第18話 海王賞
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
『海王賞』の事前会見の控室は岡部の伊級の条件戦の話題一色だった。
控室内の七人は全員、『エンラ』『スイコ』どちらかを目撃している。
その二騎を鍛えた当の本人が目の前にいるのだから、聞き出さない手は無いだろう。
そもそも、あれはどんな理論なんだと、まず十市がたずねた。
「これまでみたいな器の中を仕切るようなやり方じゃなくて、まずは器を速度で埋めてしまって、足りない部分は器の方を別の物に変えて、そこに入れたっていう感じでしょうか」
そう岡部は説明したのだが、全員、何を言ってるのかわからないという風だった。
ただ藤田にはどうもそれで通じたらしい。
「俺も仮説を立てていて、それに対してどうすれば良いかという方法も考えてたんですよ。大筋は岡部のそれと同じで、実際これまで何度も試行錯誤をしてきたんですが、一頭も成功はしなかったんですよ」
そう藤田が宇喜多に向かって言った。
「伊級に来たばかりで勝手がわからず調教をしすぎるのは、昇級したての調教師なら多くの者が体験している事だからな。その先を探ってみようというのは俺も経験があるよ」
ずいぶん昔の話になると言って宇喜多が話し始めた。
調教のしすぎでドボンさせると、そこから竜はどんどん動きにキレが無くなり全く勝負にならなくなる。
キレさえ取り戻す事ができれば、もしかしたら一皮むけたような強い竜ができるんじゃないだろうか?
駄目で元々と調教を続けてみるが、どんどんキレが悪くなるだけで最後は故障する。
結局、ドボンに先など無いんだと結論付けて諦める。
その宇喜多の話に一同は同意して頷いた。
「仮にそんな事を妄想したとしてもだ。そもそも、わざわざ試してみようとはならないよな。岡部も、恐らくは例の狙撃事件で入院したのがきっかけだとは思うんだが」
そう言って今度は池田が話し始めた。
もちろん藤田のように、これまで幾人かは自発的に試した者もいただろう。
だが、そもそも雲をつかむような話である。
第一、終着点すら不鮮明なものをどうやって目指すというのか。
ましてや普通に鍛えればちゃんと飛ぶ竜を、わざわざドボンさせてその先を目指そうなど、はっきり言って正気の沙汰じゃない。
その池田の意見に国重が同意して苦笑いした。
すると、実は武田先生が引退直前に何かを試していたのを見たという話を秋山がし始めた。
その時は武田先生でもドボンさせる事があるんだと感じていた。
今にして思えば、あの時、武田先生が目指していたのがこれだったのだろう。
「器を変える為には羽ばたきの矯正が必須で、それがなかなか上手くいかないんです。その部分は未だに僕も何が正解なのかわかってません」
そう岡部が説明すると、つまりはそれが『燕』にするという事なのかと、秋山は少しだけ納得したようだった。
「全部あれで調整してみているのか?」
そうたずねたのは国重だった。
「全部調整してみましたが、途中で方針修正したから矯正が済んだ順で今は飛ばしています。次は中距離竜になると思います」
「伊級の主軸は中距離だ。もし中距離でも同じ結果が出せるようなら、今後の調教はそれが絶対になっていくんだろうな」
そう感想を述べた十市の表情は真剣そのものであった。
そうなったら伊級の調教の根本が変わると皆が言い合った。
「相変わらず君は、凄い事をいとも簡単にこなす男だな」
そう言った松井の顔はとても誇らしげであった。
事務員が控室に来ると、調教師たちは一様に表情が硬く、空気も重くて困惑した。
それを察した宇喜多が手をパンと叩き、伊級の前に大仕事をしに行こうと皆を促した。
席順は奥から、宇喜多、池田、藤田、国重、十市、秋山、岡部、松井の順。
「毎回何の席順かでよく揉めるが、結局年齢順なんだな」
席に着くなり宇喜多が言った。
するとすぐに、松井くんの方が僕より上だと岡部が言い、俺より国重さんの方が上だと藤田が指摘。
そうだっけと国重がとぼける。
そのやりとりに会場から爆笑が起こった。
質問はいつものお決まりの内容で、出来と勝算、意気込み。
若者の台頭が著しいが爺さん組として負けるわけにいかないと宇喜多が回答。
するとそれを受けた池田が、《《若者組として》》、ひよっこには負けられないと述べた。
藤田も若者組として万年二着では終われないとしたり顔で言う。
若者組としては狙うは一着だと国重も言った。
この時点で、こいつらめと宇喜多が池田たちを睨んだ。
十市が不思議そうな顔をして国重たちを見る。
普通、若者は自分で若者組なんて言わないと言うと宇喜多が爆笑した。
いつも前哨戦だけで終わるので、今回は本番も結果を出したいと回答。
どうにも若者の線引きがおかしいと秋山が首を傾げると、おかしくねえよと池田が文句を言った。
今回は謙虚に一つでも上の着を目指すと回答。
もちろん目指すのは連覇だと岡部が回答。
今回はちゃんと自分の目で勝つところを見たいと言うと、会場から失笑が漏れた。
藤田と十市、秋山は爆笑。
呂級だからやれないという事は無いというのは昨年同期が見せてくれたので、お礼にその同期を倒してやりたいと松井が述べた。
不服そうな目で岡部は松井を見たが、松井は顔を反らした。
記者たちは終始爆笑であった。
最後に国際競争恒例の枠順決定の抽選になった。
最初に引いた松井は橙。
次の岡部は箱から出した瞬間に「おしっ」と声が漏れた。
玉の色は白、最内枠だった。
玉を掲げると後ろで十市と秋山が同時に「くそっ」と呟いた。
翌日、浜松の大宿に最上たちが到着。
約束通り直美も梨奈も連れてきて貰えてニコニコ顔だった。
奈菜は久々に会った岡部に甘えまくりだった。
その後、岡部は抱っこした幸綱に顔をいたずらされながら、直美、梨奈、奈菜、最上夫妻と七人で浜松駅周辺をぶらぶらした。
岡部にうなぎ菓子を買ってもらった奈菜は、嬉しそうに大事に抱きかかえた。
夕方には義悦が到着。
最上から梨奈たちが来る事を聞かされていた義悦は、娘のまなみを連れてきており、激励会はかなり賑やかなものとなった。
夜の八時が近づいている。
電光掲示板に竜柱が表示され、展示泳走が始まった。
先に太宰府の『潮風賞』の発走が中継された。
今回、伊東は『藤波賞』の結果から『ニヒキジュンサイ』を『潮風賞』に出した。
大久保忠陽の『ジョウテイジ』、秋山の『タケノシワク』、岡部の『サケセンカイ』が人気となっている。
大時計が回ると外の『タケノシワク』が、いきなり加速を開始。
『サケセンカイ』『ジョウテイジ』も順次加速、『ニヒキジュンサイ』は、かなり早めに加速を開始した。
発走を見た岡部たちが、「あれ今の」と言い合った。
『ニヒキジュンサイ』が勇み発走に見えたのだ。
圧倒的な差で『ニヒキジュンサイ』は向正面を進んでいる。
跳躍後に発走写真が公表になると、「ここでそれかよ!」と秋山が思わず叫んだ。
零線発走だったのだ。
この時点でもう勝負は決まったと言っても良い。
残り一周、『ニヒキジュンサイ』は後続に影を踏ませず泳ぎ切った。
二着は『ジョウテイジ』、『サケセンカイ』はハナ差の三着だった。
発走者の旗が上がり、発走曲に合わせ、各竜が一斉に発走位置へと向かった。
――
夏の大一番、国際競争、『海王賞』決勝の発走時刻が迫ってまいりました。
今年は急遽、天皇陛下が駆けつけ天覧競争となりました。
松井宗一、昨年の岡部に続き、ここで伊級昇級を決める事ができるかどうか。
一枠サケオンタン、二枠シミズシュモク、三枠タケノノシマ。
四枠ニヒキガゴメ、五枠ロクモンソクシャ。
六枠イナホアタギ、七枠ミズホビンナガ、八枠クレナイカンサイ。
進入隊形は三、二、三。
大時計が動き出しました!
外三頭加速、内二頭加速、内三頭も加速しました。
今、発走しました!
発走順は七枠、四枠、一枠。
各竜一角の攻防!
一枠急旋回、六枠、七枠の外を先行、二枠、八枠大きく外!
前から一枠、六枠、二枠。
向正面、各竜、飛越。
発走は全竜正常。
何頭か潜航に入っています。
まもなく二角に差し掛かります。
順位変わって先頭クレナイカンサイ!
一枠、八枠を抑えて回る、二枠外、四枠急旋回で内!
一枠、六枠、二枠潜航。
二周目に入りました。
先頭はサケオンタン!
各竜、一角に向かいます。
一枠の外を六枠が回る、二枠急旋回、四枠急旋回でさらに内を突く!
先頭、変わってイナホアタギ!
各竜、飛越。
二枠、七枠潜航。
まもなく二角にさしかかります。
六枠、一枠を抑えるが、一枠体当たり、六枠大きく外! 二枠、四枠内を突くが加速が鈍い、外から七枠!
一枠、六枠、四枠潜航。
最終周に入りました。
一角の攻防!
一枠急旋回、六枠外、二枠、七枠を抑えて先行!
各竜、飛越。
全竜一斉に潜航。
まもなく二角、最後の反転角にさしかかります!
全頭浮上!
一枠急旋回、六枠抑えられず外へ、二枠間を進む!
最後の直線!
サケオンタン先頭!
外イナホアタギ必死に追いすがる!
シミズシュモクは苦しいか!
内サケオンタンか!
外イナホアタギか!
サケオンタンだ!
サケオンタン先頭で終着!
サケオンタン、海王賞連覇達成!!
――
服部は夜空を見上げ、ゆっくりと両手を上に挙げた。
正面直線の真ん中で一度竜を止め、天皇陛下のいる特別観覧席に向かって頭を下げた。
検量室に戻った服部は岡部に、今年はちゃんと見てましたかと言って笑った。
「ああ、大激戦だったな。陛下もさぞ楽しめた事だろうよ」
服部はニコリと微笑み、義悦と握手を交わす。
義悦に抱っこされたまなみを見ると、眠くてかなりぐずったようで鼻の頭が赤い。
そんなまなみに服部は、姫のために勝ちましたよと言って頬を突いて微笑む。
小さな手を振ってまなみは精一杯の笑顔を服部に向けた。
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