第26話 浜名湖
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・牧光長…岡部厩舎の調教師見習い
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は北国牧場の小平生産顧問
・跡部資太郎…白詰会の調教師(呂級)
・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
八月に入るとすぐに太宰府で定例会議が開かれた。
その場で岡部はこれからの予定を説明した。
八月の厩舎は、やらなければならない事が盛りだくさんである。
まず止級は『海王賞』が行われ『オンタン』が挑戦する事になっている。
それとは別に『センカイ』が能力戦二に出走する。
なお、『海王賞』の最終予選と決勝は幕府で行われる。
つまり単純に随員が必要になるという事である。
さらにこの時期、皇都では放牧に出ていた竜が続々と帰厩して来る事になっている。
昨年もこの時期は完全な人手不足で、岡部も過労で倒れるかという状況であった。
だが昨年の経験を踏まえ、今回は牧と成松の二人を用意している。
まず牧には月初に新発田を連れて岡部と一緒に皇都へ行き、秋の番組再開へ向けての調教を開始してもらう。
太宰府では成松に『センカイ』と『オンタン』の調教、最終調整、及び出走までを服部と共に行ってもらう。
三週目、もし『オンタン』が最終予選に残れたら、浜名湖に『オンタン』を輸送してもらい、岡部も浜名湖へと向かうという事にした。
ただ、明らかに厩務員の数は足らない。
まだ翌月も『センカイ』は出走の予定なので、太宰府組を皇都に引き抜くわけにもいかない。
そこで松井、杉の両厩舎と相談し、夜勤は両厩舎から人を借りることにして、赤井、十河、荻野、坂井は皇都へと戻ってもらう事にした。
この話を聞いた時、いったい去年はどうしたんだろうと松井は疑問を覚えた。
太宰府、皇都、浜名湖を移動しまくったと聞くと、ごくろうさまと言って顔を引きつらせた。
『海王賞』の出走登録をしようと、事務棟へ入ろうとしたところで松下に引き留められた。
その後ろから栗林が、良かった間に合ったと息を切らせやってきた。
「何があったんですか? そんなに慌てて」
栗林は完全に息が切れており、とにかくうちの厩舎へと言うのが精一杯だった。
さらに成松と服部が全力で追いかけて来て、合流すると同じく息を切らせた。
最後に伊東が追いついて、ひい、ふうと息を荒げ、その場にへたりこんだ。
一体何事なのかと岡部は一同を見回した。
その場の六人で息を整えながら栗林厩舎へと向かった。
事務室に入ると執務机の奥の壁には『水地に水紋、稲一本』の清流会の会旗が貼られていた。
一旦、奥の会議室に入ったのだが、空調の効きがあまりに悪く、これはダメだとなった。
そこで急遽六人で事務棟に行き、小会議室を借りる事にした。
人数分の冷えた珈琲を持ってきた財津が、先生もそれなりのお歳なんですから無理はダメですよと伊東に苦言を呈した。
珈琲を一口飲むと、無理したくてしたんじゃねえと伊東は面倒そうに答えた。
「単刀直入に言う。『海王賞』、鞍上を松下に替えてくれ」
「替えるのは、やぶさかじゃないんですが、理由を教えていただけませんか」
まだ若干息が切れている伊東に、岡部はたずねた。
あの脅迫状を見てからずっと、伊東はどうするのが最良かを武田信文や松永、大須賀忠陽たちと考え続けてきた。
恐らく誰かが傷つくのが彼らの目的だと武田から指摘され、絶対に家族や厩舎関係者に手を出させてはならないと釘を刺された。
どこか公の場で凶行犯を捕まえる必要がある。
ならどうするべきなのか、それを一月かけて練りに練ってきたのだそうだ。
最終的に、誰か岡部の横にいても不思議じゃない人物を護衛につけてはどうかという話になった。
今回、最終予選に残りそうな伊東、松永、大久保、池田、秋山は、どれも格闘技の心得が無い。
厩務員を当たってもらったが、残念ながらそういう人物はいなかった。
もちろん岡部も護身術の心得は無いし、厩舎内にもそういった人物はいない。
その中で挙がった名前が栗林だった。
栗林は学生時代ずっと合気道を習ってきており、西国の伊級調教師の中では荒事に強いと評判である。
他にもそういう調教師はいるのだが、残念ながら岡部との接点が無い。
では栗林に任せようという事に決まったのが、つい先ほどの事だった。
ただ悲しいかな栗林はそこまで止級の調教が巧いわけではなく、『海王賞』の最終予選に残せるまでもいかなかった。
そこで松下を騎乗させ、松下の付き添いという事で関係者席に入るのが良いのではないかという事になった。
栗林が岡部厩舎に電話をすると、成松が出て、つい今しがた登録をしに事務棟へ向かったと言われてしまった。
焦った栗林は、急いで岡部を止めろと成松に命令。
事務棟へ行って岡部を止めないと言うと、松下は全力で事務棟へ走った。
遅れて栗林と伊東も走った。
説明を聞き終えると岡部は、構わないかと服部に確認を取った。
事情が事情ですからと服部は納得した。
「ですが、来ますかね? わざわざ浜名湖に」
実は敵が動くのは年末の表彰式だと岡部は想定している。
だが岡部の疑問に、伊東は来ると断言した。
「皆の予想が浜名湖で一致したんや。『海王賞』の決勝のどっかやないかと」
「何故そこだと断言できるんです?」
「お前に調教師としての栄光を掴んで欲し無いからや。昇級がほぼ決まった今、新聞記事になりそうな栄光いうたら『海王賞』やろ」
なるほどと岡部は頷いた。
その場で騎手名を服部から松下に書き換え、岡部は受付に提出しに行った。
昨年、岡部が浅利へ進言した事で竜主会が検討してくれたようで、『海王賞』は今年から予選二まで太宰府で開催される事になった。
『オンタン』の予選一は、およそ『海王賞』の予選とは思えないほど余裕だった。
翌週の予選二も伊級調教師の竜三頭をもろともせず、最終予選へと駒を進めた。
皇都で調教計画を練っていた岡部は、食堂へ行き、大画面で結果を見つめ、小さく息を吐いた。
横で一緒に見ていた荒木と牧に、じゃあ死地に行ってきますと声をかけた。
荒木は少し間を空けて、くれぐれもお気を付けてと心配そうな顔で言った。
浜名湖に向かう高速鉄道の中で松下は心躍っていた。
「いやあ、浜名湖で乗れるやなんて。岡部先生と知己になっといて良かったで。それも国際競争やなんて」
悪かったな、浜名湖に縁が無くてと栗林が不貞腐れる。
先生のおかげで下に落ちずに伊級でやれて感謝してますと、松下は栗林の機嫌を取った。
松下の露骨なご機嫌取りに、栗林は少しだけ機嫌を直し、小さくため息をついた。
「俺も、せめて『海王賞』の出走資格くらい取りたいんやけどな。なかなかどうして……」
岡部の顔を見て栗林は渋い表情をする。
国際競争の『海王賞』は重賞の最終予選に出走しないと出走登録の資格すら貰えない。
栗林はまずそこで弾かれてしまっている。
強さが桁違いと松下が言うと、何がそんなに違うんだろうと栗林は哀しい顔をした。
そんな栗林に、理屈さえわかれば何とでもなりますよと岡部は笑った。
だが、ここの所色々と考える事が多く、少し疲れ気味のようでその笑顔は硬かった。
浜名湖競竜場に着くと、栗林は筆頭殿に挨拶してくると言って藤田厩舎へと向かった。
岡部と松下は、栗林と別れて三浦厩舎へと向かった。
松下を見ると、松下じゃないかと、三浦はかなり驚いた顔をした。
お久しぶりですと挨拶すると、三浦は、元気そうでなによりだと笑顔で松下の肩を叩いた。
「あの武田先生が引退とはな。俺も歳をとるわけだな」
お茶を啜りながら、三浦がしみじみと言った。
――武田信文と織田藤信は調教師の同期である。
武田たちが開業する四年前に競竜学校ができ、研修参加が義務付けられる事になった。
その年の同期は七人いたそうだが、二人以外にも一人が伊級に上がり、三人が呂級に上がり、一人は八級で病没した。
『華の三期』
武田たちはそう呼ばれて新聞の格好のネタとなった。
二人とも仁級、八級とまさに敵無しで呂級に駆け上がった。
呂級で初めて激突した二人は、昇級して二年はそこそこという感じだったが、三年目に猛威を振るった。
新竜重賞以外の重賞を二人で総なめにした。
僅差で武田が首位、織田が二位で伊級に昇級。
そんな『華の三期』と何かと比較されたのが、三浦勝義の六期だった。
研修時代から何かと派手だった武田たちに憧れて調教師を目指した人が多く、十六人と人数だけは多かった。
三浦も、武田、織田に憧れて調教師を目指した一人だった。
三人が開業二年で八級に昇級した三期の噂を、まるで英雄譚のように何度も耳にして研修を受けた。
だが現実は非常に厳しく、武田たちが伊級に昇級した年、三浦たちが開業から五年が経った年、六期は三浦ともう一人が八級にいるだけで、残りの十四人は仁級で鳴かず飛ばずだった。
三浦が呂級に上がった時には、九人が廃業しているという惨憺たる状態だった。
『暗黒の六期』
三浦たちは新聞に、そうなじられた――
「織田さんも、今年一杯じゃないかという噂があるよ」
三浦が寂しそうに呟いた。
「西郷が呂級に来るまでやるんでしょ。その前に辞めたら、櫛橋さんと西郷に何言われるかわかりませんよ」
「どいつもこいつも、うちの会は老人を労わるという事を知らん」
三浦は嬉しそうに岡部を指差して微笑んだ。
三週目、最終予選に出走した『サケオンタン』は、松平の『タケノホリウチ』、大須賀忠陽の『ジョウサンケイ』たちと二つの席を争う事になった。
既に残っているのは伊級調教師の竜のみで、呂級の竜は岡部の『オンタン』のみ。
『オンタン』は三番人気と、人気では松平、大久保の竜の下に甘んじた。
だが、『オンタン』は最終予選でもその強さを発揮し一着で終着。
残りのもう一つは、松平の『タケノホリウチ』が奪取した。
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