第21話 飛燕
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産相談役
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
大津に帰って来た翌日、出勤し朝の調教を見た岡部は非常に驚いた。
『セイメン』が上昇時に羽をくるくる回すような、空気を掴むような独特の飛び方に完全に変わっていたのだった。
さらに『サイメイ』と『ダンキ』も、完全では無いものの、あと一歩という感じになっている。
恐らくは体が重いので上手く飛ぶ事ができず、必要以上にあがくから矯正が早いのだろう。
つまり調教の手順は間違っていない。
新竜の『ジョウラン』も、かなり筋肉の付きがよくなっている。
ここからは一旦錘を外し、羽ばたきの矯正に入ってみようと方針修正を新発田に伝えた。
これが上手くいけば理論は完全に確立できるだろう。
大津と常府の多くの調教師が大注目の『サケセイメン』の能力戦三がやってきた。
すでに西国では、ほぼ全ての調教師が『セイメン』の調教を目撃している。
そのせいで皆出走を躊躇い、危うく競争そのものが不成立になるところだった。
だが調整で使うだけで本番は次という調教師がおり、なんとか三頭集まり競争成立の最小規定には達した。
伊級は毎回どの競争も抽選になるのが普通で、大幅な定数割れというのはほぼ見る機会が無く、新聞の恰好のネタとなった。
その原因が『サケセイメン』にあるとわかると、さらに掘り下げて記事にする事になった。
その記事を読んだ人たちが一目見ようと大津競竜場に殺到。
まるで『竜王賞』の決勝かのような、異様に盛り上がった雰囲気の中、競争が始まる事となった。
岡部も畠山もかなり悩んだ。
果たして本気で飛ばすべきかどうか。
荒木、新発田、垣屋、花房も交えてさんざん揉めた結果、お披露目だと思ってやってしまおうという事になった。
この時期に能力戦三だと、次に出れる中距離の重賞は来年四月の『天皇杯』になってしまう。
だとすれば本格始動は来年になるのだからと。
『サケセイメン』が下見所から発走機に向かうと、観客席から大歓声が沸き起こった。
一枠の『セイメン』は、流すように羽ばたいて発走機前の止まり木に止まった。
その時点で他とは雰囲気が明らかに違う。
直前の単勝倍率は一・〇倍。
というより他の三頭の単勝倍率が全て三桁だった。
発走した『セイメン』は、最初の飛行ではあまり追わなかった。
だがその独特な羽ばたき方で一頭全然違う上昇力だった。
滑翔、滑空を経て二角で再度飛行に転ずると、その速さに観客が色めき立った。
一周目を終えた時点で、すでに後続とは十竜身近い差が開いている。
二周目も全く速度は落ちなかった。
滑翔、滑空を経て、二角を回った時には、観客は完全に興奮状態で大歓声となっている。
三角を回り滑空に入った時には、後続はまだ向正面で滑翔に入ったばかり。
四角で飛行に転じると、畠山は少しだけ『セイメン』を追ってみた。
圧倒的な末脚だった。
終着すると『セイメン』は、ピィィと大きく嘶いた。
観客は大興奮で『セイメン』に歓声を送り続けた。
西国の調教師には、わざわざこの日に出走させ、関係者席で見る者も多かった。
伊東、松永、池田、国重、秋山は明らかにそういう目的だった。
「これを見たら、もう、やるしかない。やらへんかったら、もう勝たれへん」
秋山は腹を決めた。
「そやな。理論はわかってる。あとはひたすら試して、モノにするしかないやろうな」
伊東も独り言のように言った。
誰もやれなければ、来年の重賞は全部岡部君に取られると松永が失笑。
八級や仁級ならまだしも、伊級でそれは恥ずかしすぎると国重が顔を引きつらせた。
「最初に対抗してくるんは誰やろな?」
伊東が周りにそう投げかけた。
多分藤田だろうと池田が言った。
今まで何度も試して、失敗してきていると言っていたから。
「天才言われるような奴は、どっかで同じ答えに行きつくんやなあ」
伊東の言葉に周囲の調教師が無言で頷いて、居心地の悪そうな顔をしている岡部を見た。
翌日、『セイメン』が放牧になり、入れ替わりに『スイコ』が帰厩。
翌週、岡部厩舎の調教が始まると伊級の全ての調教師が殺到した。
俺たちは幸運だ、こうして岡部の竜の調教を実際に目にすることができるんだから。
伊東が大須賀忠陽とそう言い合っている。
岡部の調教を最初から観察していた武田は、すでに管理竜の一頭を同じ理論で調教し始めている。
これまで武田は岡部の調教を分析し続け、一つの推論を立てているらしく、それを試しているらしい。
この西国の動きは、当然のように記者の知るところとなり、調教場に記者を呼び寄せる事になった。
調教師は岡部のように記者を毛嫌いしている者ばかりではない。
記者と良好な関係を築いている者もいる。
そういう調教師から徐々にこの話は広がっていった。
新たな調教理論は、西国では発案者の故武田師と岡部の発言から『燕理論』と名付けられる事になった。
この燕理論を会得した竜は『飛燕』と名付けられた。
こうして全ての調教師が飛燕を目指して燕理論を試していく事になった。
大津のそんな喧噪を他所に、岡部は太宰府に向かっていた。
『シュツドウ』を能力戦二に出走させるためである。
すでに太宰府の岡部厩舎では、『シュツドウ』以外の竜は放牧になっている。
厩務員ももう能島と真柄しかおらず、杉厩舎と連携して運営している。
太宰府に来て岡部は能島から一つの報告を受ける事となった。
それは真柄に関する事だった。
自分の厩舎が話題の中心になって、真柄はかなり気分が良かったらしい。
周囲に話を聞かれ、べらべらと喋ってしまっていた。
それを問題視した小平が成松と能島に報告。
二人は真柄を呼びつけ、企業秘密を漏らすなと注意した。
ところが真柄は、ちょっとくらい良いじゃないか、みんな喜んでくれるんだしと、全く反省するそぶりを見せなかった。
そもそも当の先生が包み隠さず話しているじゃないかと。
その態度に成松がキレた。
「俺たちは他ん厩舎と真剣勝負ばしとうたい! お前がべらべら調教ん機密ば漏らせば、それだけうちが不利になる。不利になれば俺らん給料ん減る。お前にはそがん単純な事も理解できんとか!」
もう大津に来なくて良い、酒田に帰れとまで言い放った。
真っ赤な顔で成松は事務室の出口を指差したらしい。
「先生が周囲に話をしているのは嫉妬を和らげるためで、全て秘匿というわけにはいかず、やむを得ないからだ。その先生だって重要な鍵になりそうな部分はちゃんとぼかして喋っている。俺たちの給料を上げるために先生がどれだけ日夜頭をひねってくれているのか。それがお前にはわからないんだな……」
能島もガッカリした顔で目頭を摘まんだ。
その報告を受けた岡部は、真柄を呼び出し、酒田に帰る気なら部長にやんわりと交代を打診するがどうしたいかとたずねた。
すると、成松の説教が身に染みたと真柄は反省の弁を述べた。
ここは最前線で、厩舎の外は他会派との戦場。
そんな簡単な事が理解できていなかったと言ってうなだれた。
「お前がうちの厩舎の機密を漏らしているというのは、以前から他の先生たちから聞いてはいたよ。幼少期から周囲は味方や同士ばかりだったんだ。仕方ないさ」
他の調教師から指摘されるほど重大な事なのに、仕方ないで済ませてしまうのが岡部という調教師。
だが決してこの器の大きさに甘んじてはいけないと皆は己を律している。
それなのに自分はと、真柄はさらに深く反省した。
「失敗は誰にでもあるよ。僕も何度も失敗してきた。どうだ? 乗り越えていけそうか?」
「たぶん俺こんなだから、また失敗すると思います。その時は、またご指導ください」
岡部が真柄の頭に手を置き、髪をくしゃっと乱す。
「僕じゃなくみんなにそう頼め。それが許されるのがお前の長所だよ」
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