の功名いうか、膿を出しきった感じいうか、だいぶ風通しが良うなりましたよ」


 最上は、好々爺のような顔でお茶を啜ると、満足げな顔でそうかと短く言った。


「では、さっそくだが新人に会わせてもらえるかな」


 最上に促され岡部が櫛橋を呼びに行った。



 櫛橋は、がちがちに緊張して事務室に入ってきた。


「あ、あの、櫛橋言います。お初にお目にかかります」


 櫛橋がぺこりと挨拶すると、最上は表情を崩さず、いつもの威厳ある態度で椅子に腰かけるように促した。


 最上は名刺を差出し自己紹介すると、早速身の上話を聞きたがった。

櫛橋は特に恥ずかしがる事もなく、井戸厩舎は水が合わなかったと受け答えした。


「戸川のとこは、水が合うのか?」


「皆さん私の竜の評論を面倒がらず聞いてくれるんですよ。井戸先生のとこでは、休憩時間が減るいうて煙たがられてたんですけどね」


 櫛橋が微笑むと、最上はそうかそうか言ってと微笑んだ。


「評論かあ。試しに今話題の『セキラン』の評論を聞かせてもらえるかな?」


 こほんと櫛橋は軽く咳払いをした。


「『セキラン』は体が大きうて脚が長い典型的な短距離体型です。そやから、距離を延ばすんは難しいかもしれません。そやけども、やり方次第で優駿くらいまでやったら」


 櫛橋の評論に、最上はふむふむと何度も頷いた。


「そういうのは、どうやって身に着けたのかね?」


 残念ながら最上はこの歳になっても、いまだに相竜眼はさっぱりである。

後学のためと言うと岡部は笑い出した。


「元々は福原で毎日じっくり観察させてもらいました。その後は井戸先生のところで。もちろんこちらでも」


 じっくり観察して似た戦績の竜同士を見比べ共通点なんかを探っていたら自然と身に付いたと櫛橋は説明した。


「素晴らしい! 私はね、戸川厩舎には多くの感性を集約して竜に接するような雰囲気を求めているんだよ。感性と感性がぶつかりあう事で活気が生まれる。どうかね?」


 最上は少し興奮気味に、岡部の顔を見て櫛橋の顔を見た。


「私も素晴らしいと思います。ただ、私が入った時は皆さん竜の知識を渇望してる雰囲気やったので、てっきり前からそういう状態なんやと」


 困惑した櫛橋の顔を見て戸川がふっと笑った。


「少し前までは全くそんな風には感じなかったな。もし君の言う通りだとしたら、岡部君が来て大きな影響を及ぼしたのかもしれんな」


 最上が笑い出すと、岡部は、そうなんですかねと言って照れた。


「今度、幕府遠征の時に帯同させてもらうと良い。より多くの竜が見れるだろう。その時は良い宿を手配してあげよう。食事の美味しい宿をな」


 櫛橋は最上から握手を求められると握手を返し、失礼しますと席を立った。

櫛橋が部屋を出ると、最上は満足そうな顔をした。


「戸川、また良い風が入ってきたな」


 戸川は嬉しそうな顔をした。



 櫛橋と入れ替わりで庄が入って来た。

庄も、かなりびくつきながら面談に臨んだ。


 元々庄は、櫛橋と同じく福原で厩務員をしていた。

その頃から竜の按摩を研究していたそうで、それを最上に話していた。


 働き始めてすぐに自分に懐いていた竜が調教中に骨折し『予後不良(よごふりょう)』(=安楽死)処置されるという事があった。

何となくではあったが、前日按摩をしていて筋肉が強張っている感じがあった。

もしあの時、それを調教師の先生に伝えていたらと思うと後悔してもしきれない。

ならば按摩を極め、竜が不運な最後を迎えなくて済むようにしようと考えるようになった。


 最上は、そうかそうかとかなり熱心に聞いている。


「僕も毎回勉強させてもらってます。おかげで竜の状況がよくわかるようになりました」


 岡部がそう言うと、戸川も自分も勉強になっていると言い出した。

この厩舎棟内でも、ここまで専門に按摩を研究している者はいないのではないかと思うと戸川は言い出した。

最上はそれは凄いと憧憬の目で庄を見た。


「なるほどな。疲労が落ちてさらに限界が探れれば、その分強い調教がやれるという事なのか」


 庄が退出すると、最上は、確実に戸川厩舎が充実してきていると感じたようで、何度も戸川の顔を見て無言で頷いた。



 最上は、お茶を啜って人心地付いた。

それまで見せていた機嫌の良い顔から非常に厳しい顔に変える。

場の空気が張り詰め、岡部と戸川も顔が引き締まった。


「さて、もう一つの本題に入ろうか。例の件の報告を頼む」


 最上も竜主会から報告は受けているが、あくまで顛末だけで、戸川から経緯を聞きたいという事だった。

戸川は発生から監査まで、時系列で淡々と話しはじめた。


「発生は北国の時か……」


「報告自体は会長が帰る少し前でした」


 その時点で報告しても良かったが、できれば詳細を得て、ある程度方向が見えてからと思い、あえて報告はしなかったと戸川は説明した。

それについては最上も、現場指揮官の範疇だからと納得してくれた。


「犯人は風呂で言ってた例の(おり)の三人か?」


「その内の二人です」


 戸川の言葉に最上は眉をひそめた。


「という事は、まだ一人残ってるのか。それで大丈夫なのか?」


「大丈夫やないかもしれません。そやけど今はこれが人員的に限界で……」


 最上はため息をついた。


「戸川、経営者目線で言わせてもらえばな、それでも三人を切る決断をすべきだったと私は思うぞ?」


 戸川は黙っている。

そんな戸川を見て岡部が援護した。


「あの時点で三人全員を切っていたら、他の方の負担が重くなりすぎて、余計な不満を招いたと思います」


 岡部は、最上の目をしっかり見て指摘した。


「なるほど。負の連鎖が起きてたという事か……」


 岡部は黙って首を縦に振った。

少し考え、最上も納得したらしく何度か頷いた。


「夏休みの最後まで宿題を残しおって。まるで無計画な小学生だな」


 最上は岡部を見て、少し顔をほころばせた。


「じゃあ苦い話はこれくらいにして、今日の一番の楽しみの話に移ろうか」



 実は、今日来た最大の目的は『セキラン』の今後の話だった。


 最上は、事前に期待できると聞いていたから新竜戦を生中継で見たらしい。

予想以上の走りに、確実に大きい所を取れる、そう確信した。

それは牧場長の氏家も同じだったようで、『セキラン』について夢が膨らんでしまったらしい。

新竜戦の後、すぐに最上に相談の電話が入った。


 今、『タルサ』系は『エイユウホウガン』という竜の血統が主流である。

だが『セキラン』は『エイユウホウガン』とは別系統の『ヒナワデンエン』の系統。

『ヒナワデンエン』は上巳賞竜で、仕上がりの早さから非常に人気があった種牡竜だったのだが、残念ながらあまり後継種牡竜には恵まれなかった。

『ヒナワデンエン』の子で『セキラン』の父『キキョウヒエン』も上巳賞竜で、種牡竜としての活躍が期待されたのだが、わずか三年で急逝。

その為『タルサ』系は、快速血統の『ヒナワデンエン』とは指向の異なる中距離志向の『エイユウホウガン』が主流になっている。


 元々『タルサ』系は快速で人気の血統なので、もし『セキラン』が重賞を取り種牡竜になれば必ず人気になるだろうというのが氏家の推測である。

種牡竜になるには『上巳賞』の勝利が最良なのだが、その前に『新月賞』に挑戦してみてはどうかというのが氏家の提案だった。

最上は、先に会派内の『セキラン』の竜主に連絡を取り、既に賛同は取り付けているという。



「『新月賞』は特三ですよね? 『新竜賞』は特二で。賞金的にも格的にも『新竜賞』の方が良いのでは? 場所もこっちですし」


 岡部には氏家の意図がよく理解できなかった。

最上が説明しようとしたのだが戸川に制された。


「綱一郎君。過去三十年で『新竜賞』を制覇した東国竜はどのくらいおると思う?」


 突然そんな事を言われても、岡部も、さすがにそこまでは全く想像がつかない。


「どうなんでしょう? 十頭とかいたりするんでしょうか?」


「おお、良い線やな。十二頭や。逆に『新月賞』を勝負けした西国竜はどのくらいおると思う?」


「さすがに勝負けなら、同数くらいはいるんじゃないですか?」


 戸川と最上は同時ににやりと笑った。


「零や」


 岡部は信じられないという顔をする。


「もちろん賞金の問題もある、格の問題もある。挑戦頭数自体も違う。それにしても零はな……」


「東西の格差が、えぐいですね」


 岡部は顔を引きつらせた。


「それがそのまま『上巳賞』の勝数にも出とるんや。もちろん『瑞穂優駿』では、それなりに盛り返すがね」


「つまり勝ち負けできれば『上巳賞』勝ったくらいの反響があると」


 そういう事だと最上は頷いた。


 そこまで聞いて改めてどう思うかと最上は岡部を見た。


「最終的に格だけを見て格下だとはならないんですか?」


「新竜の重賞は格はあんまり考慮されないな。それだけに、それなら尚の事特二へという竜主も多いんだがね」


 明かに渋っている岡部にそう最上は説明した。

岡部が返答に困っていると戸川が口を開いた。


「僕は今回は提案に従う方がええと思う。どっちにしても『上巳賞』は幕府やから予行演習にもなるしな」


「もしなんかあって取りこぼしても『上巳賞』で対策できると」


 戸川が無言で頷いた。


「それなら僕も賛成ですね」


 岡部が頷くと、戸川と最上も頷いた。


「では頼むな。朗報期待しているよ。まあダメだったらその時は『セキラン』の子で次を狙おう」


 最上が席を立ち、満足げな顔で事務室を後にした。



 ということだ、わかったなと戸川が言うと、奥の会議室から松下と長井が出てきた。


「な? 言うたやろ? 猛獣と猛獣の本気の喧嘩やねん」


 長井が引きつった顔を松下に向けた。


「僕、冷や汗がやばいですわ……」

よろしければ、下の☆で応援いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ