第44話 土肥
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・牧光長…岡部厩舎の調教師見習い
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は北国牧場の小平生産顧問
・跡部資太郎…白詰会の調教師(呂級)
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
結局、自宅に帰ったのは真夜中だった。
翌朝、客間の机に広げられた大量のお土産を見た家族の視線は、それはそれは冷たかった。
「前橋に、愛子。どこやのそれ。なんで一人で行ってしまいはったん? うちら連れてってくれはっても、ばち当たらへんのと違うの?」
そう言って、じっとりとした目で梨奈は岡部を見つめ続ける。
お土産を一瞥すると、直美は無言で台所にお茶を淹れに行った。
菜奈も菜奈で、良い娘にしてたのに連れてってくれなかったとチクリと言って、不貞腐れた顔で直美に付いて行った。
思わず助けを求めるような目で岡部は仏壇に視線を移してしまった。
「いや、ほら、梨奈ちゃんまだ体力的に回復してないかなって……」
「幸君も産まれて、私こないに元気やけど?」
あまりの梨奈の指摘の速さに、岡部の額から汗が垂れる。
「いや、ほら、菜奈の幼稚園とかもあるし……」
「小学校やないから、幼稚園なんやから、それより外を見る方が大事やって、言うてはったんは! どこの! 誰!」
尋常じゃない梨奈の威圧感に、岡部は梨奈の目が見れない。
「それを言ったのは、酒田の、義母さん……」
「綱一郎さんかて、一緒に言うてはったやないの!」
……言ってました。思い出しました。
「僕は仕事で行ったんであって、遊びで行ったわけでは……」
「この間、菜奈を幕府に連れて行きはった時かて、仕事やったんと違うの?」
……それはそう。
もはや完全に言い訳に失敗したと実感し、岡部はなんとか次の言葉を探そうとした。
だが、梨奈の言葉の方が早かった。
「菜奈ちゃんは良えなあ。私と違うて、ちょっと行きたい言うただけで、どこへでも連れて行ってもらえて」
背中に変な汗をかいているのを感じ、岡部はなんとか梨奈の機嫌を取らねばときょろきょろと視線を動かす。
「あのこれ! ずんだ餅って団子。梨奈ちゃんが好きそうだなって思ってね、昨日、急いで買い足したんだよ!」
岡部の顔から視線を動かさずに無表情で付属の割りばしを割り、差し出されたずんだ餅を口に頬張る。
「あ、美味しい!」
「でしょ! 僕も一口食べてね、絶対梨奈ちゃんが好むと思ったんだよ!」
梨奈の表情が少し和らいだのを見て、岡部は精一杯の笑顔を作った。
「団子一個で誤魔化せると思うてはるんやないやろね?」
岡部の淡い期待は、そのたった一言ではじけ飛んだ。
「僕だって梨奈ちゃんと一緒に出掛けたいよ。だけど、梨奈ちゃん、車以外だと熱出ちゃうじゃない。今回はどう考えても長丁場だと思ったし、途中で帰るわけにもいかなかったし」
一番言い訳にされたくない事を言われ、梨奈は完全にへそを曲げてしまった。
そこに直美と菜奈が茶を持ってやってきた。
「綱ちゃん。梨奈ちゃんはね、今回一緒に連れてってくれへんかった事を怒ってはるわけやないんよ。自分も旅行に連れてけて、おねだりしてはるんよ」
直美がそう言うと、梨奈は無言で岡部の顔をじっと見た。
岡部の膝の上に乗り、菜奈がどれを食べようか物色している。
大量の土産の中から岡部は無言で笹蒲鉾を菜奈に渡した。
笹蒲鉾を一口食べると、菜奈は岡部の方を向き、顔全体を使って美味しさを表現した。
物を入れたまま大きく口を開けるなと何度も注意するのに、この娘ときたら、まったく。
三人を見ながら岡部はしばらく黙っていた。
岡部が何を言うか、ずんだ餅を食べながら梨奈も覗き込むようにじっと見つめている。
「……来月、酒田の会長と土肥に行く事になってるんだけど、修善寺に行ってみる?」
それを聞くと梨奈は一気に笑顔になり、直美に修善寺って何があるのとたずねた。
なんとも理不尽なものを感じながら、岡部は絵巻を口にし、お茶を啜った。
月末、ついに家に幸綱がやってきた。
病院で梨奈が幸綱を抱きかかえ授乳を済ませてから、三人で自宅に帰ってきた。
家に着くとすでに最上夫妻が待っていた。
眠りながら幸綱が鼻をすするような仕草をすると、あげはは幸綱の頭を撫で、めんこい子だと微笑んだ。
菜奈がとにかく興味深々で、静かに寝ている幸綱の頬を突いたり手を触ったりしている。
最初は恐る恐るだったのだが、徐々に楽しくなってしまったようで、あちこち触っていると突然幸綱が泣きだしてしまった。
びっくりして菜奈が幸綱から離れる。
梨奈が抱きかかえ、ぽんぽんと何度か叩くと幸綱はまた大人しく眠った。
「菜奈はお姉さんなんやから、幸君を泣かせたらあかんよ」
梨奈が優しく菜奈を諭すと、菜奈も幸綱の頭を撫で、ごめんねと謝った。
月が替わり、家族五人で東海道高速鉄道に乗り駿府駅へと向かった。
修善寺に行く目的は競竜学校の卒業式に参列する事で、元々、岡部は義悦と二人で行く予定だった。
義悦に家族全員で行く事になったという話をしたところ、じゃあうちも、すみれちゃんたちを連れて行くなんて言っていた。
ところがどうやらその後ひと悶着あったらしい。
幸綱が行くという事を知った最上夫妻が、代わりに自分たちが行くとねじ込もうとしたらしいのだ。
「お爺様たちは、いつでも梨奈さんたちと会えるでしょ! 私たちはそうやないのよ!」
突然、電話相手が義悦からすみれに代わり、凄い剣幕で怒られたのだそうだ。
それを岡部宅に来て最上が岡部に愚痴った。
自分たちに言って無理やり付いて来るつもりだという事は、すぐに岡部も気が付いた。
だが会長と先代の二人が来てしまったら、一体何事だと競竜学校が困惑してしまうだろう。
幸君の初宮詣がありますからと最上夫妻をなだめ、何とか今回は遠慮してもらった。
いつものように菜奈は靴を脱いで座席に立ち、窓の外を見ている。
直美の膝上には赤子用の篭が置かれ、その中で幸綱が静かに寝ている。
梨奈に今回の自分たちの目的を説明し、土肥に行っている間、すみれたちと修善寺観光をしていて欲しいとお願いした。
それと、今回二人来賓がおり、夕方から食事会があるので、できればそれに出て欲しいという事もお願いした。
梨奈は不安そうに頷いたのだが、これは遊びではなく仕事だからと岡部に言われ、意を決したような顔で梨奈はもう一度頷いた。
先に修善寺の小宿に着いたのは岡部たちであった。
部屋に通され、浴衣に着替え終えた頃に義悦一家が到着。
長女のまなみは菜奈の一歳下で、かなり会話がはっきりしてきている。
岡部と梨奈が挨拶すると、特に気後れする事もなく、まなみはにこりと笑って挨拶をした。
初めて見る幸綱に義悦夫妻は興味津々で、この子が幸綱君かと言い合っている。
そこに宿の人が来て、国司様が到着したと報告してきた。
国司親子に挨拶するために、義悦と岡部は受付へと向かった。
紅花会の会長だと岡部が紹介すると、国司の妻は非常に恐縮した。
今回、国司の妻と娘の有羽を修善寺に誘ったのは岡部だった。
元々、土肥には行く予定だったようで、それなら修善寺の紅花会の宿を利用してはどうかと案内したのだった。
まさか岡部と会長が来るなどとは思ってもみなかっただろうが。
この後、食事会を設けようと思っているので、それまで温泉に入って、ゆっくり旅の疲れを癒して欲しいと義悦は微笑んだ。
翌朝、義悦と岡部、国司親子の四人で土肥の競竜学校へと向かった。
研修時代には全く気付かなかったのだが、卒業式が始まるまで、来賓は教室で待っていたらしい。
報道はその教室に近づく事はおろか写真一枚撮る事も許されない。
ずっと警備員と教官が報道に睨みを効かせ続けている。
待機所の教室は複数用意されているのだが、来賓の多くは会派の人や騎手候補の家族である。
その中の一人が岡部を見つけ、ニコリと笑って近づいてきた。
「お久しぶりね。お花見の一件以来かしらね」
そう言って薄雪会の北条会長が挨拶をしてきた。
その節はお世話になりましたと言うと、まだ、あいつらにちょっかい出されてるんだってねと言って、北条は窓の外を指差す。
モテすぎるのも考えものと苦笑いすると北条は大笑いした。
北条と話を始めてすぐに、式が始まりますと教官が体育館への移動を促してきた。
移動の途中、調教師会長の織田藤信に見つかり、俺の後に挨拶しろと言われたのだが、そこは丁重にお断りした。
岡部たちが来賓席に座ると北条会長もその隣に座った。
椅子に腰かけると北条会長は、突然義悦を見てふっと微笑んだ。
「実はね、やっと後継者を見つけたのよ。来年、あなたのところに挨拶に行かせるからよろしくね」
「ちょっ! そんな話を報道に聞かれたら、式典ぶちこわしの大騒ぎになりますよ!」
「別に今ここであなたが大騒ぎしなければ何も問題無いわよ」
そう言って北条は口元に袖を当てくすくす笑った。
後継者は成田長茂という名で、北条会長からしたら、亡き夫の姪の子になるらしい。
年齢はまだ二十代で、現在は本業の建築会社の社長をさせているのだとか。
この業界は浮沈の激しい世界だから、どうすれば浮上できるか広く周囲を見渡してよく考えるようにと、紅花会の例を出して成田に教育していると語った。
入場してきた調教師候補を拍手で迎えると、あの子に良い置き土産ができそうだと、北条は嬉しそうな顔をした。
結局、最後の実習競走は岡部が予想した通り薄雪会の高山が勝利した。
頭差の二位は内田で、そこからさらに頭差の三位が赤根会の内ヶ島だった。
結局、四位以下の調教師が一度も三位以内に入れなかった事から、この三人の技術がいかに高いかが伺える。
卒業式が終わったようで、新米調教師たちと新米騎手たちが、大きな拍手の中、会場から出て行った。
満面の笑みで岡部の顔を見て、私たちも期待の調教師殿を労いに行きましょうと義悦が微笑んだ。
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