第41話 愛子
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・岡部幸綱…岡部家長男
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・牧光長…岡部厩舎の調教師見習い
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は北国牧場の小平生産顧問
・跡部資太郎…白詰会の調教師(呂級)
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
翌朝、東北道高速鉄道に乗って多賀城駅へと向かった。
前橋駅から愛子駅までの乗り換えは何気に不便で、一旦、幕府の上尾駅まで戻らねばならない。
しかも上尾駅には特急は停まらないので各駅停車でである。
まず前橋駅から東山道高速鉄道に乗ると一駅先が上尾駅。
そこで東北道高速鉄道に乗り換えるのだが、運が悪いと杉妻駅で再度乗り換えないといけない。
昨晩の呑み会でそれを面倒だと言ったら、そんな事する人いませんよと中里に笑われてしまった。
普通はみんな毛野鉄道の本線快速を使って小山駅へ行くんですよと助言を貰った。
小山駅からだと特急に乗れるから結果的に早く着くのだそうな。
昨晩の呑み会は大盛り上がりだった。
長井、池田の二人と呑み屋で呑んだのは、戸川厩舎での実地研修の時以来だった。
左に犬童、右に櫛橋という感じで終始岡部は席を固められてしまっていた。
正面に中里、その両隣に池田と長井という席だった。
とにかくこの地のこんにゃくが絶品だから、ぜひ食べてみて欲しいと言って長井が注文。
池田も池田で、いやいや、ここの絶品は豚肉だろうと豚味噌焼きを注文。
甘藍を頼まないとか、まだまだですねと言って中里が野菜炒めを注文。
あの甘辛の焼き団子が実は米酒に合うのにと、櫛橋は焼き団子を注文。
牛ですよ牛と、犬童はすき焼きを注文した。
そんなこんなで卓上は地の肴で溢れかえっていた。
かなりお酒が入ったあたりで、池田と長井が来てくれてなかったら、正直な所、今頃どうなっていたかわからないと櫛橋が言いだした。
池田が来てから非常に仕事がやりやすくなったと中里も同調。
結局、三人の男性厩務員をいびり出した女性厩務員四人組は、雰囲気が変わって居づらくなり桜嵐会の厩舎へと転厩していった。
もちろんその時に彼女たちは、自分たちか、このおっさんかを選べと櫛橋に迫った。
櫛橋は鼻で笑い、私の人事が気に入らないなら、さっさと出て行ってくれて構わないと女性厩務員たちに言い放った。
長井さんが来てくれてから調教がやりやすくなったと犬童も語った。
櫛橋は騎乗の経験が乏しく、そこが最大の弱点となっている。
研修時代から、感じた事を犬童が言葉で伝えても伝わらない事が多々あった。
研修時代はそんな状態でもなんとかなったが、開業後はそうはいかなかった。
そのぎくしゃくを長井が通訳してくれたのだそうだ。
櫛橋の口から初めて直接言われたらしく、長井と池田は目に涙を浮かべた。
そんな二人を見た櫛橋が、酒呑んで涙もろくなるのは歳とった証拠と言って笑った。だがその顔はかなり恥ずかしそうであった。
東北道高速鉄道は行き先別に二路線ある。
幕府、上尾、小山、宇都宮、白河、郡山、杉妻、ここまでは共通で、ここから二又に別れる。
一本は多賀城、一ノ関、花巻、盛岡、一戸、伝法寺、野辺地、浪岡と海岸線を通る本線。
もう一本は米沢、山形、新庄、横手、秋田湊と北陸道高速鉄道へと接続する陸羽線。
多賀城駅で降り陸前鉄道に乗り換え、内陸の愛子駅へと向かった。
愛子は奥羽山脈の麓、広瀬川と斉勝川に挿まれた、いわゆる沖積平野に作られた町である。
愛子駅から広瀬川方面に少し歩いた先に大きな白い建物、愛子競竜場が横たわっている。
守衛を通り厩舎棟に入ると、岡部は真っ直ぐ斯波厩舎へと向かった。
事務室に入ると、事務机の後ろに『紅地に黄の一輪花』の紅花会の真新しい会旗が貼られていた。
机の横には額が二つ飾られており、片方には『真摯』、もう片方には『叡智』と毛筆で書かれた紙が入っている。
岡部の姿を見ると斯波は両手を広げた。
「わざわざ師匠自らこんな遠くまで昇級を祝いに来てくれるなんて光栄ですね」
そう大袈裟に言って応接椅子に掛けるように促し、親戚の斯波騎手を呼んで珈琲を淹れてくれとお願いした。
斯波善詮騎手が珈琲を淹れている間、斯波は善詮の紹介をした。
善詮が珈琲を三杯持ってきて、うち一杯を岡部に差し出し斯波の隣に座る。
岡部の土産の八つ橋をぽりぽり食べながら、しげしげと岡部を観察し、この方があの岡部先生なのかと呟いた。
「思ってたより若造で不安ですか?」
そう岡部が意地悪く聞くと、滅相もありませんと、善詮は首をぶんぶんと横に振った。
「かしこまらなきゃいけないような偉ぶった方じゃないから安心しろ」
そう言って斯波が善詮の背中を叩いて笑い出した。
話題は仁級の感触がどうだったかと言う話から始まり、厩舎の人事の話になった。
岡部厩舎の荒木主任を参考にして、斯波は叔父から茂庭という厩務員を一人貰い受けたらしく、その人物に主任をやってもらっているらしい。
だが育てている調教助手の候補が若くて、かなり不安が残ると困った顔をした。
その後、研修中の内田の話題になった。
思ったより苦戦していて、正直驚いていると斯波は言った。
自分も驚いていると岡部が言うと、かなり質の高い期のようだという話になった。
そんな雑談の中で岡部が突然言った。
「あの長野さんの件、発端は斯波さんでしょ」
とぼけようと思ったのだが、間違いなく顔に出ているだろうし、第一、岡部を欺ける自信が斯波には無かった。
そもそも隣に座る善詮が驚きを顔一杯に出してしまっている。
「……え、ええ、まあ。よ、よくわかりましたね」
「ここに来る前に坂井先生と長野先生に会ってきてね。少し違和感を覚えたんですよ」
坂井先生は長野騎手が辞めたいと言っていると言っていたのに、長野先生は辛いと言ってるとしか言っていない。
坂井先生は次男か三男かすら知らなかったし、斯波先生は悩んでいると送ってきたが、長野先生は悩んでいるというより憂いていた。
明らかに情報が錯綜してる。
驚異の洞察力と推察力だと斯波は恐れ入ってしまった。
「俺より電脳に慣れない叔父が送った方が危機感が伝わると思いました。騙すような真似して、すみませんでした」
「いや、怒ってはいないですよ。ただ、そんな小細工しないといけないほど危険的な状況に見えたんだなって」
「このままだと、近い将来、尊い命が……」
隣で善詮も哀しそうな顔でうつむいている。
先に長野騎手に会っておきたいと思い、岡部は善詮に連れに行ってもらう事にした。
そこから斯波は現状の状況を説明した。
能島が長野をいびるやり方は、正直言ってまともでは無いと感じる。
自分も騎手出だから見ていられないと言って斯波は非常に辛そうな表情をした。
負けると能島は怒って検量室から出て行ってしまう。
ほんの少しの騎乗誤りも許さず、無言で長野を睨みつける。
それを周囲から指摘される事もあるのだが、その場では笑って過ごすのだが、その後で事務室で叱責するらしく、しばらく長野の口数が無くなるらしい。
そんな長野を心配して斯波も何度も呑みに誘うのだが、長野は決まって「俺は大丈夫ですから」と作り笑いを浮かべる。
このままこの状況を見て見ぬ振りし昇級する事はできないと判断したと言って斯波は唇を噛みしめた。
「僕も同感ですね。はあ……能島さんは戸川先生の教訓を何も理解できていなかったんだなあ。ガッカリですよ」
「どうされるおつもりですか、能島先生を」
「ある程度、僕も予想は付いていて、対応も決めてきてはいます。予想が外れている事を強く願っていたんですどね」
渋い顔をし岡部は頭を掻いた。
そこに善詮に連れられて長野騎手がやってきた。
斯波を自分の席の隣に座らせ、正面に長野を座らせると、岡部は世間話を始めた。
長野も岡部の事は噂では聞いているし、会報で何度も見ている。
その実物が目の前にいるとあって、ガチガチに緊張している。
それを斯波が冗談を交えて、ゆっくりとほぐしてくれた。
その間、岡部は長野の表情をじっと観察していた。
久留米で開業したばかりの頃に見た坂調教師たちと同じものを、岡部は長野の表情に見ていた。
絶望の先に小さな光があると信じ、とぼとぼとただ歩みを進めているだけの人に共通の、どこか虚ろな表情である。
「長野さん。もう我慢する必要は無いです。次の道へ進みましょう」
岡部の言葉に、長野は心底怯えたような表情を浮かべる。
岡部としてはある程度予想していた反応だったが、斯波はかなり驚いた顔をしている。
「そんな! 能島先生を見捨てる事なんてできませんよ!」
そう言って長野は抗った。
良く躾けられた奴隷だ、そう感じて岡部は呆れ果てた顔をした。
まるで暴力夫の暴力に耐える事で、自分を良き妻と思い込む病んだ妻のようである。
これは長野の心を一度折らないと、二人の歪んだ関係は断ち切れないだろう、岡部はそう考えた。
「あなたが見捨てなくても、僕はもうこれ以上、能島さんに調教師をやらせる気は無いですよ。そう決断させたのは、あなたですよ」
右手を長野に見せて、薄っすらと笑みを浮かべて岡部は言った。
自分のせいで能島先生がと、長野は泣き出しそうな顔をする。
斯波は両眼を閉じ少し俯いている。
終始痛ましいという顔で善詮は長野を見ている。
「あなたの表情を見るに、筆頭調教師として、これ以上能島さんとあなたをこのままにしておく事はできない。それでもなお、能島さんと続けたいとあなたが望むのなら……」
そこで区切った岡部に、長野は不安に満ちた顔をする。
「……別の会に移籍してもらいたい」
長野の頬を一筋の涙が伝った。
何で泣く必要があるんだかと斯波は呆れるように言った。
「斯波さんも騎手を辞めた時、何とも言えない寂しい気持ちになったでしょ。何かに挫けたような」
そういう事ですかと納得して、斯波はため息をついた。
もう騎手を辞めろという事ですかと、握った拳と両の膝と声を震わせて長野はたずねた。
岡部は首を横に振る。
岡部が考えた長野の次の道というのは、内田厩舎の契約騎手になる事だった。
内田は間違いなく嫌がるだろう。国司騎手が育たないと言って。岡部も仁級、八級ではそう考えたから容易に想像がつく。
だがここに来て、その方針は誤りだったと考えている。
そんな事をしても結局服部は順調には育たなかったし、単に呂級で苦しくなっただけだった。
だから、ここまで苦労してきた長野に国司を育ててもらった方が、よほど成長になると考えたのだ。
岡部の説明を聞くと斯波は、伊級調教師の言う事は説得力があると素直に感心した。
少し考えさせてくださいと長野は震えながら言った。
だが、会を抜けるか提案を受けるかの二択しかないんだよと斯波から強く指摘されてしまった。
その声に長野が過剰に体をビクリと震わせる。
しばらくじっと黙っていた長野だったが、わかりました、お受けしますと静かに言って唇を噛んだ。
「来年の五月までは、この事を口外せず、ただ単に自由騎手として生計を立ててください」
岡部の指示に長野はこくりと頷いた。
震える指で八つ橋を掴んで口に運ぶ長野の様子を暫く無言で観察し、珈琲を口にしてから岡部は言葉を発した。
「長野さん。今までよく頑張りましたね」
その優しい言葉が傷付いて瘡蓋だらけの心に突き刺さってしまったようで、そこから長野は壊れたように泣き続けた。
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