第57話 調教
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(伊級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(呂級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(伊級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・真柄、富田、山崎…岡部厩舎の用心棒兼厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…岡部厩舎の厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は北国牧場の小平生産顧問
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
伊級の竜は夜目が全く効かない。
日の出まではぐっすり寝ていて、日の出になると一斉に目を覚まし一鳴きする。
全竜が一斉に鳴くので、防音対策はしてはいるものの、その音は琵琶湖の対岸まで鳴り響くらしい。
厩務員からしたら目覚ましいらずではあるのだが、朝飼を催促されている気分になるのだそうだ。
朝、竜の嘶きで目を覚ますというのは、近江郡民と常磐郡民の共感話として非常に有名なのだとか。
そのような性質のため、岡部たち日勤組は日の出に合わせて出勤する。
夏場はかなり早めの出勤だが、冬場はかなり遅くなる。
伊級に昇級して最初の調教の日を迎えた。
初回の調教は『セイメン』と『エンラ』。
調教の際、竜は鞍に錘を差し込まれる。
そのために鞍にはそれ用の隙間が空いている。
かなりの重さまで入れられるように、隙間はかなりの広さを取っている。
それとは別に騎手も錘を巻く事がある。
『セイメン』も『エンラ』も、初回にしてはかなり重めの錘を入れられた。
『セイメン』は慣れたもので特に気にせず鞍を付けされたが、『エンラ』は錘を入れた時点で暴れた。
そこで大村に一旦鞍を外させ、緩衝布と鞍の間に布を挟ませ、もう一度鞍を付けてもらったら落ち着いた。
調教場までは引き綱を曳きながら歩いて向かう。
こうする事で鞍の重さに慣れさせるのである。
ただ、伊級の竜は歩くのはあまり得意では無い。
そのため、勝手に羽ばたこうとしたり、弾むように両脚を揃えて小刻みに飛んだりする。
曳いている状態で飛ばれてしまうと厩務員が宙づりになり極めて危険なため、厩務員は常に『竜笛』という超音波を発する笛を首から下げている。
どんな状況でも、この笛を吹くと竜は大人しくなり、ゆっくり地面に着地したり、その場で羽ばたいたりする。
騎手や調教助手も競争や調教の際の必需品である。
調教場は衝突防止のために一頭づつ飛び立つ事になっている。
こうする事で調教場内の竜の総数を管理している。
つまり、呂級まででいう『単走』という調教しかできない。
伊級の調教場は呂級までと異なり、長い路線が二組用意されているだけである。
大津では『桜路線』と『橘路線』と呼ばれている。
待機所に信号機が置かれ、赤三つ、青一個が点灯するようになっている。
桜路線の赤が下から順に点灯していき、最後に一番上の青が点灯すると竜が飛び立っていく。
しばらくすると今度は橘路線の信号が点灯する。
これを繰り返し、次々に竜が調教場へと飛び立っていく。
『セイメン』も『エンラ』も、今回は直線での上下は少なく、滑翔を多めで流してもらった。
『セイメン』に乗った服部は、指示通り流そうとしたのだが、途中から前との差が詰まり気味になってしまった。
やむをえず、滑空と飛行を多くし、なるべく羽ばたきを多めに、前との距離を保って調教を終えた。
逆に『エンラ』は少し遅れ気味で、新発田は、かなり長めの滑翔を活用して調教を終えた。
初回の調教を見て、午後から緊急会議が開催される事になった。
参加者は、服部、新発田、石野、北里、荒木、能島、坂井、成松、垣屋。
伊級の事務室は横に長く、会議室もかなり広く作られていて、これだけの人数が収まりきってしまう。
初回の調教が終わって最初の感想を聞いていった。
按摩があまり効果が無さそうだと成松は報告。
揉んでも筋肉の張りが減らないように感じると。
「按摩を嫌がるの?」
「いえ、気持ちよさそうな鳴き声はあぐるたい。ばってん、筋肉がほぐれん感じです」
按摩より、体を伸ばさせて整理運動をさせた方が効果があるのかもしれないと垣屋が言った。
羽を伸ばさせて、それを支えて少し軋ませるというのはどうだろうかと。
「じゃあ、先に整理運動をしてから按摩をしてみよう。それでどうなるか報告お願いします」
岡部の指示に成松と垣屋は、わかりましたと返事をした。
次に服部が滑空が速くて制御が大変だったと報告。
逆に体が重い分、上下運動は厳しそうだと。
一方の新発田は、とにかく錘が重そうで全ての動作がぎこちなかったと述べた。
「『エンラ』も、そのうち慣れるだろうから、それまで今の重さでやっていこう」
「滑翔多めになりますけど構いませんか?」
「なるべく羽ばたきを大きくして、付いていけるようになりたいね」
他の竜よりも力強い羽ばたきにすれば、他の竜と十分渡り合っていけるのではないかという仮説を立てていると岡部は説明した。
「翼の使い方の矯正は時間がかかる思いますんで、徐々に徐々になると思います」
「未勝利戦の日程が残り少ないから、あまりのんびりもしてられないかな」
「わかりました。それを念頭に置いてやっていきます」
すると、ここまで聞いていた成松が、できれば今後の大方針を教えて欲しいと要望した。
「研修で習ったと思うんだけど、伊級の竜は呂級までと違って白色筋肉が圧倒的に多いんですよ」
「何が違うんですか? 赤色筋肉と」
相槌を打つように坂井がたずねる。
「魚がわかりやすいんだけど、赤身の魚は回遊魚なんだよね」
「マグロとか、カツオとかいう事ですか」
「そう。白身ってヒラメとかタイとかなんですよ。定着魚ってやつですね」
誰しも魚を刺身で食べた事があるわけで、赤身と白身の魚がいるという事は皆知っている。
ただ、それが何の関係があるのかがわからない。
「正直、何の違いがあるか、わからへんのですけど」
「一般に赤色筋肉は持久力に優れ、白色筋肉は瞬発力に優れてるんだそうですよ」
まだいまいち話が見えてこず、新発田が愛想笑いを浮かべる。
「そしたら、人間は基本的には持久力に長けてると」
「どの生き物でも両方持ってるよ。生き物によって割合が違うだけで。人間は比較的赤色筋が多いってだけ」
学校で習ったはずなんだけどと岡部が指摘すると、新発田以外にも幾人かが視線を泳がせた。
「た、確か、八級や止級は、赤色が多いって習った気がするんですけど」
「そうだね。止級がわかりやすいんだけど、赤色筋は、筋肉を長時間動かし続ける事に長けてるんだよね」
「とすると、白色筋は短い時間に全力を出す事に長けてると」
そこまで言うと新発田は何かに気付いたようで、はっとした顔をした。
「面白い話だよね。僕は今までずっと、赤色筋の多い竜に瞬発力をつけさせてたんだよね」
「ほな、今度は……」
「持久力を付けさせようと思う」
一同がざわつき、近場の人と顔を見合わせている。
そんな一同を岡部は微笑ましいという表情で見ている。
「ただ、そんな事が実際にできるのかどうかは、やってみないとわからないんだ。でも、その先を目指すなら、これしかないと思うんだよ」
「ある程度の目算があるいう事ですね」
「いや、全くの未知数だね。これから試行錯誤してくんだよ」
だから、みんなの意見や感触が頼りになるから、今まで以上に情報をください。
そう言って岡部は会議を閉めた。
会議の後、能島に会議室に残ってもらった。
「どうです? 厩務員として過ごしてみて」
「まだ、実感がわかないですかね。ただただ体がこわいだけで」
背中に貼ってある湿布を見せて能島は笑いだした。
体が鈍っててすぐに腰に来ると渋い顔をする。
「能島さん。僕は能島さんに、これから役職を与えていこうと思うんです」
「は? まだ仕事にも慣れてないのに?」
「ええ。能島さんには主任をしてもらいます。荒木さんの副ですね」
その一言でそれまでどこか朗らかな表情だった能島の顔が強張った。
「いったい何の冗談だよ。俺に主任がやれるわけないでしょ。あの厩舎の惨状、見たでしょうよ」
「だからやってもらうんですよ。能島さんは一度失敗している。だから、どうしたら失敗するかわかるはずなんです」
どうですかと聞く岡部に、能島は眉をハの字にして吐息を漏らした。
「わかってたら、厩舎を立て直せてるとは思いませんかね?」
「だ・か・ら。時間をかけて考えてくれって言ってるんですよ。それと」
まだ何かあるのかと能島は岡部の顔を見て、不安に満ちた表情をした。
「不和の雰囲気というのがあるはずなんです。きっと能島さんなら、それに気づけるはずなんです」
「俺を買いかぶりすぎてるんじゃないですかい?」
「僕、人を見る目があるんじゃないかなって、最近思うんですよね」
したり顔をする岡部を見て、能島は、ふっと笑ってうつむいた。
「俺自身が不和の素にならないように、せいぜい気を付けますよ」
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