第9話 壮行会
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
岡部から騎乗を依頼された松下は、前から気になっていたんだと言って二つ返事で受けてくれた。
だが追い切りで騎乗し終えると、その表情は曇った。
「先生、癖が強すぎるで。あんなん一般の伊級の騎手では制御できひんのと違いますか?」
それを聞き岡部は少し落ち込みかけた。
だが、そこでふと松下が言いたい事の裏を感じ取った。
「……それって、暴竜という事なんでしょうか?」
「暴竜も暴竜やね。全部の能力引き出せたら簡単に重賞取れるん違いますかね。そやけども……」
「難しいですか? 松下さんでも」
岡部の『松下さんでも』という部分に、松下は自尊心をくすぐられたらしい。
嬉しさで顔がにやけそうになるのを必死に我慢した。
「あれ、能力戦二までは勝ってるんやったよね」
「そうですね。武田厩舎で。そこからあまり体形に変化は無いみたいです」
珈琲に口をつけ、松下は唇を噛んで首を傾げた。
「という事はや。武田の御大は、意図してああいう竜にしたいう事やんな」
「もしかしたら、僕と同じ結論に行きついたんじゃないかと」
「なるほど。可能性はあるかもな。ただ、まだ実験段階、道半ばやったやろうと」
ふむうと鼻から吐息を漏らしながら、松下は腕を組んで傾げた首を逆に変える。
おもむろに椅子から立ち上がると、過去の映像を確認してくると言って事務室を出て行った。
週末『セイメン』の能力戦三が発走となった。
『セイメン』は中距離竜なので競技場を二周する。
関係者観戦席で、岡部は松下の出した答えが何なのかじっくりと観察する事にした。
発走した『セイメン』は、松下にゆっくりと追われ、他の竜から少し離れるだけで上手く追走。
滑翔に入ると羽ばたきを交えて、無理やり先頭に立ち、他竜に大きく差をつけた。
一角から滑空に入ると、その差はさらに開いた。
だが飛行に入ると徐々に差を詰められ、それでもなんとか一周目は先頭で通過。
二周目、一周目と同様に差を広げようとした。
だが思うように差は開かず、最後の直線で二頭に抜かれ、三着で終着した。
「もしかしたら、先生の方針は間違ってへんかもしれん。もしかしたら、武田先生も矯正の途上やったんかも。矯正が上手くいったらもう一遍乗せてくれ」
戻ってきた松下は瞳を輝かせて笑顔でそう言った。
この日からは、あまり錘を入れず、羽ばたき方の矯正を軸に調教方針を練り直した。
どうやらまだ体力が戻りきっていなかったところに無理をしてしまったらしい。
二週目に岡部は高熱を出して倒れてしまったのだった。
三日ほど寝込んで熱自体は引いたのだが、そこからも体の怠さが治らなかった。
そこで、皇都の病院で精密検査を受ける事になった。
その結果、胸の銃創の内部に膿が溜まっている事が判明。
そこから二週間ほど、手術のため緊急入院という事になってしまったのだった。
ただ前回と異なり、今回はある程度体に自由の利く状況だった。
そこで携帯電話で電子郵便でやりとりをして、遠隔で厩舎を運営する事にした。
調教後の結果報告や、調教内容の修正も電子郵便でやり取りした。
前回のように際どい状況というわけでは無いから、岡部は非常に暇そうで、病床でごろごろと横になっている。
そこに前回同様、梨奈と奈菜が頻繁に見舞いに訪れている。
来客もそれなりに多い。
皇都の病院という事で、皇都だけでなく大津と福原の調教師も訪れてくれている。
特に松井、杉、栗林がよく来てくれるのだが、それ以外にも坂井や相良、井戸、吉良も見舞いに来てくれた。
二週間後、手術も無事終わり退院の許可が下りた。
その三日後、退院後の初出勤の日はもう四月の末日になっていた。
夕方、『串焼き 弥兵衛』に厩舎の面々が集った。
この日を最後に内田は四か月間の実地研修を終え、久留米競竜場へ赴任する事になる。
また、この日で石野は正式に騎手を引退し、厩務員として内田厩舎に所属する事になった。
それが岡部の口から伝えられた後、乾杯した。
岡部は手術明けであり、飲酒厳禁を医者からも梨奈からもきつく言い渡されており、冷えた緑茶を飲んでいる。
不安と期待と楽しみと、何か色々混ざって複雑な心境だと内田は岡部に話した。
「あん頃の先生って、どげん心境やったとですか?」
そう内田から問われ、岡部は少し遠くを見て考え込んだ。
あの頃。
岡部厩舎の仁級開業当時といえば、及川たちからどう厩舎を守ろうかという時期。
内田はそんな岡部厩舎に最初から応募してくれた人材だった。
もちろん応募した時にはそんな事が待っているなど微塵も思っていなかっただろうが。
だが、当然その事を踏まえての質問であろう。
「今だから言うけど、毎日どうやって厩舎と厩務員を守ろうか、そればかり考えてた」
「どげんして調教していこうとかは、考えんやったと?」
「そんなの、もう土肥の研修で済ませてたからね」
口をあんぐりと開け、隣の席の西郷に、こういう人が最短で伊級に来るような人だぞと言って内田は笑った。
「逆に聞きたいんですけど、内田さんは、なんでうちだったの? 確か阿蘇さんたちと違って、前職は会社員でしたよね?」
すると内田は急に下を見てふふと笑った。
「務めとった会社で、致命的な失敗ばやらかして、責任ば取って辞職したとです」
大学を出てすぐに、内田は大宰府の雑貨系の大型店舗に就職したのだそうだ。
妻とは新入社員時代に同じ職場で知り合った。
結婚してすぐ子供もできた。
少しだけ出世し主任になったのだが、そこで致命的な発注誤りを犯した。
売り出しの商品を大量発注するはずが、その対抗商品を大量発注してしまった。
やむを得ずそれを特売価格で販売したのだが、ろくに売れず、会社に大損害を与えてしまった。
その年、その赤字が響き満足に賞与が出なかった。
その後、社内の雰囲気に耐えられず、逃げるように辞職する事になった。
色々と求人を探していたところ、偶然ここの求人が目に止まり、新規開業という文字に魅かれて応募してみた。
正直な事を言えば、全く経験の無い自分が採用されるとは思ってもみなかったし、採用されてもやっていけないかもしれないと思っていた。
実は久留米というところを見ておらず、妻とかなり揉めたのだとか。
よくあの雰囲気で辞めなかったと荒木は笑った。
実はそれにも理由があるらしい。
久留米時代の岡部厩舎でも内田は大きな失敗をしている。
調教する竜を間違え、出走させたばかりの竜に鞍を乗せ大惨事を引き起こしそうになった。
竜を触るとすぐにその事に気づき、岡部は内田を呼んだ。
呼ばれた理由がわからず困惑している内田に、岡部は微笑んで、脚を触ってみて欲しいと促した。
今度は別の竜を触ってみて欲しいと言われ、温度が違うのがわかるかと聞く。
確かに全然違っている。
それだけ競争で脚に負担がかかっているという事なんだよと岡部は説明。
「こうやってね、よく竜を観察して、異変があったらどんな些細な事でも良いから報告して欲しいんだ。もちろん自分もこうやって竜を観察はする。だけどどうしたって見落としはある。だから内田さんも観察して僕を補佐して欲しいんだよ」
この竜の調教は取りやめと指示し、微笑みながら岡部が事務室に戻った後、竜を間違えていた事に気が付いた。
その時、自分が如何に表面だけしか知識を身に着けていなかったかを知った。
きっと前の職場でも、失敗の原因はそんなところだったのだろうと、その時に気が付いた。
これまで、なんでこの作業をしてるのかという理由まで考えた事が無かった。
その時に、どんな事があってもこの人に付いて行けば間違いはないと確信した。
調教師という話が出てからは、どんな些細な事でも盗んでやろうと岡部をじっくり観察したと内田は笑った。
そんな事もあったよねと、阿蘇と大村は少し涙ぐみ、鼻をすすった。
「この先生は、うちらに対してはほとんど怒るいう事をせず気長に対応してくれるんやけどね。どういうわけか外部に対しては異常に沸点が低うて、恐ろしく喧嘩早いねん」
まるで言い付けるように荒木が内田に言った。
それを聞いた西郷が笑い出し、そう言えば娘さんも前になんか言ってなかったかと服部に話を振った。
母さんより怒ると怖いって言ってたと服部が笑うと、皆で大笑いした。
すると今度は、服部が研修時代の話を始めた。
怒った時は本当におっかなかったと内田に言った。
だけど僕が理不尽な目に合うと、徹底して教官と戦ってくれたんだと胸を張った。
それを岡部は恥ずかしそうに聞いた。
最後に内田と石野から挨拶をしてもらい壮行会は締めた。
会計をする際に財布から一枚の小さな紙が落ちたのに岡部は気が付いた。
それは武田会長からもらった故武田調教師の墓所の地図だった。
「田辺か……」
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