第10話 太宰府
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
五月は『優駿』の月である。
それと同時に止級の入厩の時期でもある。
入院している間、岡部は五月に入ってからの体制表を電子郵便で送付している。
呂級には夏に芝生休息という番組休止期間があり、昨年までなら止級に重点を置けた。
だが伊級は番組休止期間が無く、引き続き能力戦への出走ができる。
そこで完全に厩務員を二つに割る事にした。
大津組は、新発田、荒木、垣屋、花房、赤井、富田、山崎。
太宰府組は、服部、能島、阿蘇、大村、小平、真柄。
成松には五月は大宰府、六月から大津へ向かってもらうという仕切りにした。
西郷は大津に居残って試験勉強。
五月に入って早々に岡部は太宰府へと向かった。
今回、伊級に昇級した事で、岡部厩舎は伊級用の大きな厩舎へと変更になる。
皆、どこか期待で顔がほころんでいる。
最近、真柄と成松が非常に仲が良い。
他の厩務員を誘ってよく呑みに行ったりもしているらしい。
どこかピリピリした雰囲気の生真面目な富田や、あまり感情を表に出さない山崎と違い、真柄は気さくで感情も豊かである。
富田も山崎も楽しそうに仕事をしてはいるものの、どこかまだ周囲と馴染めていない雰囲気を感じる。
その一方で真柄は、たった数日で見事に厩舎に溶け込んだ。
すでに他の厩舎の厩務員にも友人が多くいるらしい。
今回も同じ電車で太宰府に向かったのだが、真柄は、服部、成松と、水着のお姉ちゃんが俺たちを待ってるなどとはしゃいでいる。
「うるせえぞ、真柄! 他のお客に迷惑になるだろが!」
途中で我慢の限界が来た同じ席の能島が激怒。
ところが真柄は、つい水着のお姉ちゃんを想像して興奮しちゃってと、頭を掻いて反省した顔をする。
だが反省してそうなのは顔だけ。
目がにやけまくっている。
能島は呆れ果ててしまい、しばらく俺がこいつの面倒を見なきゃならんのかと頭を抱えてしまった。
賑やかな真柄たちの席とは反対に、岡部は、阿蘇、大村、小平と静かに談笑しながら車内を過ごしている。
その中で、岡部の調教方針に何か引っかかているものがあると阿蘇と小平が言い出した。
だがそれが何かがわからないと。
どの辺りかわかるかとたずねたのだが、阿蘇も小平も首を傾げるだけ。
もしかしたら何か根本的に大きな誤りを自分は犯しているかもしれない。
そう岡部は強く思うようになった。
太宰府に到着すると、まずは事務棟へ行き寮の鍵を受け取り、寮へ荷物を置きに向かった。
その後再度競竜場に集合。
岡部は鍵と荷物を服部に預け、一人事務棟に行き、預けていた荷物と厩舎の鍵を受け取った。
皆が集まったのを見て、中央の通路を左に曲がって伊級の厩舎棟へと入って行く。
外に岡部厩舎の看板を付け、厩舎の鍵を開け『紅地に黄の一輪花』の紅花会の会旗を貼ってから、阿蘇たちに厩舎と竜房の清掃をお願いした。
その間、岡部は成松と能島を引きつれ天満宮へ御札を貰いに行った。
厩舎に戻ると、竜房の外で真柄が正座させられていた。
何があったのか阿蘇に聞くと、阿蘇はうなだれてため息をついた。
どうやら掃除の最中に水遊びをはじめてしまったらしい。
最初は服部に水をかけてじゃれていただけだったのだが、その後、大村にもかけて大はしゃぎ。
そこに何やら竜房が騒がしいと言って事務室の掃除をしていた小平が入ってきた。
そんな小平の豊かな胸部付近に、真柄は思い切り水をかけてしまったらしい。
薄ら笑いをうかべ静かに真柄に近づくと、小平は思い切り頬を引っ叩いた。
そこからしばらく小平は真柄に説教をし、最後、竜房の外で反省として正座させたのだそうだ。
よく見ると真柄の右頬が赤い。
「じゃあ、真柄以外で拝礼するから事務室に来て」
そう岡部が言うと、真柄はそんなあと声をあげた。
自業自得と成松は冷たく突き放したのだが、「それで真柄に悪いものが残るといけない」と能島が言い出した。
「能島さんそれは無いよ」と真柄が抗議。
ところが、「拝礼したって悪いものは取れないと思う」と小平も冷たく言い放った。
しゅんとする真柄を早く来いと岡部は招き寄せた。
拝礼が終わると、真柄の研修の申請と能島の講習の申請を記載。
その後、鵜来島に連絡し、入厩の依頼をかけた。
各人下宿の準備があるという事で、その日はそれで全員解散となった。
翌日、岡部は松井厩舎へと向かった。
事務室奥に『勿忘草色に白の針葉樹』の樹氷会の会旗が貼られている。
「元気そうじゃん。胸の再手術の経過はどうなんだよ」
事務作業の手を止め、二人分の珈琲を淹れながら松井は岡部に聞いた。
「異物が残ってたんだって。それ取り除いて洗浄したって言ってたよ」
「君は知らないと思うんだが、うちらは君が撃たれるところを中継で観てたからなあ。正直、目の前の君が本当に生きてるのか疑うよ」
それを聞くと、岡部は行儀悪く足を投げ出し、ちゃんと足ならついてると言って笑った。
「君もこっちに単身なんだろ? 武田くん誘って快気祝いしようぜ」
「嬉しいんだけど、すぐ大津に帰らなきゃなんだよ。来月またこっちに来るから、その時にお願いするよ」
「相変わらず忙しいやつだな」
珈琲を淹れ終えた松井が、岡部の正面の椅子に腰かける。
優雅に珈琲の香りを嗅ぎながら、元気そうな同期の姿を見て松井は鼻を鳴らした。
一口口にし、岡部は自分が発注しているところの珈琲豆だとすぐに気が付いた。
だが岡部厩舎の珈琲よりもかなり酸味が薄く深みのようなものがある。
満足そうに頷く岡部を見て松井は再度鼻を鳴らした。
「そういえば、竜ってどういう仕切りになったの?」
「俺が見てた竜は全部うちの会派で買い取らせてもらったよ。現行評価額で良いって、うちの会長は言ったらしいんだけどな。初期評価額で売ってくれたんだそうだ」
「それ以外にも何かと物入りになるだろうからね。電脳の件とか」
『電脳』という単語が出ると、松井は少しうんざりしたような顔をした。
「電脳な……先日会長と後藤さんが来て嘆いてたよ。電脳を扱える自信が無いって、うちの調教師どもが競竜部に泣き言言ってきたんだってさ。本社の経理部でもそういう意見が出てるんだと。ったく情けないったらない」
「三浦先生ですら老眼鏡かけて使ってるのにね」
「ほんとだよ。それだけ体質が古いんだよ。むしろ、慣れようとしてくれる紅藍系の各会派が凄いのかもしれん」
「はあ」と松井が特大のため息をつく。
思わず岡部も苦笑いしてしまう。
「待遇の方はどうなの? 樹氷会さんは良くしてくれてる?」
「そりゃあな。会長も竜主会の会合のたびに会いに来るよ。酒瓶持ってな」
「麻紀さんを押さえる気満々だね」
ほんとだよと言って松井は笑った。
昼前に岡部厩舎宛ての竜運船が到着したらしく、松井厩舎に小平が呼びに来た。
そのまま搬入港へ小平と共に向かった。
今回、伊級に昇級した事で管理頭数が二頭から四頭に増えている。
昨年の『オンタン』と『センカイ』以外に、『コンコウ』と『シュツドウ』という二頭の新竜が追加になっている。
『オンタン』と『センカイ』は義悦の竜だったのだが、今度の二頭は最上の竜らしい。
そのうちの一頭『コンコウ』は、三宅島牧場の最初の傑作じゃないかと期待されているのだそうだ。
竜房へ行き四頭の状態を確認し、成沢場長もずいぶんと目が肥えてきたと感じた。
『コンコウ』は尾びれが小さく、いかにも短距離型だが、尾そのものが太くて長い。
「なるべく早く、この仔に栄光を取らせ、三宅島を沸かせてあげたいもんだね」
そう周囲に言って岡部は『コンコウ』を撫でた。
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