第37話 初戦
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・坂崎…戸川厩舎の厩務員
・池田…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・木村…戸川厩舎の厩務員、解雇
・大野…戸川厩舎の厩務員、解雇
・垣屋…戸川厩舎の厩務員
・牧…戸川厩舎の厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・花房…戸川厩舎の厩務員
・庄…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川…尼子会の調教師(呂級)
・南条…赤根会の調教師(呂級)
・相良…山桜会の調教師(呂級)
・津野…相良厩舎の調教助手
・井戸…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
結局、監査は丸五日かかった。
戸川は、彼らに故意に竜を害されたから解雇したいと報告しただけだった。
だが労働組合は報告を読み、二人が他会派、もしくは何かしらの組織から金銭を貰って妨害活動をしたのではないかと疑った。
竜主会は労働組合から報告を受けると即日顧問弁護士を派遣。
竜主会と労働組合は連名で警察に捜査を依頼した。
警察は二人を拘束し連日取調べる一方で銀行口座を調査し闇社会との交際も調査した。
結果として労働組合と竜主会が杞憂したような事態の裏付けは取れず、個人的な怨嗟に基づくものと結論付けた。
土曜に帰宅した戸川は、すぐに厩舎へ行き岡部から報告を受けた。
調教報告の中で横に書かれた数字に目が行った。
戸川が興味を引かれたのは、観察した岡部と調教した二人の手ごたえに差異がある事だった。
岡部は調教を見て評価するのが初めてだったからこの差が出たと言ったが、戸川には考えるところがあったらしい。
これから電脳を勉強する必要があるかもなあと笑った。
次に調教以外の五日間に起ったことの報告を受けた。
新聞に厩舎の誹謗中傷が書かれ、恐らくは荒木が記者に話したものだと報告。
「な、言うたやろ? 雑草は見えてる部分だけを切っても無駄やって」
戸川は苛立ちを隠せないという顔をした。
日野が来ていたと言うと、どうせまた酒場のハシゴだろうと笑った。
日曜は戸川だけが出勤した。
岡部は梨奈を連れ出し鈴虫で有名な華厳寺を案内してもらった。
帰宅すると戸川が客間で非常に満足気な顔をしていた。
「岡部先生。だいぶご活躍やったようで」
岡部はそれを聞いて噴出した。
「……何ですかそれは?」
岡部は目を泳がせ精一杯とぼけた。
「相良が言うてたよ? 僕の不在を感じさせへん状態やったって」
戸川は岡部の顔を見てニヤニヤしている。
「その分厩務員の人達には苦労させてしまって……」
「厩務員で思い出した。庄君に会うたで。ほんまに別の方が先生やったんですねやって」
戸川は人の悪い顔をして岡部を見て笑った。
岡部は右手で目を覆い隠し、無言でうなだれた。
「なんや、すっかり良い新竜がおるって知れ渡っとるらしいな」
戸川は湯飲みを口にし、ずずずとお茶を啜った。
「僕も南条先生に伺いました。皆調教で見て新竜の動きじゃないって噂しあってるって」
「どうもそれが監査に引っかかった原因らしいわ」
岡山の労働組合に行って早々に職員から、期待の新竜が軽傷で済んで不幸中の幸いだったと言われた。
「『公正競争違反』の疑いって記事にありましたね」
『公正競争違反』
瑞穂皇国では、殺人罪と同程度の罰則が設定されている大罪である。
八百長、他の厩舎の竜を害す、騎手を害す、調教の阻害といった競争の公正性を損なう行為に対して課される罰である。
「結果を出さなきゃ、今度はうちらの管理が問われちゃいますね」
岡部の指摘に戸川は特大のため息をついた。
「それやねん。それ考えたら、今から胃が痛なるわ」
翌週火曜、午後の追い切りの後、戸川厩舎で秋番組の計画会議が開かれた。
会議室には、戸川の他に、長井、松下、岡部、池田が呼ばれている。
まずは新竜の二頭。
『セキラン』は初週は避け、二週目に出走させる事にした。
松下は初週で度肝を抜かしてやろうと言い、池田も初週から行けると思うと言ったが、これだけ話題になっているから慎重に慎重を期すという事で二週からになった。
『セキフウ』は三週の始動で全員一致。
二頭とも十一月の特二の『新竜賞』を目指す事に。
次は重賞二頭。
七歳の『ホウセイ』は『皇后賞』から『皇都大賞典』を目指す予定であったが、短距離路線へ路線変更する事になり十月の『天狼賞』を目指す事に。
十歳の『ゲンキ』は十二月の『皇都大賞典』を目指すことに。
最後は、能力戦三に挑戦する八歳の『ジクウ』と十一歳の『ゲンジョウ』。
『ゲンジョウ』は二週の始動で、年齢的に年内に突破できなければ引退も考える。
『ジクウ』は九月初週から能力戦に出したいところだが、どこも九月初週は自信のある竜を出してくる為、二週に出す事になった。
「ほな、うちの秋初戦は『ショウケン』の能力戦から言う事ですね」
松下が言うと戸川は、そういう事になるからよろしくと頷いた。
水曜午後、竜柱の公表があった。
電脳で処理された、木曜、金曜の色付きの竜柱が各厩舎に届けられる。
先週から厩舎棟には報道関係者が多数出入りしており、『セキラン』の噂を聞きつけた記者が戸川厩舎にひっきりなしに訪れている。
岡部も何度か取材を受けているが、何故初週から使わないのかと問い詰められ返答に困っていた。
まさか例の件での怪我が原因などと彼らの好奇に燃料を注ぐわけにもいかず、十一月までの間隔を考えての事とお茶を濁した。
それを聞いていた戸川と池田は、僕もこれからそう答えようと笑いあった。
木曜日第四競走、『サケショウケン』の古竜能力戦二の出走の時間が迫った。
後学のためとそそのかされ、岡部が下見所で曳く事になった。
『ショウケン』は比較的人懐っこい戸川厩舎の竜たちの中で一風変わった雰囲気を持っており、ちょっと斜に構えたような孤高な態度をとる。
青毛の毛色も相まって、体は細いながら気位の高さを感じる竜である。
この時も、ぎこちない岡部そっちのけで優雅に下見所を歩いていた。
係員の合図があり、松下騎手が『ショウケン』に騎乗。
「なんや君。緊張しすぎて、君が『ショウケン』に引かれてるみたいやぞ?」
松下はクスクス笑った。
「硬さが移ってたら申し訳ありません」
「次は君も緊張が解けるやろ。この仔は僕が競技場でほぐすから気にせんどき」
競技場に入ると『ショウケン』は、岡部の手を離れ緑の絨毯の上をゆっくり堂々と歩いていった。
『ショウケン』は中距離と長距離の両方で結果を出しているが、残念ながらどちらも一長一短という感じで現在は長距離を使っている。
長距離戦は皇都競竜場を約一周半、千七六十間の距離を走る。
発走位置は正面直線のかなり手前の方で、そこから競技場を一周し終着する。
発走器前の輪乗り場に着く頃には、松下は『ショウケン』をそこそこの速度で追っており調子を戻していた。
発走時刻になると競竜場に発走予告の予鈴が鳴る。
発走台に発走者が現れ旗を振る。
それを合図に各竜が発走機に次々に収められていく。
今回は総勢十一頭で行われ『サケショウケン』は五枠五番、人気は六番人気。
発走すると『ショウケン』は二番手集団に入った。
一頭大きく逃げる竜がいて、二番手集団を三頭で形成し観客席正面を迎えた。
向こう正面で先頭の竜が早くも少しづつ失速、『ショウケン』たちとの距離が縮まっていく。
三角から曲線に入ると後続も徐々に距離を詰め、四角を回る頃には『ショウケン』は先頭集団の一頭になっていた。
直線に入ると逃げた竜以外の竜が一斉に全速で加速した。
『ショウケン』は加速に入る早さで他竜に勝り一気に抜け出した。
だが後ろから迫ってくる竜も脚色の良い竜が多く、最後は数頭が接戦する形で終着した。
一仕事終えた『ショウケン』は、満足げな顔で岡部を見ると甲高い鳴き声をあげた。
「たぶん残った思うわ」
松下は岡部に顔を近づけ、そう言うと笑顔を向けた。
岡部も笑顔を返すと、松下を竜から下し鞍を外し検量へ向かわせた。
検量所に関係者観戦席から戸川が駆けつけて来た。
一着から三着まで写真判定となっており、松下は競争の映像を確認し続けている。
岡部が脚元の状態を確認していると、松下と戸川が駆け寄ってきた。
「岡部君、初勝利おめでとう!」
松下は岡部に握手を求めた。
握手を返し戸川を見ると、満面の笑みをしていた。
「これは幸先良えな! 来週への期待が嫌でも高まるいうもんや!」
戸川はやや興奮して松下に言った。
「岡部君、信じられんほどカッチカチやったから、笑えて競争にならへんかと思いましたわ」
松下の冗談に岡部は両手で顔を覆った。
「僕もアレはどうかと思うたわ。『セキラン』は別の人に引かせなあかんかもな」
うなだれる岡部を見ながら戸川は大笑いした。
この先どれだけの竜を競技場に送り出していくのかはわからない。
だが、この満面の笑顔が初勝利の光景として記憶に残っていくのだろう。
そう岡部は喜びを嚙みしめた。
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