第15話 居酒屋
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
『藤波賞』の翌日、店を予約したから呑みに行こうと松井が誘ってきた。
奇しくもそこは岡部厩舎馴染みの焼き鳥屋『串みつ』。
大将は競竜が大好きで、岡部を見るとすぐに『藤波賞』は惜しかったねと声をかけてきた。
慌てて岡部が口に人差し指をあて、しっと言って大将を黙らせる。
うちのお客さんは節度のある競竜好きだから大丈夫だ言って、大将は「がはは」と笑った。
奥の仕切りのある席に座り串の盛り合わせと麦酒を頼むと、麦酒と一緒に頼んでいない串が運ばれて来た。大将からの差し入れだと給仕の女性が微笑む。
どうやら店選びを間違えたらしいと松井も苦笑いである。
麦酒をくっと喉に流し込むと、武田がこの空気が久々だと切り出した。
「三人だけで呑むなんいつ以来やろ? もしかして研修以来なんちゃう?」
そう武田が言うと、そうかもしれないと岡部も言った。
松井と武田、岡部と武田、岡部と松井という二人呑みは何度もある。
さらにいえば三人とその家族という呑みも何度もある。
だがこの三人だけというのは、それだけ珍しかった。
麦酒が運び込まれ、さっそく乾杯。
三人のお父さんの話題は、まずは家庭の話だった。
一昨年、武田家は第三子が産まれている。
三人続けて男の子だったらしく、加那は娘が産まれるまで諦めないと意気込んでいるらしい。
子沢山の賑やかな家が良いと加那は言っており、子供たちの家族たちと一緒に住むのが夢なのだとか。
「それには広い家が必要になるな」
「そやねん。加那ちゃんそういうん全然わかってへんのよ。掃除大変なだけやのに」
それを聞くと松井は「ふっ」と鼻で笑った。
「わかってるんだよ。これまで君が遠征で家を空ける事が多かったから、寂しさが限界を超えちまったんだよ」
「松井くんとこもそうなん?」
その武田の質問に、松井は目を閉じて黙ってしまった。
「……麻紀ちゃんがそんなタマに見えるか?」
岡部と武田は見えないと言って笑いあった。
そんな松井の話は上の娘、小夜の事だった。
小夜は今年小五になった。
その時点で武田は、そんなになるのかと驚いている。
小夜は勉強はそれなりにできるのだが、とにかく運動神経が悪いらしい。
そのせいか教室の中ではかなり暗い存在なのだそうだ。
中学生になっていじめにあわないか、麻紀が非常に心配している。
「性格が違うから、麻紀さんみたいにはいかないんじゃない?」
「俺もそう思うんだよ。それぞれ個性があるんだからって。だけど麻紀ちゃん、嫁に行き遅れたらどうしようって……」
その一言に、岡部は何を言ってるんだという顔をして松井を見る。
岡部からしたら、三歳の頃から小夜の事を知っているわけで、嫁に行くといわれてもどうにもピンと来ない。
「今から嫁にいく心配してるの? 早くない?」
「俺もそう思うんだよ……」
すると、さっきから「そう思う」ばっかりだと武田が指摘。
それを岡部が笑った。
「麻紀さんに、面と向かって松井くんが言えるわけないじゃん」
武田は笑ったが、松井はイラっとした顔をする。
「ほう。君らは家では亭主関白でいられるらしいな。何とも羨ましい話だ」
その松井の指摘に、武田も岡部も黙ってしまった。
それに武田が首を傾げる。
「あれ? 岡部くんも嫁さんは制御できてへんの?」
「そんな事ができる人なんて、この世に存在しないでしょ!」
すると、松井がぷっと噴き出した。
梨奈さんは皆に優しいんだけど、岡部君とお母さんには当たりが強いんだと大笑い。
「最近さ、すぐ拗ねるんだよ。何かっていうと奈菜と張り合おうとするし。参っちゃうよ」
「奈菜ちゃん、君にべったりやもんな。そら梨奈さんも妬くやろ」
「でもさ、甘えてくる娘は可愛いんだよね」
少しデレっとした顔を岡部がすると、松井が顔を背けた。
そのうち汚れたぬいぐるみみたいな扱いに変わるのにとぼそっと呟く。
あのおっとりした小夜ちゃんが家ではそんななんだと思うと、岡部は少し不安にかられた。
暫くすると話題は家族の話から競竜の話へと移った。
岡部は止級はすでに実績があり、伊級も少しだけ目途が立っている。
だが、二人はそこまで順調では無い。
武田は伊級ではそこそこ勝ち星を挙げているのだが、止級が未だによくわからず悩んでいるらしい。
松井は呂級の目途は立っているものの、とにかく、杉、大須賀が圧倒的で歯が立たないのだそうだ。
「止級なんて調教する時間に気を付けるだけじゃん」
そう岡部は簡単に言うのだが、未だにその意味がわからんと言って武田はお手上げだという仕草をする。
「俺は親戚に漁師がいて、小さい頃こづかい稼ぎで手伝ってたからすぐにわかったけど、わかんない人には難しいらしいよ、それ」
「ならさ、潮の流れの早さを調べたら良いじゃん。わからないなら厩務員に聞いたらいいよ」
「聞いたけど誰もわからなかったんじゃないのか。うちもそうだったぞ」
松井の発言に、武田がこくこくと頷く。
「ええ、そうなの? そんなに難しい事なのかなあ。潮の干満差の話って」
潮が満ちる時間から引ききるまでの間で潮流の速さは時間ごとに変わる、ただそれだけの話なのに。
そう岡部は言うのだが、わかってる人には『それだけの話』なんだと松井は笑い出した。
「俺も雑賀さんや高森さんにさんざん説明したけど、いまいち理解はされなかったぞ」
「へえ、そうなんだ。十河はすぐ理解したんだけどなあ」
「いや、あの娘は才能は一級品だから。思考も柔らかいし。ただ精神が少女のままってだけで」
松井の的確すぎる分析に岡部はゲラゲラと笑い出した。
そういえば十河は今年試験を受けさせる事にしたと松井が報告。
すると武田が小さくため息を漏らした。
「うちからも調教師送り出したいんやけどな。君らどうやってそないな逸材見つけてくるん?」
「十河はねえ、もう最初から話してて他の人とは全然違う感じだったんだよ。だから岡部くんのとこに送ったんだよ」
「そうなんやあ。うちにはそない有望な人おらへんのよ」
そう言って落ち込む武田に、副調教師は立ててないのかと岡部がたずねた。
「逸見のおっちゃんと、宮部のおっちゃんの二人がやってる」
どちらも紀三井寺時代からの古株厩務員だと武田は説明。
「逸見さんって確か主任だった人だろ。じゃあ主任は今、誰がやってるんだよ」
「それまで厩務員やったんを二人抜擢した。一人武藤っておっちゃんで、一人牧野っていう若いのやね」
武田はそれがどうかしたのかという感じで言ったのだが、岡部と松井が同時に「ん?」と声を発した。
「なんだよ、抜擢するほどの若いのがいるんじゃんよ。それなら君がその人を育てれば良いだけじゃんか! 人材はほっといたら勝手に育つってわけじゃないんだぞ?」
「そない言われても、何したら良えかわからへんもん」
松井は呆れ顔で首筋を掻き、岡部もやれやれという仕草をする。
「君に何かあったら厩舎はどうなるんだよ。そんな時に任せる事ができるように普段から仕込んでおくんだよ。まずは逸見さんか宮部さんを調教師に出して、牧野君に後をやらせるんだよ。その後で、また別の若いのを仕込むんだよ」
うちの新納や岡部君のところの成松みたいにと松井は説明。
やっと理解ができたようで、そういう事かと武田がポンと手を叩く。
まさか君がそんな事で躓くとは思わなかったと松井は呆れた。
「君がやらなかったら君の会派は永遠に大きくならないんだぞ。少しは岡部くんを見習えよ!」
うちはうちで僕に頼りすぎだと思うと岡部が呟くと、二人は大笑いした。
「ところで、松井くんは今年の昇級は厳しそうなの?」
「厳しいね。杉さんと大須賀くんがとにかく猛威を振るってる。去年の君らみたいだよ」
現在松井は九位らしい。
毎月のように重賞に出走はしているものの、決勝ではまるっきり歯が立たないらしい。
「九位ならさ、ちょっと粘れれば」
「いや、もう今年は諦めた。来年に向けて牙と爪を研ぐ事にしたよ」
杉さんもう重賞四勝なんだぞと武田が笑う。
そこは同じ会派、岡部にもその情報は当然入っている。
「去年の『大賞典』が余程悔しかったんだろうね」
そう言って岡部が笑うと、『アレ』なと言って武田も笑い出した。
松井が『アレ』って何の事だとたずねる。
岡部があげはの竜券事件の話をすると、松井は腹を抱えて大笑い。
相変わらず紅花会は暖かいと松井は嬉しそうに笑った。
宴もたけなわになった頃、岡部の成績の話になった。
武田も松井も、未だに一勝もできていない岡部を非常に心配している。
だが岡部は、先日田辺に行った時の話をし、故武田師は最後に僕と同じ結論に至ったらしいと説明。
「だから、今の試みが上手くいったら、もしかしたら世界に出れるかもしれないんだよ」
「ほえぇ。うちら雷鳴会の実家にそないなお宝が埋まってたやなんてなあ」
「お宝かどうかは結果が出ない事には。もし今年いっぱいやって何の手応えも得られないようだったら、素直に諦めて、来年からは普通の鍛え方で勝負するよ」
それを聞いた松井が、とんでもない大博打を打ったもんだと大笑いしている。
「ほんで、その信文翁の遺産ってどんな内容なん?」
「そうだなあ。今の段階では『燕を作る』って事くらいしか言えないかな。僕もまだ入口が見えてるだけだからね」
あまりにも意味がわからな過ぎて、武田が目を瞬かせる。
「……何の事やら全くわからへん」
「うん。だからね、わかったら世界に行けるのかもって言ってるんだよ」
『世界』
その単語を聞いた武田は急に真顔になり、残った麦酒を呑みほして、ならば僕も明日から研究すると左拳を右手にぱちりと当てた。
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