第7話 初戦
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
二日後から、服部の送迎で本格的に朝から出勤する事になった。
厩舎に顔を出し、竜の状態を聞いて、調教指示を出して、調教場の観察台へと向かう。
久々に見た岡部の姿に、どの調教師も、大変だったな、ちゃんと戻ってこれたんだなと声をかけてきた。
伊級の調教は一頭づつ行う関係で非常に待ち時間が長い。
順番待ちを確認しながらの観察となるため、他の調教師と話す時間の方が長いくらいである。
以前から伊級調教師たちが、口を揃えて「伊級で話題になっていた」と言っていたが、これだけ待ち時間が長ければ、それは下級の話題でも花が咲くというものだろう。
伊東たちと歓談していると栗林がやってきた。
岡部を見る早々、栗林は感極まり泣き出しそうになっている。
「天国の門まで行ったのですが、追い返されてしまいした」
そう言って岡部は栗林に笑顔を向けた。
「そらそうやろ。お前にはまだ、やらなあかん事がぎょうさんあるんやから」
泣き笑いのような顔で栗林が言うと、調教師会長とかなと池田ボソッと言って笑った。
露骨に岡部が嫌そうな顔をし、皆が笑い出した。
いよいよ、『エンラ』と『セイメン』の順番になった。
数歩の助走の後、翼を広げて上昇する姿は、確かに体が重いという印象を受ける。
非常にゆっくり羽ばたかそうと服部も新発田も工夫はしているのだが、墜落しそうになり小さな羽ばたきを交えてしまっている。
後から来た竜に追いつかれそうになりながら、一気に上空まで到達すると、そこから滑空を始める。
その姿はまるで弾丸のようだった。
今度は一気に前の竜に追いつきそうになる。
六度それを繰り返して、待機所に戻ってきた。
「……ごっつい、癖の強い竜やな」
顔を引きつらせて、栗林が岡部に言った。
参っちゃいますねと、岡部も顔を引きつらせる。
その後、栗林の調教を見終え、二人で観察台を降りた。
そのまま栗林は岡部厩舎に遊びに来た。
成松に二人分の珈琲を淹れてもらい、岡部は一杯を栗林に差し出す。
「久々に飲むけども、やっぱり旨い珈琲やなあ」
まだ肌寒い中の暖かい珈琲に、栗林はご満悦である。
久々も何も、最後に飲んだのは、たかだか一か月前の叙勲の時なのだが。
「なんや。病院で寝とる間に調教計画に失敗こいたんか?」
「いえ。元々ああいう調教方針だったんです。ちょっと思うところがあって」
「ぱっと見だが重すぎなんと違うか?」
すぐに栗林はそう指摘。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
今の時点では判断が難しいと岡部は考えている。
ただ、皆が言うように伊級が八級や呂級より仁級に性質が近いというのなら、なんとかなるんじゃないだろうか。
あくまでその岡部の中の仮説を竜に試しているところなのである。
「そやけども、あれやと勝つんは難しいんと違うか?」
「思った通り滑空は異常に速いんですよね。ただ、飛行が……」
ふむうと栗林は唸り、珈琲を一口口にした。
「伊級は飛行、滑翔、滑空の順で行うからなあ。確かに飛行は全体の三分の一にすぎないとはいえ……」
あそこまで鈍いのはどうなのか。
矯正途中とはいえ、あれはどうなんだと岡部も思わなくはない。
「錘無しで、どうなるかってとこですね」
土曜日、岡部厩舎の初戦が行われる事になった。
呂級で『海王賞』を制した岡部の竜がどんなものなのか。
大津のみならず、常府でも調教師が食堂の大画面に集まっていた。
伊級の下見所は、止まり木に止まっている竜を観察するだけである。
羽ばたきすらせず、ただじっとしている。
せいぜい、たまに羽を広げたり、糞をしたりするくらい。
それを引き綱を付けて、厩務員が耳の後ろを撫でて気分を落ち着かせている。
観察する側は、事前に発表になっている竜体重から、竜の体形、筋肉の付き方、筋肉の均衡などを見る。
とはいえ、伊級は羽毛に覆われており、筋肉の状態は詳しくはわからない。
なので最も注視されているのは落とす糞。
糞が水っぽければ水分の取りすぎであり、疲労の蓄積と判断する。
背周辺の羽毛が立ち気味なのも不調の前兆と言われている。
そうしたところを総合的に判断し、竜券購入へと踏み切るのである。
係員の合図で騎手が竜に近づき各々の竜に騎乗。
『サケエンラ』に跨ると、『エンラ』はピイイとひと鳴きした。
服部は周囲と『エンラ』を見比べている。
正直、周りと同じ世代戦の竜とは思えない肉の付き方だった。
係員が合図をすると、一枠から順に下見所の端の飛行台へ向かい、羽を羽ばたかせ、発走機の場所へと飛行していく。
多くの竜は、発走機周辺を翼を広げてぐるぐると飛ぶ『滑翔』という動作をして発走を待っている。
発走近くになると発走機の近くに止まり木があり、そこに止まる。
『エンラ』は五枠、八頭中三番人気。
発走機は水面から十間(=約十八メートル)の高さにある。
その横に発走台があり、そこに発走者が立つ。
白い小旗を発走者が振ると、発走機に各竜が歩いてつかまる。
発走機は横一列平行では無い。
内枠から外枠に向けて前に出ている。
さらに、偶数枠が下、奇数枠が上と段差が付いている。
偶数枠はより長い距離を飛ぶため、さらに前に出ている。
結果的に一枠は一番手前、八枠はかなり遠くに発走機が置かれている。
これは、最初の飛び出しでどの竜も羽を大きく広げるため、横一列や上下平行だと羽がぶつかって危険なためである。
実際、伊級は発走直後の落竜事故が非常に多い。
発走機は単なる太い棒状のものなのだが、微弱な電流が流れている。
竜が発走機につかまると、棒の下に付けられた番号の札が白く点灯する。
全頭が発走機につかまったのを確認し、発走者が赤い旗を振る。
発走者の合図で、少し離れたところにある信号が一旦全て点灯。
信号は四つで下から、赤、赤、赤、青。
全部が消灯し下から順に点灯していく。
最後、赤信号が全て消灯し、代わりに青信号が点灯すると発走。各竜が一斉に飛び立っていく。
青信号が点灯した瞬間に発走機の写真が撮られ、発走機下の札が消灯していると『勇み発走』で失格となる。
失格と判定されると即座に着順掲示板の各竜の番号に罰印が点灯する。
一見すると何もない競技場なのだが、所々にトの字の杭が立っている。
この杭の高さを、上昇時に鞍が超え、降下時に鞍が下回らないと失格となる。
各杭には赤外線の判定機が付いていて、その場で失格が着順掲示板に示される。
発走すると、まずは直線中央にある五間(=約九メートル)上の杭を目指す事になる。
各竜は羽ばたきを繰り返す事で一気に中間杭めがけて上昇。
直線中央の最初の杭を過ぎると、そこから『滑翔』という翼を大きく広げた状態で真っ直ぐ滑るような飛び方で一角まで進む。
この時、『雁行』という先頭の竜から順に斜めに竜が並ぶ状態になる。
空気抵抗の問題で、そういう並びが竜に負担が少ないらしい。
たいていは最初の杭までの飛行の早い順に二列の雁行になるが、場合によっては三列になる事もある。
『エンラ』は二列目の最後尾の大外だった。
一角を回ると『滑空』という羽を少しだけ開いた状態で急降下し、一気に十間下の二角まで進む。
この時点で『エンラ』は全竜を一気に抜き先頭に躍り出た。
二角を回ると各竜はバサッと羽を広げ、十間上の中間杭まで飛行して上昇。
向正面の中間杭を過ぎると、また滑翔に入り三角を目指す。
『エンラ』の出走している競争は短距離なので八八十間(=約千六百メートル)、競技場を一周するだけ。
なので、ここからが勝負所となり、三角を回ると滑空して十間下の四角へと向かう。
最後、五間上の終着線を目指して羽ばたく。
『エンラ』は滑空の速度は異常に速かった。
滑翔は特に他竜と変わりは無い。
だが飛行が圧倒的に遅い。
四角までは明らかに他の竜を上回る速度だったが、最後の飛行で全てを台無しにした。
結果は最下位。完敗だった。
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