第49話 皇都大賞典
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・牧光長…岡部厩舎の調教師見習い
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は北国牧場の小平生産顧問
・跡部資太郎…白詰会の調教師(呂級)
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
大津への引っ越し準備で連日岡部たちは大忙し。
こういう作業では梨奈は全く役に立たず、完全に疲れ切った顔で、ぺたりと座り込んで新聞で食器を包んでいる。
ここ数日、岡部は直美の大型車に荷物をパンパンに詰め込んでは、大津の家に持って行くという作業を繰り返している。
その為、押入れの物はかなりまで無くなっていて、生活必需品だけになっている。
冬休みに入っている菜奈は岡部と一緒に新居に行って、お手伝いという名の探検をしている。
引っ越しだけじゃなく、菜奈の転園の手続きをしたり、住民票の移動をしたりとやる事は盛りだくさん。
それを岡部から旦那経由で聞いた麻紀と華那が、時折、手伝いに来てくれている。
『大賞典』を前に、最上とあげははご機嫌で岡部宅を訪れた。
「ほお、すっかり物が無くなったなあ」
それが最上の第一声だった。
すでに引っ越しは九割が終わっていて、後は冷蔵庫や布団といった生活必需品だけになっている。
台所も机すら無く、食事は客間の大机で行っている。
さらに言えば、戸川と岡部の重賞制覇や、昇級、三冠の賞状、徽章、写真、ぬいぐるみも大津に飾られている。
なのでびっくりするほど何も無い。
冷蔵庫やテレビ、掃除機、洗濯機といった生活家電は、新しい物を購入し新居に設置している。
皇都の家は別宅として利用する予定で、当面は松井に貸す事になっている。
そんな話を岡部がしているのだが、明らかに最上の視線があげはに抱かれた幸綱に向いてる。
めんこい、めんこいと言って、あげはが幸綱をあやしている。
「『大賞典』を一緒に竜主席で観ないか?」
目線を幸綱に向けたまま最上は言った。
「僕と菜奈ですか?」
「家族全員だよ。梨奈ちゃんも、幸君も。もちろん直美さんも」
それを聞いた梨奈と直美は、竜主席ってどんなとこなんだろうと嬉しそうに言いあった。
その光景に最上は首を傾げ、誘った事が無かっただろうかと直美にたずねた。
「昔、何遍か誘ってもろたんですけど、その都度、誰かさんが熱出しはって。そやから未だ行けず仕舞いなんですよ」
恨めしそうな目をして直美が梨奈を見る。
梨奈がぷいと直美から顔を背ける。
「ななね、いったことあるんよ! おいしいもんや、あまいもん、なんでもたべれるんよ!」
そう菜奈が梨奈に報告した。
「そうなんや、母さん楽しみやわあ」
梨奈が菜奈に向かって微笑む。
だがその後で梨奈は視線を岡部に向け、じっとりした目で睨んだ。
何故奈菜を連れて行って私を連れて行かないんんだという抗議の強い圧を感じる。
すっと岡部が梨奈から顔を背けた。
最終週、『皇都大賞典』の決勝の日がやってきた。
最上夫妻と岡部一家は夕方六時に待ち合わせをし、皇都競竜場の竜主席に観戦に向かった。
竜主席には託児室も併設されており、授乳が終わると幸綱はそこでぐっすり寝むった。
梨奈が授乳している間、あげはは直美を誘って竜券を買いに行った。
あげはは昔から竜券を買うのが好きらしい。
最上は自分の所有する竜しか竜券を買わないのだが、あげははそうではなく、多頭数だから呂級の竜券が面白いと言って購入している。
しかも最上曰く、かなり冒険的な買い方をするらしい。
本人は本命党だと言い張っているのだが、最上から見たら完全な穴党なのだとか。
さらに競走になるとかなりはしゃぐらしく、恥ずかしいので、毎回、竜主席から逃げ出て関係者観戦席へ行く事にしているのだそうだ。
竜主席の竜券購入機で自分の竜、杉の『サケコンセイ』と『サケビゼン』の単勝だけを最上は購入した。
今回は岡部の竜が出ていないので、梨奈は興味が無いらしく竜券は買わなかった。
岡部はそもそも規約上竜券の購入が許されていない。
楽しそうにあげはと直美の二人が競竜新聞を丸めて戻ってきた。
何を買ったんだと言って最上があげはの竜券を見ると、『シミズテンリュウ』を軸にした三連複竜券を、しこたま購入していた。
せめて紐でも良いから私の竜を買ってくれないかと抗議すると、あげはは、それはそれ、これはこれだと言い張った。
しかも良く見ると『大賞典』の決勝だけでなく、その前の能力戦の竜券まで買っている。
最上は開いた口が塞がらなかった。
まず夕飯にしようと言って六人は個室へと入って行った。
なんでも好きな物を頼みなさいと最上が言うと、菜奈がすぐに蒲鉾が食べたいと要望。
最上は笑い出し、蒲鉾は頼むけれども、それ以外に夕飯も頼もうねと菜奈に促した。
奈菜は毎回それだとあげはが大笑いしている。
ぶれない娘だと言って。
授乳の疲労でぐったりして壁にもたれた状態で、梨奈が「恥ずかしいなあ」と呟いた。
「どれが勝つと思っているんだね?」
食事を終え、新聞を見ながら最上がたずねた。
「そうですねえ。僕は『ハナビシイシモチ』だと思います」
「『コンセイ』と『ビゼン』は厳しいか?」
少し残念そうな顔で最上はたずねた。
「そうですね。武田くんは『メユイ』も出してますからね」
「じゃあ、ここに書いてある、『大賞典三階級制覇』の記録が達成されると」
「可能性は極めて高いと思いますよ」
そうなると二着争いによって昇級が決まるのかと、新聞の別の部分を見ながら最上は呟いた。
「『コンセイ』でも『ビゼン』でも、どっちかが二着に入れば……」
そう岡部は言うのだが、最上はかなり渋い顔をした。
隣でそれを聞いたあげはが竜券を握りしめた。
個室を出ると義悦が来ていた。
『タイカ』か『コウガイ』が出ていたら、かなり期待したのですがと言って残念そうに岡部の顔を見る。
色々と仕来りがあるのだからやむを得んと最上は義悦に笑いかけた。
義悦の話によると、『タイカ』も『コウガイ』もすでに繁殖入りしており、『コウガイ』の初年度の相手は『セキラン』を付ける事で決まったらしい。
小平の見立てでは、かなり良い牝系なので、何を付けても良い竜が出るはずだという事だった。
同じナイトシェード系よりは、タルサ系が良いと思うので、来年は『エイユウホウガン』を試してみてはどうかと助言を貰ったらしい。
義悦と歓談していると、珍しい人が来ていると言って、あちこちから会長が寄ってきた。
だがどの会長も、義悦よりも最上よりも先に、まずあげはに挨拶をしていく。
特に織田兄弟は、最上と岡部がいると言って挨拶にやって来て、あげはを見て硬直した。
「どうやら元気にやっているようね」
「あ、あげはさんこそ、お、お元気そうで何よりです!」
織田兄弟は顔を強張らせて腰を低くした。
弟の信牧にいたっては揉み手までしている。
「私が知らないところでまた悪さしてるんじゃないでしょうね」
「め、滅相もございません!」
織田兄弟は泣きそうな顔でペコペコ頭を下げ、二人仲良く逃げるように別の会長に挨拶に行ってしまった。
夜八時になった。
幸君が寂しがるからここで待っていると言って、梨奈は義悦と二人で竜主席で見る事になった。
いつもなら竜主席で観戦するあげはが何を思ったか関係者観戦席で観ると言い出した。
そこで菜奈を連れて最上夫妻と共に関係者観戦席へと向かう事になった。
関係者観戦席では杉と武田が、ああでもないこうでもないと言いあっていた。
二人は岡部を見ると、どう思うかと聞いてきた。
菜奈は背が低いのでうろちょろすると危ないという事で岡部が抱いている。
その菜奈が「父さんの竜が勝つと思う!」と杉と武田に胸を張って言った。
杉と武田は笑い出し、出てたらそうだったかもしれんと菜奈の頭を撫でた。
発走者が台上に上り小旗を振ると、発走曲が奏でられ照明が観戦席から競技場へと移る。
発走すると『ハナビシメユイ』と『シミズテンリュウ』は、逃げ竜のすぐ後ろに位置取った。
『ハナビシイシモチ』『サケビゼン』はその後ろ集団。
さらにその後ろの集団に『サケコンセイ』。
正面直線で中頃で早くも隊列は落ち着き、そのまま向正面へと向かった。
向正面でもゆったりと進み、三角から急に流れが早くなる。
四角で一団となり、完全に直線だけの勝負となった。
最初に抜けたのは『コンセイ』。
『コンセイ』は末脚に定評があるため、緩い流れを見て先に抜け出し、そのまま押し切ってやろうと原騎手は考えたと見える。
だが他の騎手たちは、勝負所はその先だと考えていたらしい。
直線残り半分で、他の騎手は一斉に『コンセイ』を追いつめ出した。
あっという間に『ビゼン』と『ハナビシイシモチ』が『コンセイ』を抜き去っていく。
『ビゼン』は追い出しは良かったのだが、最後で少し伸び悩んだ。
そこを『ハナビシメユイ』が抜いて行った。
最後、『ビゼン』は『シミズテンリュウ』に並ばれて終着。
直線の叩き合いを観て、年甲斐も無くあげはが「『テンリュウ』差せ! 差せ!」と大声を張り上げた。
それを聞いた杉が、なんで俺の竜じゃないんだと、あげはに苦情を言った。
『シミズテンリュウ』の毛利調教師は杉を見て、声援が頼もしいと大笑い。
一着『ハナビシイシモチ』、二着『ハナビシメユイ』、三着争いは写真判定の結果『シミズテンリュウ』。
落ち込む杉を尻目に、あげはは大喜びで竜券を換金しに行った。
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