第12話 宮津
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・畠山義則…伊級の自由騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
畠山たちと別れ、岡部と最上は直美たちと合流。
田辺は練り物が有名らしいという情報を得て、鮮魚市場へ向かう事になった。
練り物が大好きな奈菜は、あっちこちで蒲鉾と竹輪を試食しては買ってとせがんでくる。
ところが、その中に一口食べて吐き出し咳込んだ物があった。
それは蒲鉾を胡麻油に漬けた物という珍しいものであった。
粒胡椒と鷹の爪が効いているから、お嬢ちゃんにはちょっと無理だったかなと店のおじさんが笑っている。
どれどれと一口食べた岡部は、すぐに最上たちに試食するように薦めた。
一口食べるた最上は、これは酒が呑みたくなると大喜び。
宿で扱うように言いますとあげはも目を輝かせる。
直美も梨奈も、美味しいと言って瓶を買い込んだ。
そんな大人たちを見て、一人奈菜だけが何か納得いかないという顔をしている。
その後、市場で夕飯をとる事になった。
夕飯は海鮮丼で、しめ鯖、まぐろ、ひらめ、ぶり、甘海老が乗っている。
母親に似て奈菜は食が細く、直美にもかなり心配されている。
試食で完全にお腹が膨れてしまっているらしい。
あげはと梨奈から分けて貰ったご飯を、蒲鉾と甘海老をおかずに食べている。
海鮮丼を一口食べた岡部は、そのまま箸を止めて深刻そうな顔で考え込んでしまった。
心配した梨奈が、どうしたのとたずねるのだが、どうやら聞こえていない感じ。
奈菜も心配そうな顔で箸を止めて岡部をじっと見ている。
まぐろとひらめ、ぶりを丼の中で並べ、岡部はそのまま無言でじっと見つめている。
「綱一郎さん、どないしはったん? 味が変なんやったら変えてもらいはったら?」
岡部の耳元で梨奈が小声でささやくように言った。
その声に岡部がはっとする。
「そうじゃないんだよ。とんでもない間違いをしていた事に気が付いたんだよ」
「もしかして、お仕事の話?」
梨奈にそう言われて、今は旅行中だったという事を改めて認識した。
「やっぱり旅行って良いもんだね。最高の気分転換だよね」
「そうやろ。そう思いはるんやったら、もっと頻繁に誘ってくれはっても良えんよ」
岡部の顔をじっと見て、梨奈がちくりと言葉を刺す。
「持ち帰って、検討させていただきます」
「あっ、それ、する気無いやつやん!」
梨奈が頬を膨らませると、最上たちが大笑いした。
田辺で高速道路に乗って宮津まで行き、紅花会の大宿へ向かった。
受付であげはは支配人を呼びつけ、「あなた、これをご存知?」と蒲鉾の胡麻油漬けを見せた。
来て早々の指摘に、支配人が酷く焦った顔で首を傾げる。
「これ一瓶あげるから、これをすぐにこの宿の取り寄せに加えてちょうだい!」
いいわねと、まるで念を押すようにあげはは指示。
その鋭い眼光は完全に大女将のそれであった。
部屋は二人部屋を三部屋取ってくれていて、最上夫妻で一部屋、岡部家で二部屋という状況。
そのせいで、梨奈と幸綱か、それとも奈菜か、どっちが岡部の部屋になるかで揉めた。
奈菜は恐ろしく寝相が悪いから一緒はちょっとと直美が言うと、嬉しいような悔しいような複雑な顔を奈菜はした。
結局その一言が決め手となり、岡部と奈菜が同じ部屋になった。
さっそく浴衣に着替え、岡部と最上で温泉へ向かう。
「先ほど何か光明が見えたみたいだったな」
「武田先生の『燕』というのが大きな手掛かりに。僕はずっと『鷹』にしようとしていたんですよね」
「……まあ、そう言われても何を言われているのか全然わからんが、君の事だ、余程の事なんだろうな」
にんまりと笑う岡部を見て、最上も満足気な顔で頷いた。
「これで上手くいくようなら、秋にまたどこかに旅行に行きましょうよ」
「うむ、そうしようじゃないか。我々も歳だからな。いつまで一緒できるかわからんからなあ。行ける時に行っておかないと」
突然不穏な事を言い出した最上に、岡部が心配そうな顔をする。
「どこか、お悪いんですか?」
「そりゃあ、この歳になれば、体のあちこちにガタがくるというものだよ」
それが歳を取るという事だと最上は笑いながら言った。
「できれば、世界に出ていくまでは頑張っていただきたいですね」
「なぬ? そんなに早く、くたばってやるもんか! 君が世界の重賞を取りまくるまで、私は生き続けてみせるわ!」
最上が高笑いすると岡部も笑い出した。
「しかし、まさかうちの会派から、陛下の謁見の機会を下賜される調教師が出るなんてな」
実に嬉しそうな顔で最上は岡部をじっと見る。
「陛下、あの一件を境に競竜を観る事にはまってるそうですよ」
「おいおい、ほんとか! まさか、竜券買ったりしてるのかな?」
「買ってみたいとは言ってましたね。伊級だけじゃなく止級や呂級も観に行きたいって」
驚きで最上は目を丸くし、口が開いたままになっている。
「おお、天覧競技か! 先々帝の御世ではよくあったんだがなあ。先帝が鉄火場だと嫌ってなあ」
「まあ、社交辞令かもしれませんけどね。三宅島の鳳梨酒が美味しかったなんて、わざわざ言ってましたからね」
「ああ、そういえば大宝寺が献上したとか言ってたな」
最上と岡部は顔を見合わせ、陛下はどこまで本気なんだろうと言い合った。
部屋に戻り窓際で涼んでいると奈菜も風呂から帰ってきた。
嬉しそうな顔で岡部の所まで走って来て、膝に腰かけて足をパタパタとさせる。
「奈菜。幼稚園変わっちゃったけど、お友達はできた?」
それまで嬉しそうにしていた奈菜が少し表情を曇らせる。
「なな。ようちえん、きらいや。だれも、ななのこと、みてくれへん」
岡部の浴衣に顔を埋めて、奈菜は鼻をすすった。
そんな奈菜の頭を岡部は優しく撫でた。
まだ乾ききっておらず湿っている。
「奈菜は、みんなの事、ちゃんと見てあげてるの? それができなければ、誰も奈菜の事は見てくれないよ?」
泣き顔を岡部に向けて、奈菜がどういう事かとたずねる。
「友達はね、鏡みたいなもんなんだよ。奈菜が笑えば、鏡の奈菜も笑うだろ? 奈菜が嫌いだと思ったら、相手も奈菜の事を嫌うんだよ。じゃあ、どうしたら良いと思う」
「ななが、みんなをだいすきになる……」
俯いたまま、岡部の浴衣をぎゅっと握りしめて、奈菜は声を振り絞った。
「それはとっても難しい事なんだけど、できるかな?」
「わかんない。そやけど、やってみる……」
「そっか。奈菜は良い子だから、きっと友達もわかってくれるよ」
頑張ってみると言って、奈菜は岡部にしがみついた。
じゃあそろそろ寝ようかと言うと、奈菜はお便所と言って便所に駆けて行った。
一人で大丈夫かと聞くと、奈菜は振り返り、大丈夫と言ってニカッと笑う。
寝間着を直しながら便所から戻った奈菜は、嬉しそうな顔で岡部にしがみついて眠った。
朝、岡部が目を覚ますと奈菜がいなかった。
寝床から落ちて、布団を掴んで床で寝ている。
しかも、かなり離れた場所に。
奈菜を抱え上げ寝床に寝かし、岡部はそっと温泉へ向かった。
朝食の時に、料理長があげはに挨拶に来て、蒲鉾の瓶を手に、かなり焦った顔でこれはどこにあったのかと聞いてきた。
田辺の鮮魚市場で見つけたと言うと、料理長は目を丸くした。
「大女将の感性に感服です! 自分も定期的にそこに視察には行くのですが、これは今日まで知らなかったですよ。明日、さっそく交渉に行ってみます!」
料理長は実に嬉しそうな顔で目を輝かせ頭を下げた。
「これで、いつでも取り寄せができるわね」
あげはが「おほほ」と笑い出した。
そんなあげはを最上が呆れ顔で見ている。
大宿のある宮津港から天橋立までは、車でそれなりの距離がある。
朝、幸綱の授乳をした関係で梨奈はぐったりしている。
最近、幸綱はよく寝返りをうつ。
起きると誰かを探すように辺りを見渡し、誰もいないと大泣きする。
だからといって誰かに手を握ってもらったとて満足そうにするだけで、握り返してきたりはしない。
幸君は寂しがりやなんだと直美がよく言っている。
その話を聞いた最上は、奈菜ちゃんとはずいぶん違うと言い出した。
奈菜は手を伸ばして、必死に声を出して、手を握ってって要求してきたと岡部が笑った。
甘えんぼだから誰かに構ってもらいたいんだと助手席の直美がつられて笑う。
甘えんぼは今もちっとも治ってないと、隣の席の奈菜の頭を撫でながら梨奈が愚痴った。
話を締めるかのように、三つ子の魂百までといいますからねとあげはが笑うと皆が笑った。
天橋立に到着すると、岡部たちは妙見山の麓にある観覧所へ登った。
おもむろに岡部が股の間から天橋立を眺めた。
それを見て奈菜が不思議そうな顔をする。
「とうさん、そないなことして、なにがみえるん?」
「よく知らないけど、なんか竜が見えるらしいよ。何級の竜なんだろうね」
奈菜もワンピースのスカートを少し捲り、同じようにしようとした。
ところが足がぐらぐらして体勢が定まらない。
崖から落ちそうで危ないと岡部が腕を持ってあげた。
「どう、竜見えた?」
「しろいしたぎがみえた!」
奈菜がげらげらと笑い出す。
何を確認してるんだと岡部が指摘すると、奈菜はさらに笑った。
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