第36話 賞金
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・牧光長…岡部厩舎の調教師見習い
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は北国牧場の小平生産顧問
・跡部資太郎…白詰会の調教師(呂級)
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
翌日、呂級で最後になるであろう厩舎会議が行われた。
参加者は、牧、服部、新発田、荒木。
すでに厩舎に竜は一頭もおらず、荒木以外の厩舎関係者は、基本明日から全休となっている。
外では竜房の清掃をしており、会議終了後、事務室の清掃を行う事になっている。
会議室に来た荒木と牧が、かなり深刻な顔をしていた。
「先生、あの、今月の給与の事なんですけど。先生に限って、そないな事は無いとは思うんですが、計算が間違うてたりなんて事は……」
荒木が何を言いたいか、岡部も良くわかっている。
今月の給料が通常月に比べ非常に高額だったのだ。
基本的に厩務員の給料は二本立てになっている。
一つは基本給。
これは労働組合の方で、一人いくら、さらに役職手当いくらと完全に定められている。
その額を支給できないと労働組合から指導が入る。
逆にその額より多く支給すると、それはそれで竜主会から指導が入る事になる。
厩務員を何人という規定が明確にあるわけではないが、基本九人で、うち一人が主任厩務員。
八級から調教助手、呂級から筆頭厩務員、伊級から副調教師という感じに役職付きが増える。
あくまでこれが基本形態なので、各厩舎の状況によって増減する事になる。
もう一つが賞与である。
厩舎の収入は『預託金』という竜の管理費用と、競走の賞金がほぼ全てである。
賞金は多くを竜主が取得し、残りが調教師、騎手、厩舎、生産者に分配される。
その厩舎の取り分から基本給を差引き、餌代など諸々の経費を差引き、残った金額を賞与として厩務員たちに分配する事になっている。
仁級は賞金額が少なく、どうあがいても赤字経営になるため、逆に会派から支援金が支払われている。
なお、預託金は放牧時には牧場に支払われてしまうため、夏場や冬場の放牧の季節には収入ががた減りする事になる。
どこの厩舎も、そこを見越して普段の賞金からある程度の金額を避けておき、その時期の給料に充てている。
収入が勝ち負けで決まり極めて不安定なため、会派に一時的に借入をしている厩舎も多い。
もちろん無利子、無担保なのだが、どこの会派でも返済期限を定めている。
中には借りて返してを繰り返し、自転車操業で厩舎を運営しているような、やくざな調教師も存在する。
そんな調教師には会派の競竜部から指導が入り、最悪の場合、厩舎休業という処分が下される事もある。
岡部厩舎でも、不測の事態に備え、三年目以降は常に半年分程度の保留金が蓄えてある。
賞金は、呂級、八級では六位入線、伊級、止級、仁級では三位入線まで支払われる。
一着を満額として、二着、三着と賞金額は目減りしていく。
条件戦以下に比べ重賞は賞金提供者がいるため賞金額が段違いで、予選、最終予選と、かなりの賞金が支払われ、優勝すると総賞金ががっぽりと支払われる。
もちろん無料で出走できるわけではなく、出走登録料というものを支払わないといけない。
連続大敗となれば竜主は大赤字なのである。
賞金は執行会から一旦各会派に支払われる。
そこから会派の運営費を差引き、各種費用を差引き、各方面への分配金を差引いたものが竜主に支払われる。
毎月、月の中頃に会派から前月の『厩舎分配金』が提示される。
それを調教師が電卓を叩いて給与計算している。
荒木を始め妻帯者は、給料を家に賞与を懐にという厩務員が多い。
賞与は仁級では支払われず、八級で子供の小遣い程度、呂級でそれなりというくらいの金額が通常である。
定期的に重賞を制覇する岡部厩舎の面々は、かなり賞与の高い高給取りだったりする。
もちろん、そこから各種税金が引かれ、手取りは目減りしていくのだが。
現在、紅花会では基本給周りの処理は電脳が自動でやってくれている。
調教師は厩舎分配金から賞与をどの程度支払うか決める程度で、全ての給与計算ができてしまうのだ。
先月の厩舎分配金の金額が提示された際、岡部は目を疑った。
通常の十倍以上の金額だったからである。
思わず本社の競竜部へ確認し、小野寺部長から間違ってませんよと大笑いされた。
国際競争である『海王賞』の賞金額が、いかに高額だったかという事である。
「間違ってないですよ。それが『海王賞』の賞金なんですよ」
その言葉に服部が露骨にがっかりした顔をする。
騎手は例え専属でも会派から直接分配金を貰い、個人で収支報告をしている。
つまり厩舎とは別会計なのである。
「あの、どの家も、あまりの額に嫁と喧嘩になってるんですけど」
「えっ、みんな嫁さんに取られちゃったの?」
「そらそうでしょうよ! 年収の半分近い額を別でもらえたんですよ。どこの嫁がそないな額、小遣いでくれる言うんですか!」
まさか先生は小遣いにできたわけじゃないでしょうねと、既婚者の牧と荒木が冷たい目で岡部を見つめる。
「うちは、大津に家建てる資金にした」
うちらとは別会計ですもんねと、牧が拗ねるように言った。
独身の新発田はニコニコしており、対照的に本番で降ろされた服部は魂が抜けたような顔をしている。
「で、そんな賞与を出しておいて、金で釣るみたいで心苦しいんですけど、この後、来年に向けて採用相談やりますので」
「あの金見て、大津に行けへん言うようなやつおらんでしょうよ! 家族が行かへん言うても、みんな単身で行きますわ」
そう言って牧はゲラゲラ笑った。
牧の言葉通り、年収の半分近い賞与は厩務員とその家族の心をがっちりと掴んでおり、全員が大津行きを希望した。
そんな中、深刻な顔をした西郷が、相談があるので自分を最後にまわして欲しいとお願いしてきた。
最後の小平が終わると西郷が入ってきた。
「先生。俺、どうしたら良いか……」
今にも泣き出しそうな顔で、西郷は手を前で固く掴み、うつむいて口を真横に結んでいる。
「まず何があったか言ってくれないと、僕も助言のしようがないよ」
「……赤ちゃんできたそうです」
想定していた所と全然違う方角の話に、岡部は思わず目を丸くした。
「どうしたらも何も、選択肢は一つ以外、僕は知らないんだけど。あ、もしかして、相手、既婚者とか?」
「いえ、相手も独身です……」
「あ、じゃあもしかして僕の知ってる人とか?」
目をぎゅっと瞑り、西郷は大きなため息をついた。
「……吉弘真依さんです」
まるっきり予想していない名前に、もはや驚きの声すら出てこない。
太宰府に行く電車で吉弘が言ってた『獲物』ってこいつの事だったのかと、岡部は唖然としてしまった。
「吉弘なら独身だし特に問題ないだろ。西郷だって独身なんだし。それとも、別に付き合ってた人がいるとか?」
「いえ。ただその、真依さん、厩舎辞めるって言ってて。杉先生に申し訳なくて……」
「杉さんなら、むしろ熨斗付けて押し付けてくると思うんだけどなあ」
岡部の顔を見て、西郷が目を何度も瞬かせる。
「あの、どういう意味でしょうか?」
「あ、ごめん、こっちの話。後で僕から杉さんにちゃんと言っておくから。西郷は気にせず話を進めたら良いよ」
岡部の言葉に西郷は表情をぱっと明るくし、岡部の手を両手で取った。
「ありがとうございます! あの、僕も、杉先生に挨拶に行った方が良いんでしょうか?」
「ああ、そうだね。今日、祝賀会に来るからさ、その時に言ったら良いよ。きっと喜んでくれると思うよ」
過剰になと、岡部は心の中で呟いた。
その後、事務室の片付けと清掃をし、全員で神棚に拝礼をしてから御札を外した。
事務室と竜房に鍵をかけ、岡部は一同の顔を見回す。
皆、達成感に満ち溢れた顔をしている。
「じゃあ、祝賀会に向かおうか! 今日は会の金で呑み放題、食べ放題だよ!」
やったあと一同が歓声をあげた。
皇都の紅花会の大宿に向かい、各々受付で来場の申請をした。
開始までかなり時間があり、厩務員たちは待合で歓談しながら待った。
今回、関係者の他に、松井、杉、三浦と各厩舎の重役、騎手では石野、臼杵、香坂、喜入、原、今川が呼ばれている。
最初に到着したのが岡部たちで、次に到着したのが杉たちだった。
杉を呼ぶと、岡部は先ほどの話をした。
杉も吉弘から話を聞いていたようで飛び跳ねんばかりに喜んでいる。
次に松井たちが到着。
松井の受付が終わると、岡部の所に大宿の係員が来て、松井と二人、別室へ連れていかれた。
別室では義悦と大崎が着席していた。
岡部たちに席に着くように促すと、大崎が酒田に小寺会長が来たという話を始めた。
樹氷会を紅藍系の同盟に参加させ、以降、紅藍牧場を利用していきたいという相談を小寺会長はしてきたのだそうだ。
それは願ったりではあるが、その前に紅花会からは、一つ条件を付けさせてもらった。
それは、もう一度記者会見を開き、久留米で松井先生を追放した件を、事の経緯から全て公表する事であった。
それが極めて難しいものである事は、樹氷会の前の筆頭秘書の母里から説明は受けている。
だが紅花会としては松井を大切に扱っている以上、そこが両者の最大のわだかまりなのだ。
小寺会長は回答を避けたらしい。
だが、必ず会内の意見をまとめてみせるから、その日まで暖かく見守って欲しいと述べた。
大崎がそこまで報告すると、松井先生はどう考えているのですかと義悦がたずねた。
「俺は、岡部くんと相談役、それと紅花会に多大な恩がありますから。容易には戻る気はありません」
では私と祖父、岡部先生が戻ったらと言ったら戻れるのですかと、さらに義悦は松井にたずねた。
実はその質問の答えを松井は今でも麻紀と相談している。
そして未だに答えは出ていない。
松井の無言は義悦にとっては一つの答えだっただろう、岡部の顔を見て小さく頷いた。
もちろん紅花会としてはずっといてもらいたいと思っている、それが前提として、樹氷会へ戻る事への最大の障壁は何か。
義悦はそういう聞き方に変えた。
松井の回答は『受けた恩の大きさが全く違う』であった。
一番厳しい状況で手を払った樹氷会と、無罪を証明するために奔走した岡部、そして笑顔で受け入れてくれた相談役と紅花会。
ここで樹氷会に行ったら、恩知らずだと後ろ指さされる事になる。
「今のを聞くと、私もどうしても手放したくないという気持ちが勝ってしまうんですよね」
少し困った顔で義悦は微笑んだ。
大崎も同感のようで何度も頷いている。
ふいに大崎が時計を見た。
「もう祝賀会の時間ですね。皆を待たせるのもなんですし、我々もそろそろ」
「じゃあ香坂を褒めちぎって、服部と臼杵を悔しがらせてやろうかな」
松井を見て悪戯っ子のような顔をして、岡部は嬉しそうに言った。
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