第2話 坂道
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・能島貞吉…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…紅花会の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
どれだけ歩いただろう。
ずいぶんと長い時間、多くの人と行列をなして砂利道を登ったように思う。
やっと頂上付近まで武田信文と共にやってきた。
頂上には神社があり赤い提灯で彩られている。
神社の巫女に案内され、一人一人、手前の小鳥居をくぐって行く。
鳥居の先の社に巫女の案内で一人づつ入って行くのが見える。
登って来た人たちが社の前で列に並んで自分の番を待っている。
武田も隣で自分の番を待っている。
先ほどの青年はもう社に入って行ったのだろうか。
そう思いながら岡部も武田と談笑しながら自分の順番を待ち続けた。
すると、ふいに袖を引かれた。
「何してんねん。お前はこっちや。そこの社ちゃう。こっちの道から帰るんや」
「あ、木村さんじゃないですか。こんなところで何を?」
「お前を迎えに来たに決まっとるやないか。さあ早う、みんなのとこ帰るで」
そういう事らしいのでと武田に断りを入れ、木村の後に付いて列を外れた。
木村の案内する道は少し明るくて先ほどより少し歩きやすい。
ふとまた女の子が自分を呼んだような気がした。
また後ろを確認する。
だがやはり誰もいない。
「なんや、どないしたんや。はよ行くで」
気のせいか。
そう思って木村の後を付いて行った。
「そこの水たまりを超えたらすぐや」
そう言って木村が岡部の腕を引いた。
ところが逆の手を誰かが引っ張った。
「おい、どこ行くねん。そないな奴に付いてったらあかんやないか。君が行くんはそっちと違うで」
振り返るとそこには実に懐かしい人物が立っていた。
木村はその人物――戸川を見ると「ちっ」と舌打ちし、水たまりの向こうの暗闇に消えて行った。
「義父さん。お元気そうでなによりです」
「君、こないなとこで何してんねん」
「さあ。色々な人に誘われるままに、ここに来てしまいました」
しょうのないやつだと戸川は笑い、先ほどの社まで戻ってきた。
道の端にあった大きな石に戸川が腰かける。
戸川に促され、岡部も隣の少し低い石に腰かける。
「梨奈はどうなんや。相変わらず熱出まくっとんのか?」
「さあ。どうなんでしょうね」
意地悪でも何でもない。
どういうわけか純粋に思い出せない。
「奈菜ちゃんは元気にしとるんか?」
「元気にやってる……んだと思いますよ。きっと」
「なんや、あいまいやなあ。それを聞くんが楽しみやったのに」
岡部の背をパンと叩き、戸川は「わはは」と笑い出した。
「僕もあそこに並ばなくて良いんでしょうか?」
先ほど武田が並んでいた列を岡部は指差した。
「あそこは君が並んで良えとこと違うよ」
「えっ? そうなんですか?」
「そうやで。そんな事よりもや、せっかく会えたんやないか、もっとゆっくり話そうや」
戸川の顔を見ていると、岡部はそれまで漠然と抱いていた不安感のようなものが薄れ、なんだか穏やかな気分になっていった。
「義父さんは、今何してるんですか?」
「のんびりや。のんびり。毎日、のんびり過ごしとる。そやけど、たまに飽きんねんな」
「飽きたらどうするんですか?」
それまで正面を向き、どこか遠くを見ていた戸川が、ちらりと岡部を見る。
「最近、国司君と知り合うてな、君の話を肴に、よう酒呑んで騒いでるよ。後たまに竜に乗って、ふらっと君らの様子を見に行く事もあるんやで」
「え、そうなんですか! じゃあ僕の事も見に来てたりしてたんですか?」
「たまにな。怖い夢見て怯えながら寝てる奈菜ちゃんの頭撫でてやったりな。それと、あの子なんて言うたかな。そうや幸君や。あの子の軟らかい頬っぺを、ぷにぷにしてくるんや」
人差し指と親指で頬をつまむ仕草をして、戸川は嬉しそうに笑い出した。
「へえ。幸綱、喜んだんじゃないですか。爺ちゃんに会えて」
「そらもう大喜びやで。こっちに両手向けて、きゃっきゃとな。そやけど一つ気がかりな事があってな」
それまでにこやかだった戸川の笑顔が急に曇り出す。
「なんですか? 隠してあった富士の蒸留酒なら、もう吞んじゃいましたけど」
「そないしょぼい事と違うわ! 梨奈ちゃんの事やがな。あの娘が、また熱出してはるんやないかって気になんねん」
「ああ、なるほど。梨奈ちゃん、体弱いですもんね」
どういうわけだろう。
先ほどまでぼんやりとしていた梨奈の記憶が、戸川と喋っていたら徐々に思い出せてきた。
「なあ、君、僕の代わりに梨奈ちゃんの様子見てきてくれへんやろか」
「かまいませんよ。でも、どうやって見に行けば良いんでしょう?」
それまで大きな石に腰かけていた戸川が、すくっと立ち上がり、腰をぽんぽんと叩く。
岡部も一緒に立ち上がった。
「どうやってて……ほな、君、いったい、ここまでどうやって来はったん?」
「それが、なんとなくここまで来てしまって。社の外の砂利道を登ってきたとこからしかわからないんですよ」
何を言ってるんだという顔で戸川は目を細めて岡部を見る。
「砂利の坂登って来はったんやろ? そしたら、そこを降りてくだけやんか」
「いや、そこまではわかるんです。その先がわからないんですよ」
「何を言うてはんのやろ? その先なんてないよ。大きい鳥居があったやろ。あそこで終いやで」
今度は岡部が何を言っているんだろうと首を傾げる。
「まあとにかくや、そこまで行ってみたら良えよ。僕の言うてる事わかると思うから」
そんな事を言いながら二人は、神社に近い鳥居まで戻って来た。
「ほな頼むな。寄り道せんと、真っ直ぐ坂の下の大鳥居まで降りるんやで」
神社前の鳥居で戸川はにこやかな顔で岡部に手を振った。
岡部も笑顔で戸川に手を振り返す。
踵を返し、登ってきた砂利道をゆっくりと降りて行く。
人の流れに逆らってゆっくりと砂利道をひたすら降りていく。
どれだけ歩いただろう。
点々と点灯していた提灯は徐々に間隔が空き、周囲がだんだんと暗くなっていく。
ぼんやりとした提灯の灯だけが、ぼうっと赤く暗闇を照らしている。
やっと最初の大鳥居までやってきた。
だがその先には明かりが無く、頼りない朧月の明かりで薄っすらと道が見える程度。
でも確か戸川はここから先に行けと言っていた。
意を決して真っ暗な道に歩を進める。
道がある。
月が完全に雲に隠れてしまい真っ暗でほとんど見えないが、確かに道は存在している。
ここはもしかして来た時の田んぼのあぜ道だろうか?
暗闇の中、白詰草のような花が咲いているのが見えた。
小さな花弁がほんのりと光って見える。
梨奈ちゃんに会うのに、この花を摘んでいってあげよう。
そう岡部は感じた。
真っ暗の中でふいにしゃがんだせいか、岡部は方向感覚を失ってしまった。
気が付くと明かりが見える。
眩しさにすぐに目を閉じる。
どうやらどこかで横になっているらしい。
だが体が全く動かない。
白詰草を摘んで梨奈に渡さないと。
そう思い岡部はもう一度ゆっくりと目を開けた。
「……綱一郎さん?」
涙を瞳一杯に湛えた梨奈が岡部の顔を覗き込む。
何か言おうと試みるのだが声が出ない。
梨奈の顔に触れようとするも体も動かない。
ただ瞼だけが開閉できる。
瞬きをしてから、岡部はじっと梨奈の顔を見つめた。
「こ、綱一郎さん!」
ぼろぼろと涙を零し、梨奈が岡部の顔に抱き着き号泣した。
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