第3話 目覚め
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
岡部が目覚めてから、かなり長い間、梨奈は岡部の顔を抱きかかえて泣き続けている。
恐ろしくて口には出せないが、梨奈の体はガリガリで脂肪が少ないため、ごつごつしていて心地が良くない。
ただその嗅ぎ慣れた香りは、どこか気分を落ち着かせてくれる。
少し遠くから、どうしたのと酷く心配する直美の声がする。
梨奈がぐしゃぐしゃの顔で振り返り、綱一郎さんがと何度も言って、また泣き出した。
悲痛な表情で直美が岡部に駆け寄ってきた。
岡部の目が開いているのを見ると安堵して、慈愛に満ちた表情で良かったと言って岡部の頭を撫でた。
看護師さんは呼んだのかとたずねるに直美、梨奈は泣きながら首をぶんぶん横に振る。
看護師を呼んだ後で、直美は梨奈を抱きしめて、良かったわねと言って背中をぽんぽん叩いた。
うんと頷いて、梨奈は今度は直美の腕の中で泣き出した。
隣の病床を借りて寝ていた幸綱まで泣き出してしまった。
しばらくしてやって来た看護師は、岡部の状態を確認するとすぐに担当医を呼びに行った。
そこからしばらくして担当医がやってきた。
担当医が岡部に状態はどうですかとたずねる。
ところが声が出ない。
岡部が口をぱくぱくさせると、担当医は水差しを持ち、口を湿らせるだけにしてくださいと言って口に流し込んだ。
からからの口内に水が沁み込んでいく。
もう少しだけ口に水を流してくれたので、少しだけ飲み込んだ。
喉に水が沁み込んでいくのを感じたが、それと同時に咳が出る。
どうですかと担当医はもう一度たずねた。
かすかすだが少し声が出る。
そのかすれた声で、体に力が入らないと岡部は申告した。
かなり長時間寝ていたので体が萎えているだけだと思うと担当医は言った。
首や背骨には損傷がみられなかったので問題無いはずだと。
ただ傷口が開くと危険なので、なるべく体を動かそうとしないようにと言い残して、担当医は病室を出ていった。
直美の話によると、あの日から二週間が経過したらしい。
岡部には二発銃弾が命中している。
一発目は左鎖骨の肩側に命中。
致命的だったのは貫通した二発目で、心臓近くの大動脈を損傷した。
そのため血が噴き出した。
幸いにも病院は御所のすぐ近くにあり、すぐに運び込まれて緊急手術が施された。
肺も損傷していて、手術は困難を極めた。
手術中に何度か心停止したらしい。
それからも脈が弱く、何度も危険な状況になった。
実際、何度も心停止した。
蘇生術の途中で傷口が開き、大量出血という事もあった。
だが四日ほど前から、突然体調が安定し始めたらしい。
そこまで言うと直美は、最上さんに連絡しないとと言って病室を出て行った。
泣いている幸綱を抱えてあやしながら、梨奈が潤んだ瞳で岡部の顔をじっと見つめている。
「白詰草をね、梨奈ちゃんに渡そうとしたんだよ」
「ん? 何の事なん?」
「義父さんにね、梨奈ちゃんの様子を見てきてって頼まれて……」
岡部の呟きの意味が全くわからず、梨奈は首を傾げている。
「途中、何度か奈菜の声を聞いた気がする」
「奈菜、綱一郎さんの顔見るたびに、父さんって大泣きしはったんよ」
そこで急に怠さが襲ってきて意識が遠のいた。
そこからどれだけ眠ったのか、次目が覚めた時には病室には誰もいなかった。
前回に比べると少しだけ体が動く気がする。
「きょうは、とうさん、おきてくれはるかな?」
元気の良い奈菜の声が聞こえる。
「寝てはったら起こしてあげてね」と梨奈が嬉しそうに言うと、奈菜が元気よく「うん」と返事をした。
顔を病室入口に動かして、奈菜が入って来るのを見守る。
一瞬、悪戯で寝たふりをしようとも思ったが、今は奈菜の悲しむ顔より、喜ぶ顔が見たい気分だった。
「あ……とうさん、おきてはる……ねえ、かあさん! とうさん、おきてはるよ!」
小さな指を岡部に向けて、奈菜が梨奈の手を引っ張る。
梨奈が水差しを岡部の口に付け、口内に水を染み込ませてくれた。
ゆっくりと右手を布団から出すと、奈菜は寝台の反対側に駆けてきて岡部の指を握りしめた。
「奈菜、おはよう」
その言葉が、奈菜の中の何かを崩してしまったようで、父さんと言って泣き出してしまった。
「なな、なんかいも、なんかいも、おきてっていうたのに。とうさん、ぜんぜんおきてくれへんかった」
震える声で、鼻をすすりながら、叫ぶように奈菜は言った。
奈菜の後ろに立っている梨奈も瞳を潤ませていて、起きて良かったねと言って頭を撫でている。
奈菜がうんと可愛く頷く。
「起きれなくてごめんな。でも、奈菜の声はちゃんと聞こえたよ」
その一言で奈菜は完全に感極まってしまい、わんわんと泣き崩れてしまった。
「体の状態はどうなん?」
号泣している奈菜の頭を撫でながら、梨奈が岡部にたずねる。
前回に比べれば体は動くのだが左肩が痺れている。
鎖骨が折れてしまっているからと泣きそうな顔で梨奈は言った。
それと呼吸が苦しいと岡部は報告。
肺を損傷してるそうだからと梨奈は即答であった。
そこまで言うと梨奈もぽろりと涙を零した。
体が動けば梨奈と奈菜を抱き寄せられるのに、実にもどかしい。
実は前回から丸二日が経っているらしい。
昨日、最上夫妻が来たのだが、結局、目を覚まさなかったのだとか。
手を離すと岡部がどこかに行くとでも思っているのか、奈菜は両手で強く岡部の指を握りしめている。
時折、暖かいものが手に垂れてくる。
帰ったら何したいやら、幸君も連れてくるねやら、梨奈は色々ととりとめもなく言ってきた。
それに岡部は丁寧に一つ一つ答えていく。
お好み焼きが食べたいやら、旅行にも行かないといけないやら。
早く晩酌がしたいと言うと、さすがに怒られた。
じゃあまた明日来ると言って梨奈は帰ろうとしたのだが、奈菜がぐずって、ここにいると駄々をこねた。
我がままを言わないのと梨奈が叱るのだが、奈菜は頑として聞かない。
「奈菜。父さん、どこにも行かないから。お家に帰って、ゆうげ食べて、また明日おいで」
「ほんまに、どこにもいかへん?」
瞳を潤ませて少し首を傾げて聞くその仕草が実に愛らしい。
「奈菜がわがまま言うと、帰るのが遅くなっちゃうかもよ?」
「そんなん、いやや……」
「じゃあ母さんの言う事聞いて、良い子にしてないとね」
うんと頷くと奈菜は涙を拭い、渋々、病室を出て行った。
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