第19話 来賓
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
競争が終わると国際競争恒例の式典が行われた。
竜が跳躍する姿を象った、『海王賞』の盾が瑞穂競竜協会の理事長から義悦に渡される。
その後、岡部、服部、古河牧場の生産者にも表彰が渡される。
昨年の式典はどうしたのかと義悦に聞くと、急用で欠席という事で替わりに義悦が受け取ったらしい。
義悦が表彰を掲げると、会場から笑いが沸き起こったらしい。
表彰が終わると口取り式になった。
義悦の招きで、最上、梨奈、奈菜も口取り式に呼ばれた。
検量室と観客席の間に口取り式用の場所があり、中央の高台に『オンタン』が乗り上げて、左右に奈菜とまなみが立ち、その横に岡部や義悦たちが並んで写真を撮影した。
『オンタン』の競争後の処置を三浦厩舎の厩務員にお願いし、岡部は義悦たちと一緒に浜松の大宿へと向かった。
まなみは奈菜と違って非常に社交性が高いのだが、いつもはもう寝ている時間であり、義悦の膝に座って寝ている。
奈菜も岡部に甘えて膝に座って寝ている。
岡部と義悦の席から、通路を挟んで梨奈と直美が座っている。
幸綱はあげはと共に大宿でお留守番。
最上が言うには、来ると竜券を買って大はしゃぎするから置いてきたのだとか。
「どうかしたんです? お疲れのようですね」
無言で奈菜の背中を撫でている岡部に、義悦が気を配ってたずねた。
「『海王賞』は、お金は良いんですが、色々と面倒なんですよね……」
「さっきの式典の事ですか? あ、まさか、もう来年の叙勲の事を考えてたりします?」
どうやら図星だったらしく、岡部がうなだれてため息をつく。
「また、あの窮屈な燕尾服着るのかと思うと……」
「正装なら何でも良いはずですよね。燕尾服が嫌なら紋付でも良いんですよ?」
「昨年紋付も着ましたけど、燕尾服の方がまだ楽でした」
義悦も会長であり、正装する機会は多い。
気持ちはとても良くわかる。
「直接足を運ばれるくらい陛下はお気に召してくれたんです。お話くらい聞いてあげてくださいよ」
そう言って義悦は笑った。
大宿に着くと岡部はすぐに温泉へと向かった。
この時間が何よりの遠征の楽しみである。
岡部が温泉に浸かっていると、最上と義悦がやってきた。
「いやあ。国際競争を連覇なんて、大会派になった気分ですね」
義悦は上機嫌で最上に言った。
最上も全くだと上機嫌である。
「そういえば、あの『オンタン』って誰の竜なんですか?」
「会の所持になってます。名目上は私ですけどね」
「『コンコウ』たちもですか?」
『コンコウ』と『シュツドウ』は私だと最上が微笑む。
「来年もう一年泳がせたら、次の年は『コンコウ』でしょうね」
「そんなに良い竜なんですか? 『コンコウ』は。そういう噂話だけは聞こえてきますけど」
「圧倒的ですね。例の飛行艇の完成が待ち遠しいです」
何の話だと最上が二人にたずねた。
義悦が説明をすると、自分の竜が世界に旅立つと感じたようで、最上はニンマリと顔を緩ませて喜んだ。
「そうだ。世界と言えば、先生、以前言ってた海外枠の件、変更になりそうですよ」
「どういう仕切りに変わるんです?」
「人じゃなく、竜に権利が与えられる感じですね。上位五位の枠が撤廃になり、重賞の決勝で好走が条件になりそうです」
それを聞いた最上が、かなり門戸が広がると言うと義悦も岡部もうなづいた。
「で、いつくらいからになりそうなんです?」
「早くて再来年ってとこじゃないですかね」
「世界か……世界ねえ……」
だらりと湯舟に体を預け、岡部は天井を仰ぎ見た。
部屋に戻ると、梨奈が窓際で涼んでいた。
今回、奈菜との部屋の取り合いは梨奈と幸綱が制したらしい。
恐らく奈菜はもう眠くてそれどころでは無かったのだろう。
出会った頃からそうであるが、梨奈は一人っ子なせいか、かなり無防備なところがある。
こういう場所で提供される寝巻というものは、かなり大きめで隙間から色々見えるのだという事に気付いていない。
そもそも梨奈はガリガリと言って良いほど細身で、浴衣を着ると人一倍隙間が開く。
今もかなり薄い胸部が襟元から覗き見えてしまっている。
ちらりと布団を見ると、幸綱はとっくに夢の世界の住人だった。
幸綱の軟らかい頬っぺたをつんと突くと自然と笑みがこぼれてしまう。
再度、窓際に視線を移し、梨奈の前の椅子に腰かけると、缶の麦酒が置いてあり、コップが二つ置かれていた。
岡部のコップに麦酒を注ぎながら、梨奈が少し赤い頬で『海王賞』の制覇おめでとうと言って微笑んだ。
「ねえ梨奈ちゃん。もしもだよ。海外に行けるって言われたら、どこに行ってみたい?」
梨奈は笑顔で首を傾げ、急に言われてもと困り顔をする。
「実はね、世界に行くなんて想定してなかったから、どうにも実感がわかなくてね」
岡部が注いでくれた麦酒に少しだけ口を付け、雲の上のような話と言って梨奈がくすりと笑う。
「そうやねえ。そしたらやっぱり華やかな印象のあるゴールやろか」
「わかった。じゃあ梨奈ちゃんをゴールに連れて行くのを明日からの目標にするよ」
「無理だけはせんといてね。綱一郎さんが元気で家に帰ってきてくれはったら、私は幸せなんやから」
照れくさそうにそう言って、梨奈が指をもじもじとさせる。
そんな梨奈を岡部がじっと見つめる。
少し良い雰囲気になったところで突然幸綱が泣き出し、どうしたのと言いながら二人は寝床へと向かった。
朝、直美と奈菜は非常に機嫌が悪かった。
寝床を追い出されて床に寝かされてたと奈菜が愚痴る。
父さんと寝てる時はそんな事ないのにと口を尖らせる。
まるで、直美の方が寝相が悪いとでも言いたげである。
直美の方は、一人じゃ寝れないと泣くから添い寝したのに、夜中、何度も奈菜に蹴られたらしく、なかなか寝付けなかったと愚痴った。
そんな二人を見て、大変でしたねと言ってあげはがくすくす笑った。
朝食を取り終えると、岡部は事後作業のために三浦厩舎へ向かった。
『オンタン』の状態を確認し、放牧の手続きをした。
その後、三浦と調教について話をしていると、井伊事務長が大慌てで飛び込んできた。
相変わらず騒がしい男だと、走ってきて息の切れた井伊に三浦が言い放つ。
井伊は三浦の言葉を無視し、来賓が来ているので、すぐに事務棟にお願いしますと岡部に伝えた。
「あの、今日はこの後、妻子と花公園に行こうと思ってるんですけど」
「それは明日に回してください。相手が相手ですから」
どうせまた竜主会の浅利だろうくらいに思っていたが、この感じ、どうやら違うらしい。
「まさか、陛下ですか?」
「いえ、陛下は昨晩、お戻りになられました」
『陛下』という単語に三浦が飲んでいたお茶を噴き出しそうになってむせている。
「もしかしてスィナンの爺さんですか?」
「いえ。デカンのブッカ師です」
やれやれという仕草をし、岡部はちらりと三浦を見た。
すると、三浦が信じられないという顔で岡部を見ていた。
ため息をつきながら、岡部は渋々という感じで事務棟へと向かった。
事務棟最上階の来賓室へ向かった岡部を上品そうな老人が待っていた。
髪は白く、髭も白い。
頭には白い布を巻き、長衣を着ていて腰に皮帯を締めている。
顔は浅黒く精悍そのものだが、目は穏やかで温厚そうに見える。
つかつかと岡部に近寄り、手を取って「オメデトウ」と言ってブッカは微笑んだ。
「ありがとうございます」と言って岡部もニコリと微笑む。
井伊が二人を長椅子に案内すると、座る前にブッカは合掌して頭を下げた。
これがうちの挨拶だから、真似をしてみてくれと通訳が言う。
合掌をすると、思わずいただきますと言いたくなると部が笑った。
通訳がそれをブッカに伝えたらしく、瑞穂の人はみんなそれを言うと笑った。
「食べられる事に感謝、出会えた事に感謝、気持ちは同じです」
そう言ってブッカは頬を緩ませた。
チャンドラ・ブッカ。
デカン共和国を代表する調教師である。
未だ主三国の国際競争の制覇こそ無いものの、これまで、ペヨーテやブリタニスで何度も重賞を好走している。
数年前には、事前の低評価を覆し、嘴差で優勝を逃したという事もあった。
真っ白な頭髪のため、スィナンよりも見た目では年上に見えるのだが、実は年下であるらしい。
先日、ブリタニスの競争でブッカはスィナンに会ったらしい。
そこで岡部の話を聞いたのだとか。
我ら準三国を主三国と同等に扱わせられる逸材と紹介されたのだそうだ。
恐らく『海王賞』に出てくるから見に行ったら良いと。
スィナンは以前から岡部の名前を故武田師から聞いていたが、ブッカは初めて聞いたらしい。
スィナンに比べると、ブッカはそこまで瑞穂の競竜に詳しくないし興味も無い。
だがスィナンのある一言がブッカを瑞穂に誘った。
『あの竜運船を作ったやつに興味が湧かないのか?』
紅茶の茶碗を机に置くと、ブッカはじっと岡部を見つめた。
「竜運船を作ったのが君というのは本当ですか?」
「発想は私ですが、それを形にしたのは会派ですね」
「あれは素晴らしい。あれで止級の競竜場に連携が生まれ、止級が盛り上がった。パルサも同様らしい」
デカンではこれまでは止級は競竜場が独自に開催している状態で、収益が右肩下がりだったのだそうだ。
「今、瑞穂もかなり盛り上がってますよ。賞金も底上げになりましたし」
「次の課題は海外輸送だな。それができれば止級は真の意味で伊級に並ぶ事になるだろう」
「そちらの方も、もう手は付けていますので完成をお待ちください」
その言葉にブッカは子供のように目を輝かせた。
「資金が不足しているなら私が出す! スィナンにも出させるよ! ぜひ急いで欲しい!」
「そこまで難しい事じゃないようなので、そんなに時間はかからないと思いますよ」
いずれにせよ開発費はこちらかも用意するから貰っておけと言ってブッカは大笑いした。
「ところで、君はいつ世界に出れるんだ? 瑞穂には何やら面倒な規約があるんだろう?」
「まだやっとこの舞台に上がったばかりですので。ただ、世界の舞台が目の前という感触はあります」
その岡部の発言に、ブッカは嬉しそうに何度も頷いた。
「昨晩、止級は見せてもらった。伊級ではまだ名を聞かないのだが、伊級は苦手なのかね?」
「止級は参加四年目で、伊級はまだ半年です。その差だと思います」
半年では聞かないのも当然だと言ってブッカは笑った。
「では、数年もすれば重賞に出てこれるのかね?」
「勝負の世界ですからね、確約はできません。ですが、そうありたいものですね」
そこまで聞くと、ブッカはそれまで優しかった目を厳しくした。
「君は私と世界に出る気はあるかね?」
ブッカの顔を見て、岡部はニコリと笑った。
「妻がゴールに行ってみたいと言っています。ですので、願いを叶えてあげたいなと思っています」
通訳が訳すと、ブッカは最上のような豪快な高笑いをした。
夫婦仲が良いというのは素晴らしい事だと言ってブッカは自分の膝をパンパン叩いた。
「私も竜と同じくらい妻を大事にしているよ。スィナンみたいに何人もじゃない、一人だけだぞ」
そう冗談を言ってがははと笑い出した。
一通り笑うと、ブッカは涙を拭き、手を差し伸べた。
「私とスィナンが手を引いてやる。その時が来たらまた会おう」
よろしくお願いしますと言って、岡部はその手を取った。
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