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【完結】競竜師  作者: 敷知遠江守
第一章 師弟 ~厩務員編~
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第34話 報告

登場人物

・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員

・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)

・戸川直美…専業主婦

・戸川梨奈…戸川家長女

・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」

・氏家直之…最上牧場の場長

・長井光利…戸川厩舎の調教助手

・坂崎…戸川厩舎の厩務員

・池田…戸川厩舎の厩務員

・荒木…戸川厩舎の厩務員

・木村…戸川厩舎の厩務員

・大野…戸川厩舎の厩務員

・垣屋…戸川厩舎の厩務員

・牧…戸川厩舎の厩務員

・花房…戸川厩舎の厩務員

・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手

・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員

・吉川…尼子会の調教師(呂級)

・南条…赤根会の調教師(呂級)

・相良…山桜会の調教師(呂級)

・津野…相良厩舎の調教助手

・日野…研修担当

 宿に戻り、戸川と岡部はすぐに梨奈の様子を見に行った。


 奥さんがずっと付き添っていて、梨奈は赤い顔をして可愛い寝息をたてている。

戸川がどうだと聞くと、奥さんは、風邪だけど疲労もあるみたいと眉をひそめた。

ようははしゃぎすぎかと戸川が言うと、奥さんは、本当にこの娘はと呆れている。

岡部が、倒れるほど満喫したと知れば招いてくれた会長も本望でしょうと言うと、奥さんが物は言いようと噴出した。

おかげで今日一日で温泉に五回くらい入らせてもらったと笑いだした。




 戸川と岡部で温泉に入ると最上も入って来た。

最上も梨奈の体調を心配しており、戸川がまだ熱がひかないと言うと、大丈夫なのかと不安そうな顔をした。

戸川は困ったもんですと他人事のように言って岡部を見た。


 最上は戸川に、久々に愉しい休暇だったと、のんびりした口調で言った。

戸川はすっかり最上への警戒を解いており、休暇扱いなんですねと笑いだした。

お前たちは違うのかと最上が不貞腐れたような顔で戸川に尋ねる。

戸川は出張ですと言って笑い出した。


 森林の中にいるような湯を満喫し、三人の空気まで緩みきっている。

そんな場の空気とは、全く異なる事を最上は言い出した。


「戸川、まだ止級をやりたい気持ちはあるか?」


 戸川は、突然の問いかけに最上の顔をまじまじと見た。


「まだ、そこまでの実績が……」


「お前も経営者の端くれだったらわかるだろ。こういうのは先行投資の案件だ」


 どうやら冗談で言っているわけでは無いらしい。

そう感じた戸川は、かなり返答に慎重になっている。


「その、どうして突然に? これまでいくら言うても通らへんかったのに」


「今までならな。だが今は違う」


 最上は、ちらりと岡部を見て、再度戸川に視線を移した。


「私がみるに、これからお前の厩舎は劇的に変わるだろう。それが後押しできないのは経営者ではないだろうよ」


 戸川が押し黙ってしまい、温泉内の湯の流れる音だけが響いている。


「来年一年、様子を見させてください」


「それが、お前の経営判断なのか?」


 戸川は俯き、最上は睨んでいる。

最上は呆れた顔をし、やれやれという仕草をして岡部を見た。


「前線指揮官のお前がそう判断するのなら、後方司令の私が無理強いするわけにはいかんかもしれんな」


「……申し訳ありません」


「まあいい。いつでも実施できるようにしとくから早めに相談にこい」



 最上は顔を湯で流した。


「ときに戸川、今年の新竜はどうだ? もう調教始まったんだろ?」


「『セキラン』は、期待して良え思いますよ!」


 戸川は即答であった。


「ほう!! お前がそんな言い方をするのは、いつぶりだろうな」


「あれは予想以上ですわ。僕も、あない竜は見た事が無い」


「三浦の方は今年もパッとしない話ばかりだが、これは楽しみだな!」


 愉しい休暇だ、何年ぶりかと、最上は一番の笑顔を見せた。




 結局、翌日も梨奈の熱は少ししか下がらず、とても帰宅できる状態では無かった。


 最上夫妻が、戸川夫妻と一緒に朝食を取りたいと言い出し同席する事になった。

その席で最上は朝食をとったら帰ると告げた。

最上の妻も、久々に愉しい休暇だったからまた誘いたいと微笑むと、最上は、お前は仕事ばっかりだったじゃないかと笑った。

御自分の事を棚にあげてよくおっしゃると笑うと、最上は、敵わんなとバツの悪い顔をした。

これがこの夫婦の距離感だと思うと、戸川家とは違って、これはこれで羨ましいと感じた。




 岡部と戸川で最上夫妻の帰りを見送ると、戸川は宿の受付前の待合に岡部を座らせた。

戸川は待合横の喫茶所で珈琲を頼むと、岡部のところに戻ってきた。

それを見た岡部は、長い話になると感じ少し悪い予感を覚えた。


 椅子に腰かけた戸川は膝上で手を組み真顔で岡部をみると、問題が起ったと重い口を開いた。

届けられた珈琲を啜って話を続けた。


「『セキラン』が怪我したらしい。寝藁に釘が入ってて、それを踏んだそうや」


 岡部は口まで珈琲を持って行き、飲まずに机に置いた。


「怪我はどの程度なんですか?」


「消毒や軟膏で手当てした程度やって言うてたから、そこまで深くは無いとは思う」


 本当にその程度であれば一週間もすれば傷は塞がるだろう。

肉や筋さえ傷つけてなければ競争能力に影響もほとんどないであろう。


「次の調教は様子見ですかね。あの仔は走るのが大好きだからかわいそうですけど」


 岡部がそう言って珈琲を飲むと、戸川は俯いて黙っていた。

まだ何かあるんだと岡部は察した。


 戸川は細く息を吐くと、非常に言いづらそうな渋い顔をした。


「昨日の担当が木村やったらしい。で、夜の担当は大野やったそうや」


 岡部はまたも珈琲を飲む手を止めた。

あまりに衝撃的な話すぎて、すぐには戸川が言ったことの理解できなかった。

いや、すぐには理解できたが理解したくなかったというのが本音だろう。


「まさか……さすがにそんなこと……」


「抜けかけてた竜房の釘を『セキラン』が悪戯で抜いただけやと思いたいが……」


 二人は珈琲を啜り黙った。


「どうしたもんやろ……僕一人、先に帰って厩舎を確認すべきなんやろか……」


 戸川はボソッと呟くように言った。

元々今日帰る予定であり、明日から出勤する予定ではあった。

梨奈の体調不良の関係で予定が一日伸びてしまっているのだ。


「長井さんには何て言ってあるんですか?」


「時間を貰うとる。後でもう一度、連絡するいう事にした」


 戸川も、あまりの出来事に、とっさには指示が出せなかったらしい。


「池田さんは、長井さんに、どう報告したんでしょうね?」


「僕も気になって聞いたんやけど、黒やって感じの報告やったそうや」


 岡部はため息をつき目頭をつまんだ。



 暫く悩んだ後、うんと小さく呟いた。


「僕は池田さんに対応をさせてみてはどうかと思います。その方が池田さんの成長に繋がると思いますので」


「やりすぎたりはせんやろか?」


「あの二人なら迷ったら相談してくるでしょ」


 戸川は確かにと頷き珈琲を啜った。


「……もうあの三人は駄目かもしれへんな」


「そこはさすがに戸川さんのちゃんとした観察が必要だと思いますよ」


 戸川は頭を掻いた。


「風呂行って頭の血行でも良くするか」



 戸川は厩舎に連絡を入れ、娘が体調を悪くしてしまい帰るに帰れないから池田に対処を任せると指示した。

ただし連絡は小まめに。


 風呂に入ると戸川は、少し緊張が解けた感じを受けた。


「あああ、麦酒が呑みてえ!」


 岡部も僕もですねと頷いた。

戸川は完全に湯船でだらりとして天井を仰いでいる。


「実はな、君を厩務員から外そう思うてるんや」


 岡部は真意がわからず、黙って次の言葉を待った。


「ああ、全然悪い意味やないよ。調教しながら調教計画を一緒に立ててもらおう思ってね」


「今も『セキラン』の計画立ててますけど?」


「『セキラン』だけやのうて全部や」


 全ての竜の調教計画を立てる為には、全ての竜の特徴と状態を把握しないといけない。

そうなると、厩務員をしながらというのは少し厳しくなってしまうだろうという事だった。


「責任重大じゃないですか」


「そやから、君が足を引っ張られへんように、不穏分子は先に潰しておきたいんや」


 戸川は受けいれてもらえるだろうかと、岡部の顔を見た。


「人員が減っちゃいますね」


「実は既に一人採用が決まってるんや。君の替わりやのうて別所さんの替わりとしてな」


 だからそこは心配ないと、戸川は岡部を追いつめた。

岡部は今は解答すべきじゃないと保留にした。


「池田さんの待遇も考えないとですね」


「ああ、池田は主任にするつもりや。もちろん給料もそれなりに上げてな」



 それよりあの三人の事だなあと、戸川は憤った。


「この後どういう態度に出るかでしょうね……」


「そうやな。気づかなかったと謝罪するんやったら不問、自分のせいやないと居直ったり、他人のせいにするようやったら論外いうとこやな」


「自分のせいじゃないも論外なんですか?」


 岡部の問いかけに戸川は、そこに引っかかるようではまだまだだなと、ぼそりと呟いた。


「責任感の欠如する奴は、命を扱う仕事に就く者として問題があるいう事やね」


 戸川の説明に岡部は、そういう事ですかと納得した。



「池田さんがどんな裁量するか気になりますね」


 戸川は岡部の意図を理解したらしく低く笑い、君ならどうすると、悪戯っ子の顔を岡部に向けた。


「僕はそこまで聖人君主じゃないですから、『当人の本意』を尊重します」


 戸川は、怖っと怯えた格好をした。




 お昼は戸川夫妻と三人で羊鍋を食べ念願の生麦酒を注文。


「梨奈ちゃんには悪いけど、昼から麦酒は最高やな」


 乾杯するのも面倒と言わんばかりに戸川は生麦酒を口にする。

ぐびぐびと喉に流し込むと、ぷはあと息を吐き、幸せそうな顔をする。


「大はしゃぎして倒れる方が悪いんやわ」


 奥さんも同様に生麦酒をぐびぐびと呑み、顔を緩ませる。


 厨房から料理長が、よろしかったらこれもどうぞとつまみを運んできた。

羊の干し肉を薄切りで作り、叩いて伸ばしたらしく、前回より非常に柔らかくなっている。

よく見ると無数の小さな穴が空いている。

それをチーズで挿んだものを二つ合わせ楊枝で差し、黒胡椒をまぶしてある。


 岡部は一口食べると、前のやつより凄く食べやすく改良されてますねと感想を述べた。

これ何と奥さんは一口食べ、んんんと唸って麦酒をあおった。


 料理長が会長夫妻と岡部さんの発想でできた、この宿の新しい名物ですと説明した。

説明している先から、戸川と奥さんは干し肉のチーズ挟みに手を伸ばしまくっている。


「これ持って帰りたいから売ってくれへん?」


 戸川と奥さんは、干し肉、麦酒、干し肉という無限の循環に入ってしまっている。

その姿に、料理長は笑いが堪えきれなかった。


「商品化は、まだこれからですけど、岡部さんの考案ですからね、特別に真空詰めいたしますよ」


 料理長は、そう言って岡部の顔を見て目を細めた。

 

「真空詰めやと家まで持たへんのと違う?」


 そう言いながら奥さんは次々に口に運んで生麦酒を呑んでいる。


「母さんが遠慮してくれたら大丈夫なん違うか?」


 戸川も負けずに口に運んで麦酒を呑んでいる。

麦酒の追加お持ちしますねと、料理長は笑いながら奥に戻っていった。




 夕方、梨奈は少し熱が下がった。


 熱が下がると体も楽になったようで、羊鍋が食べたいやら、焼き蟹が食べたいやら、どこでも良いから観光に行きたいやら、気の向くままに欲望を口にしている。


 戸川たちは午後から梨奈を放置し外に繰り出し、観光を満喫した挙句、夕食として厚切り牛焼きに葡萄酒を呑んできている。


 帰ってきたら梨奈が起きていて冷たい眼差しを向けてきており、さすがに後ろめたさが抑えきれない。

奥さんは元気になって良かったねと頭を撫でたのだが、梨奈は一言、酒臭いと不貞腐れた。

そんな梨奈の態度に奥さんはさすがに苛ついてきたらしい。


「初日にはしゃぎ過ぎて体力が切れた人は誰なん?」


「誰かに風邪うつされたんやもん。不可抗力やもん」


 梨奈はそう言うのだが、奥さんだけじゃなく戸川も岡部も首を傾げた。


「その日に風邪が重症化するわけないやろ! 知恵熱出すとかどこの幼稚園児や」


 さすがに知恵熱は酷いと思ったが、ここで口を挟んでも怪我するだけだと思い岡部は黙っている。


「知恵熱ちゃうもん! 前の日、嬉しうて寝られへんかっただけやもん!」


「遠足前の小学生か!」


 奥さんの小気味いい指摘に、戸川が噴き出してしまい梨奈にギロリと睨まれた。


「こんなボンキュボンの小学生なんておらへんし」


「アホな事言うてないで屁こいて寝てなさい!」



 梨奈は泣きそうな顔をする。

だがどう見ても演技が臭い。


「せっかく来たのに、もっと観光したい……」


 奥さんは父さんに頼めと言って突き放した。


「父さん、もっと観光したい……」


 戸川は、熱出てる子を引き回せるわけないだろ、アホなことを言うなと窘めた。


「……なんか父さんも酒臭い」


 戸川は焦って口を手で塞いだ。


「ねえ、綱一郎さん、観光がしたい……」


「熱下がったらね」


 岡部は優しい顔で梨奈の頭を撫でた。


「……綱一郎さんも酒臭いんやけど」


「しこたま呑んだからね!」


 間抜けな事を真面目な顔で返答する岡部に、梨奈は思わず噴出しそうになった。


「私だけずっと寝てる……」


「こんな事になるんなら、戸川さんと二人で来るべきだったのかな?」


 その岡部の一言に梨奈が焦って、布団からがばっと起きた。


「ううん。ありがとうね。私、嬉しかったよ。また連れてきてね」


 梨奈は焦って岡部の手を取った。

岡部は梨奈の頭を撫で布団に寝かせた。


「僕は約束はできないけど、きっと戸川さんが竜をうんと勝たせて、また連れてきてくれるよ」


 変な事を言わないでくれと言って、戸川は滑稽なほど狼狽えた。

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