第47話 岐路
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・牧光長…岡部厩舎の調教師見習い
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は北国牧場の小平生産顧問
・跡部資太郎…白詰会の調教師(呂級)
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
翌日、麻紀、小夜、麻夜を引き連れて松井が岡部宅を訪れた。
手には一升瓶とお茶うけを持っている。
松井が挨拶すると麻紀も挨拶し、小夜も同じように挨拶をした。
小夜は四年生になっており、すっかりお嬢さんになっている。
下の娘の麻夜は、よちよちだが歩けるようになっており、捕まえていないとそこら中を歩き回ってしまうらしい。
どこに行っても小夜が見張っててくれると麻紀は笑った。
玄関である事に気が付いたようだが、麻紀は口には出さなかった。
まず松井たちは寝室へ通され、幸綱を紹介された。
寝室はよく暖房が効いていてかなり暖かく、口をむにむにさせながら幸綱が静かに寝ている。
起こさないように小声で小夜が可愛いと言うと、男の子ってこんな頃から女の子とは顔つきが違うと麻紀が微笑んだ。
誰かに似てやんちゃそうな顔をしていると松井は岡部を見て静かに笑った。
ところが麻夜はまだ加減がわからず、「あかたん!」と少し大きな声を出してしまった。
幸綱がびっくりして泣き出してしまい、小夜に「しっ!」っと叱られ、麻夜も泣き出してしまった。
梨奈が幸綱を抱き上げてあやしている間に、岡部は松井たちを客間へ案内した。
客間の扉を岡部が開けると、麻紀はやはりという顔をした。
泣き止んでぐずっている麻夜を抱っこした松井は、最上がいることに酷く驚いた。
「松井先生が来ると聞いてね。また一緒に呑もうと思って、こうしてお邪魔しているよ」
寒いから早く中へとあげはに促され、松井一家は客間へと入った。
さあ早く一杯やろうと最上が笑顔でお銚子を横に振る。
最上の横に麻紀、その横にあげは、正面に岡部、その横に松井、直美の順で座った。
隣の机には、梨奈、菜奈、小夜、麻夜が座っている。
「酒田以来ですね、お変りはありませんでしたか?」
お銚子を傾け、松井のお猪口に米酒を注ぎながらあげはがたずねた。
松井は恐縮してしまって、酒田では大変お世話になりましたと頭を下げた。
「今日、久々に松井先生と晩酌と言ったら、うちのが張り切ってしまってね」
そう言って最上がお重の蓋を開ける。
そのあまりの立派な内容に麻紀がびっくりしてしまった。
紅花会の大女将だから、こういうの簡単にやれちゃうんですよと岡部が説明。
すると、大女将だったんですかと言って麻紀は驚きで言葉を失ってしまった。
麻紀からしたら酒田で芋煮を作っていた田舎のお婆ちゃんの印象しかないため、当然の反応だったかもしれない。
そんな麻紀を見てあげはは、田舎料理ですと言ってはにかんだ。
そこからしばらくは、子供たちは食事に、大人たちは酒に興じていた。
麻紀は酒を呑むのを渋ったのだが、銚子を持った最上に遠慮する事はないと言われてしまい、では少しだけと言ってお猪口に口を付けた。
子供たちの食事が済み、大人たちもお酒がまわってくると、そろそろ本題に入ろうという雰囲気になった。
「樹氷会の事は聞いているよ。で、松井先生自身はどう考えているんだね? 本当の所を聞かせて欲しいのだ」
一旦、お猪口を机に置き、松井は俯いて少し考え、くいっとお猪口を空けた。
「岡部くんの『戻るべき』という意見もわかります。ですが、紅花会から受けた恩が大きすぎてしまって……」
松井を見つめながら、麻紀は静かに小升で酒をあおっている。
いつの間にか勢いが付いて、小升に持ち替えてしまったらしい。
肴をつまみながら、岡部もちびりちびりと酒を呑んでいる。
「そうか……。まさかこんな日が来るなんて、我々も全く想定していなかったからなあ」
純粋に良い先生を迎えられたという思いしかなかったと言って、最上はお猪口を口にした。
「あの時、小寺さんから一言、松井先生を頼むと言われていれば、松井先生も、こんな風に悩む事は無かったのになあ」
それを聞くと岡部も、確かにそれがあれば話は全然違っていたと同調した。
「一方で、あの若い会長が樹氷会をなんとかしたいという強い気持ちがあるという事は、ひしひしと感じるんですよね」
そのために自分が必要だと言われると、何とかしてあげたいという気持ちも沸いてしまう。
だがここで行くと言ってしまえば、俺は恩知らずになってしまう。
恩知らずになるくらいなら彼らを見捨てるのが筋だと思う。
そう額をぽりぽりと掻きながら松井は言った。
「なんで、こんな素晴らしい先生が樹氷会から出たのやら。ほんとに不思議でならないな」
岡部に向かってそう言って笑うと、最上はお猪口を口に運んだ。
「相談役はどうお考えなのですか?」
反対に松井がたずねた。
そうだなあと唸るように言って腕を組み、何かを思い出すように最上は考え込んだ。
「迎え入れはしたものの、これといったもてなしもできず、輸送の件で、かえって迷惑をかけたと思っている」
思ってもみなかった最上の返答に松井は恐縮し、すぐに、滅相も無いと手を横に振った。
そんな松井を見てふっと笑うと、最初はせっかく手に入った大物調教師を手放してなるものかと思ったと、最上は素直な気持ちを述べた。
「だが今は、松井先生が樹氷会に行くというのなら、それを応援するのも、我々の器量だと考えているよ」
そこまで言うと最上は、ふと隣の机の子供たちに視線を移した。
「子供はいずれ独り立ちをするもので、心の奥で繋がっていればそれで良いと思うのだよ」
その最上の発言に、麻紀は我慢できずに持っていた小升を震わせて泣き出してしまい、あげはが肩を引き寄せて頭を撫でた。
最上のその一言は非常に重かった。
もし樹氷会に行ったとしても、君は紅花会の一員だと言ってもらえたのだ。
だから君が思うようにしたら良いと。
そんな風に言われたら紅花会を離れられないと、松井も涙を零してしまった。
松井に酒を注ぎ、一人では決められないかと最上がたずねる。
泣きながらお猪口を口にし、どうしたら良いかと言って松井が言葉を詰まらせる。
どうしたもんかなと呟き、岡部の顔を見て最上が困った顔をした。
ではこうしてはどうでしょうかと岡部がお猪口を置いて言った。
「豊川の忘年会に小寺会長をお呼びしては。忘年会の前に、うちの会長も交えて会談をしては」
「いや。それだと長引くと困るな。その前に義悦を皇都に呼んで、そこで食事会という事で会談をした方が良いだろう」
二人の提案を聞き、俺のためなんかにお手数をおかけしますと松井は頭を下げた。
「おいおい、会にとって戦略級の調教師というのは利益の出ている子会社みたいなものなんだよ。だからその処遇というのは一大事なんだ。それくらいで恐縮されては困るなあ」
それだけ先生は競竜界の重鎮になったんだ。
その自覚をちゃんと持ってもらわらないとと最上は笑い出した。
晩酌もかなり進み、松井にじゃれついてきていた麻夜が、そのまま膝の上で眠ってしまっている。
岡部が毛布を渡すと、松井は座布団に麻夜を寝かせ毛布をかけた。
小夜と梨奈が菜奈で数札で遊んでいるが、菜奈もかなり睡魔が襲ってきているらしく、何度もあくびをしている。
便所行っていた最上が戻って来た。
「今、厠に立ったついでに義悦に電話したよ。なんでも、明後日こちらに来る予定だったのだそうだ」
「この件でですか?」
「いや。三日後に竜主会の定例会議が予定されているんだそうだ」
ちょうど良かったですねと岡部が言うと、最上はにやりとした。
「君が何か言ったらしく、それを会議にかけるのだそうだよ」
「ああ。例の国際枠の件ですか」
何の話だと松井が聞いてきたので、表彰の際、織田会長に話した事をそのまま最上と松井にも話した。
「あの枠の件は私も前から違うと思っていたんだ。織田さんの意見に賛成だったんだよ」
「でも、織田会長は反対者が多いって言ってましたよ」
「そりゃあ、国際競争の決勝に残れば会の評判はうなぎ上りだからな。稲妻系は面白かろうはずがなかろう」
逆に伊級調教師を抱えていない会派からしたら正直どうでも良い問題で、どうでも良いから変更する必要がないと判断されてしまい、これまでなかなか話が動かなかったのだそうだ。
「へえ。それなのに織田会長は賛成なんですね」
「大型輸送機を持っているのが、雷雲会、紅葉会、清流会の三会派だけなんだよ」
「なるほど。枠が増えれば輸送頻度が増えるってわけですか」
維持費も馬鹿にならんからなと最上が言うと、なるほどねと松井も納得し、お銚子を傾け酒を注いだ。
ここまでの話を聞き、ふと松井には気になった事があった。
「例えばですけど、今回の件を今度の会議にかけて承認されたとして、実施されるのっていつからなんですか?」
ものによる、そう最上は答えた。
大きな反対も大した懸念も無くすぐに実施となれば、今なら来年の実施にギリギリ間に合うだろう。
だが大抵は、今決まったら実施は数年先となるだろう。
「じゃあ岡部くんは海外には行けないのか」
そう言って松井が岡部にお銚子を向けると、残念ながらと最上は微笑んだ。
「海外かあ、どんなとこなんやろ」
そう麻紀が遠い目で言った。
一度行ってみたいと直美が麻紀に言う。
写真でしか見た事が無いと言って、梨奈も加わり三人で盛り上がっている。
すると、いつも静かに呑んでいるあげはが、くすくす笑い出した。
「松井さんも、綱一郎さんも、海外なんてすぐに連れて行ってくれますよ」
そう言って三人に微笑みかけた。
直美と梨奈、麻紀が、岡部と松井を期待に満ちた目で見つめる。
「いや、あの、そんな目で見られましても。そう簡単には……」
「いやいや、岡部くんはともかく、俺はいつの事になるか……」
女性三人の熱い視線に、二人は滑稽なほど狼狽えた。
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