第36話 追切り
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・坂崎…戸川厩舎の厩務員
・池田…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・木村…戸川厩舎の厩務員、解雇
・大野…戸川厩舎の厩務員、解雇
・垣屋…戸川厩舎の厩務員
・牧…戸川厩舎の厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・花房…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川…尼子会の調教師(呂級)
・南条…赤根会の調教師(呂級)
・相良…山桜会の調教師(呂級)
・津野…相良厩舎の調教助手
・井戸…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
労働組合は、戸川厩舎から提出された報告書を見て、大野と木村の一件を訴訟案件と判断し監査する事になった。
大野と木村は組合に拘束され、警察と竜主会も介入して、公正競争違反を徹底的に調べられる事になった。
問題の釘は、触った池田と垣屋の指紋と共に証拠品として組合に送られている。
戸川も原告として呼ばれる事になり、西国の事務所のある岡山に短期出張する事になった。
本城は証言書類を作成すると、茶封筒に入れ戸川に渡し、厩務員の証言者の欄に名前を記載してもらって持っていくように指示した。
問題は労働組合から指示された日付が月曜日の追い切りの日という事である。
監査は何日かかるのか見当がつかない。
戸川はその間の厩舎運営を岡部に一任する事にしたのだった。
岡部が各竜の追い切りを観察台で双眼鏡で覗いていると、吉川の声が聞こえた。
「おお、ずいぶん板についとるやないか。岡部先生」
吉川はそう言って悪戯っ子のような顔をして手を振っている。
そのせいで周囲の調教師が岡部に視線を集めた。
「ちょっと、吉川先生。お手柔らかにお願いしますよ」
岡部はかなり顔を引きつらせている。
「しかし君はあれやな、存外器用やな。騎乗以外は何でもそつなくこなして」
吉川は真顔でそう言って褒めた。
だが岡部はさらに顔を引きつらせた。
「……その騎乗が一番自信あるんですけど」
「あれやな、『好きこそ、ものの上手なれ』いうやつやな」
ゲラゲラと吉川が笑って双眼鏡を覗いた。
「先生、今日は結構ゆっくりですね」
「また松田がな……今日は君んとこに頼みにいけへんから、手こずってこのザマや」
戸川厩舎十頭の竜の内、番組が再開する来月に出走予定なのは条件戦の六頭と新竜戦の二頭。
その内、世代戦の『ハナサキ』は、あまり長距離向きでは無く、秋は中距離の条件戦に挑戦予定となっている。
七歳の『ホウシン』と九歳の『ショウリ』は経過観察次第。
この日は、五歳の『セキラン』『セキフウ』、七歳の『ホウセイ』、八歳の『ジクウ』、十一歳の『ゲンジョウ』を追った。
戸川厩舎では長井が一杯に追えるのは一頭が限界なので、残りは松下が追う事になる。
そこで午前に三頭、午後に二頭という追い切りになった。
「岡部先生、午前の追いは無事終わりましたよ!」
松下は調教から戻ると、そう言って岡部を茶化した。
「ちょっとやめてくださいよ。さっきも、吉川先生に茶化されたんですよ」
岡部が困り顔をしていると長井が遅れて事務室に戻って来た。
「先生、『セキラン』、やっぱり新竜戦は様子見ですか?」
「長井さんまで! もう!」
松下と長井はゲラゲラ笑いあっている。
「冗談はさておき、『セキラン』、追ってみてどうですか?」
「まだ少し怪我気にしてるようやけど、強く追ってへんのにやたら行きたがって、抑えるのに苦労するわ。あの仔は、ほんま走るんが好きなんやね」
松下は冷静に報告した。
「念の為、来週の追いを見てですかね……」
「慎重やね。まあ、それだけ期待してるいう事やろうけど」
八月も後半に入ると各厩舎は徐々に調教が本格的になり、九月から一斉に本格化する。
呂級の制度として、新竜は新竜戦の後、十一月の重賞に向けて調整に入る。
世代戦では新竜重賞の決勝まで残った竜以外は、能力戦を勝たなければ重賞に挑戦できない。
ただし、秋の世代戦は『重陽賞』の一戦のみで、長距離戦なので、古竜線に移行してしまう竜も多い。
古竜戦は、新竜戦と世代戦で重賞の最終戦まで残った竜以外は、能力戦二と三を勝たないと重賞挑戦ができない。
戸川厩舎では『ホウセイ』『ゲンキ』が重賞級、『ジクウ』『ゲンジョウ』が能力戦三級、『ショウケン』が能力戦二級、『ハナサキ』『ホウシン』『ショウリ』が能力戦一級となっている。
新竜の二頭は新竜戦、『ホウセイ』が短距離の重賞『天狼賞』、『ゲンキ』が長距離の重賞『皇都大賞典』に挑戦予定となっている。
能力戦は月に一度しか挑戦できず、勝たないと上の能力戦に行けない為、新竜と世代戦である程度の結果が出ないと、その先が非常に厳しくなる。
また世代戦の年のうちに初勝利を挙げられないと、その竜は強制で引退となってしまう。
「先生、新人の厩務員さんが来ましたよ!」
そう言って事務室に池田が入ってきた。
顔は完全に悪戯っ子のそれである。
「い、池田さんまで……」
松下と長井は腹を抱えて笑い合っている。
「庄言います。先週まで福原で厩務員しとりました」
庄はかなり緊張している感じで、丁寧に岡部に頭を下げた。
庄は年齢は牧くらい。
背は高く、腕が異常に太く手も大きい。
「話は聞いてます。岡部と言います。戸川厩舎へようこそ。戸川先生が別用で外出しているので、今は僕が代理をしています」
「先生、僕は呂級はようわからへんのですが、大丈夫でしょうか?」
後ろで池田、松下、長井が、その一言に笑って崩れ落ちた。
岡部は三人の笑い声に顔を引きつらせた。
「今僕が言った事ちゃんと聞いてました? 僕先生じゃないですよ。あなたと一緒の厩務員です」
「え? そうなんですか? いや、だって、皆さん先生って……」
庄は笑い転げている池田たちを見て困惑している。
「うちの厩舎、冗談が好きでね。困っちゃいますよ」
岡部は顔を引きつらせながら、冷静を装ってそう指摘した。
「……僕、担がれてるとか?」
「担いでいるのは後ろの人たち!」
岡部は三人に、めっと子供を叱るように軽く叱った。
「研修があるので大丈夫だと思いますよ。申し込んであると思いますけど、一応念の為、後で確認しておきますね」
岡部がそう説明すると庄は礼を述べた。
「後ろで笑い転げてる左の人が当面の指導担当ですので、わからない事はあの方に聞いてください」
岡部は腹を抱えて笑っている池田を指差した。
庄が池田を見て不安そうな顔をする。
「池田さん!」
「はい、先生! きっちり指導するであります!」
池田は敬礼すると笑い崩れた。
腹を抱えたまま池田は、庄を竜房に案内する為に事務室を出て行った。
長井と松下は岡部に背を向け、当分このネタで遊べるなと悪い顔をしてほくそ笑んだ。
二人が監査入りした戸川厩舎では、岡部が雑務で忙しく中々厩務にまで手が回らず、残った七人はかなり負担を強いられている。
「戸川先生の業務代行に手こずって、こっちまで上手く手が回らなくてすみません」
岡部はそう言って謝りながら厩務員の反応を伺った。
池田は事務室内の状況を知っているので何を言ってるんだという反応。
坂崎、花房の二人は、皆で協力して乗り切るしかないという腹をくくったような反応。
垣屋、牧は、僕らには先生の代わりはできないから、こっちの事は任せてという反応。
櫛橋は、無理して体を壊さないようにねという反応だった。
翌日、六歳の『ハナサキ』と七歳の『ホウシン』が調整、九歳の『ショウケン』『ショウリ』、十歳の『ゲンキ』を追ってもらった。
観察台で南条が岡部を見つけ寄ってきた。
「戸川厩舎、なんや荒れとるみたいやな」
南条が双眼鏡を覗きながら岡部に言った。
「これを機に好転してくれると良いんですがね……」
「おや? 君の耳には入ってへんのか? まあ、本人にはよう言わんわな」
岡部は双眼鏡から目を外し、南条を見た。
「君が来てから君とこの厩舎、活気が出たって噂になっとるぞ」
そう言うと南条は、双眼鏡から目を外して岡部の反応を確認する。
「活気だけじゃなく、結果も出ると良いんですけどね……」
「なかなか言うやないか。なんや良い新竜がおるって噂も聞いたぞ?」
南条はそう言って岡部から『セキラン』の情報を得ようとした。
だが岡部はニヤリと笑うだけで、それ以上は何も語らなかった。
「南条先生のとこはどうなんです?」
「……哀しいくらい、ぼちぼちや」
調教後の松下の感触では、『ホウセイ』は、もう少し時間がかかりそうという事だった。
『ショウケン』は、もう一追いで仕上がりそうだから次の能力戦が楽しみと笑顔を見せた。
長井の感触では、『ホウシン』の怪我は、かなり良くなっているがまだ経過を見た方が良い、『ショウリ』は、この夏でかなり体質が改善したようだという事だった。
岡部は二日分の調教の整理を始めた。
総合的に判断して週末の競走に出れそうなのは、『ジクウ』『ショウケン』『ゲンジョウ』の三頭。
当然、他の厩舎も秋初週から積極的に使ってくるだろうから、そこは戸川の判断になるだろうが、仕上がったという『ショウケン』は無理してでも使うべきだろう。
岡部は各竜の仕上がり具合を一から十の数字で記載し、『ショウケン』に八、『ジクウ』と『ゲンジョウ』に七を付けた。
十頭分の評価を付けると後ろに長井と松下が立っていた。
この数字は何と、長井が指を差した。
観察台で見た感じの調教評価だと言うと、松下が、自分の思ってるのとちょっと違うと言いだした。
なら横に数字を追記してくれと頼むと、『ショウケン』に九、『ジクウ』に八と少しづつ違う数字を記載し始めた。
ある程度事務作業が片付くと、聞き慣れた声の人物が事務室に顔を出した。
「やあ、岡部くん、ご活躍だそうだね」
「日野さん! お久しぶりです」
スーツ姿の日野は、まだまだ暑いねと言いながら接客長椅子に腰かけた。
「戸川くん、中々大変なことになってるみたいだね」
冷蔵庫の冷えたお茶を紙コップに注ぐと、岡部も接客長椅子に腰かけた。
「日野さんは、今日は庄さんの研修ですか?」
「そうだよ。別に決まってるわけじゃないんだけどね、なんとなく俺がこの辺の担当みたいになっててね」
日野は岡部が淹れたお茶をずずっと啜った。
「また、美味しいお酒呑んで行ってくださいよ」
「もちろん、そのつもりさ。庄さんは八級の方だから三日だけだけどね」
長井と松下は、僕も連れてってくれと嬉しそうな顔をした。
日野はふっとそれまでの笑顔を消し、少し険しい表情をすると、置いていた鞄を持ち上げた。
「しかし、監査案件とはね。報道への緘口はちゃんと敷いてるの?」
「厩務員は全員敷いてます」
「じゃあこれは、奴らお得意の捏造か……」
日野は鞄から新聞を差出し、記事を指差した。
そこには厩舎関係者の証言として、毎日何かしら事故がおこるやら、人間関係がギスギスしているやら、調教師が厩務員を無理使いしているやらと、誹謗中傷が書き連ねられている。
長井は新聞を見ると、心当たりがあると言い出した。
「それは記事の内容? それとも関係者証言?」
「実は昨日、報道のやつと話しこんでるやつを見たんですわ」
接客長椅子に腰かけた長井が、そう言い出した。
思わず日野に名前を直接言ってしまいそうになり、岡部に制された。
「その人を庇うわけじゃないけど、今は運営上我慢すると先生と決めてますから」
「厳しい台所事情でやむを得ずか……」
日野は、ふうと細く息を吐いた。
「困った事があったら俺にも相談してよ。俺はほら、あちこちに研修に行ってるから、それなりに力になれると思うからさ」
そう言うと日野は岡部の肩を叩いた。
研修担当の方にそう言ってもらえると心強いと、岡部と長井は日野を暖かい目で見た。
そこに櫛橋が朝飼が終わったと報告をしにやって来た。
報告を終えた櫛橋が顔をしかめた。
「ん? なんやこの部屋、お酒臭いですね」
部屋の全員が冷たい眼で日野の顔を見た。
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