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【完結】競竜師  作者: 敷知遠江守
第一章 師弟 ~厩務員編~
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第33話 牧場

登場人物

・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員

・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)

・戸川直美…専業主婦

・戸川梨奈…戸川家長女

・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」

・長井光利…戸川厩舎の調教助手

・坂崎…戸川厩舎の厩務員

・池田…戸川厩舎の厩務員

・荒木…戸川厩舎の厩務員

・木村…戸川厩舎の厩務員

・大野…戸川厩舎の厩務員

・垣屋…戸川厩舎の厩務員

・牧…戸川厩舎の厩務員

・花房…戸川厩舎の厩務員

・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手

・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員

・吉川…尼子会の調教師(呂級)

・南条…赤根会の調教師(呂級)

・相良…山桜会の調教師(呂級)

・津野…相良厩舎の調教助手

・日野…研修担当

 目が覚めると戸川がいなかった。


 朝食の前に一風呂浴びようと大浴場に行くと、湯船の中に顔を真っ赤にし、のぼせそうな戸川の姿があった。

朝の挨拶をすると手前の人物が振り返った。


「おお、おはよう! 君も朝が早いんだな」


 そう言って最上が早く入って来いと手招きした。

岡部が、そろそろ厩舎から定時連絡がありますよと言うと、戸川は、忘れていたと逃げるように湯から出て行った。

どれだけ入っていたのか知らないが、戸川は全身真っ赤だった。


「朝食をとったら、さっそく牧場に向かうぞ。牧場から送迎車を呼んであるからな」


 最上は岡部を見て楽しそうな顔をした。


「牧場って呂級の生産だけなんですか?」


 岡部は体を洗い終え、湯舟に向かいながら最上に尋ねた。


「八級も扱っておるよ。ついでだから見せてもらうと良い。仁級は南国でやってるから残念ながら今回は見れないがね」


 岡部がそれは楽しみだと言うと、最上は満足そうに、にんまりと口角を上げた。


「伊級や止級は生産しないんですか?」


 それを聞いた最上は顔を湯で流し、少しため息をついた。


「戸川が、あのまま伊級に上がってくれてたら続けたんだがなあ……」


「って事は辞めちゃったんですか……」


「うむ。昔、斯波(しば)先生という伊級調教師がうちにおってな。私が会長になったばかりの頃の話だ。その頃はうちも伊級を生産しておったんだよ」


 伊級は育成期間が長いため、竜の取引価格が総じて高額である。

だから買うよりは生産した方が圧倒的に安上がりではある。

だが、伊級の調教師がいないのに生産を続けても情報の戻りが無く、独りよがりの生産になりがちである。

売れ残ってしまったら長い育成期間にかかった費用が無駄になってしまう。

そんな理由から最上は生産中止を決断したのだそうだ。


「止級はどうなんですか?」


 最上は流れる汗を湯で洗い流し、再度大きく息を吐いた。


「これまでの戸川厩舎を見るに、止級が扱えるとはとても思えんのだよ。もちろん期待はしたいのだがな」


 最上は岡部の顔を一瞥した。


「君は戸川厩舎の厩務員たちをどう思う?」


 同僚の話である。

正直言って非常に言いづらいものがある。


「どうと言われても、竜に対して真摯だなというくらいしか……」


 最上は、思っていても言えない事というものがあるよなと笑った。


「私はね、彼ら全員と会って思った。まず覇気がない。自分の仕事にすら興味が無い。おまけに揃いも揃って感性が鈍い」


 見事な指摘だと言って岡部は思わず噴出した。


「こう見えても私は、経営者として、人を見る目だけは磨き続けてきたつもりだよ」


 そう言うと最上は風呂中に響く声で高笑いした。

顔を湯で洗うと鋭い目つきで岡部を見た。


「その点君は違う。競竜全般に興味を示すし、何より昨日の夜もそうだったが、直感に正直でそれを着想にできる。戸川もまだ見捨てたものじゃないと感心したよ」


「僕は人間ができてないので、そう褒められると天狗になってしまいますよ」


 岡部は最上から顔を反らし照れて頭を掻いた。


「そういう変に謙虚なところも私は気に入っているよ」


 興奮のためか、長湯のためか、最上の顔が少し紅潮してきている。


「お腹が空いたので、そろそろあがりましょうか」


 岡部がそう言って風呂を出ると、最上も、うむと一言風呂を上がった。




 部屋に戻ると戸川が布団に大の字で寝ていた。

よく見ると、まだ皮膚がほんのりと赤みを帯びている。


「さっきはありがとうな。ほんま助かったで。いや酷い目に遭うた」


 どうやら最上が風呂に来たのは、戸川がいい加減風呂に入って出ようとした時だったらしい。

そこから最上は、あれはどうだ、これはどうだと聞いてきて、出るに出られず、完全にのぼせてしまったのだそうだ。



 戸川が体調を戻したところで、朝食を食べに大広間に向かった。

既に奥さんと梨奈が浴衣姿のまま朝食を食べていた。


「長風呂で水分が奪われてもうたから麦酒を呑んだろうかな」


 席に向かう途中で、戸川が冗談とも本気とも取れる微妙な事を言い出した。


「そんな事して、送迎車で吐いたら永遠に言われますよ?」


「顔を見るたびに禁酒とか言うてきそうやな」


 二人で笑い合いながら席に着いた。



 朝食を食べていると、最上夫妻が現れた。

最上の妻は浴衣から和装に着替えている。

何ともきっちりとした方だと岡部は感心した。


「昨晩はありがとうございました。おかげでこの宿に人を集められそうなものができましたよ。今度、別の宿にも招待したいから仕事が空く頃に連絡してちょうだい」


 そう言って最上の妻は微笑んだ。

最上は、これの誘いを断ると後が怖いぞと笑って自分の席に向かっていった。

先ほど風呂でも気になったが、最上の腕には真新しい引っ掻き傷がついている。

昨日の夜にはあんな傷無かった気がするが、どこで怪我をしたのだろう?



 岡部たちが席に付くと、奥さんが入れ違いで席を立った。

どうやらとっくに食べ終わって、梨奈が食べ終わるのをずっと待っていたらしい。


 先に部屋に行くねと席を立つと、梨奈も、か細い声で私もと席を立った。

岡部の隣に座っていた梨奈は、立ち上がると力なくふらつき、岡部の方に倒れた。

急な事だったので、岡部は支えに失敗し抱き着く形になった。

牛乳のようなほのかに甘い香りが岡部の鼻腔を襲う。

抱き抱えると浴衣越しでも梨奈の体温が高い事に気が付いた。

再度梨奈を椅子に座らせ額を触ると、かなりの発熱を感じる。


「凄い熱です!」


 戸川は、受付で体温計を借りに行ってくるから梨奈を部屋に連れて行ってくれと慌てて席を立った。

岡部は梨奈を背負うと奥さんと部屋に向かった。

背中で梨奈が泣きながら、いつになくか細い声で、ごめんねと言い続けている。



 梨奈を布団に寝かせると、岡部は頭を優しく撫でた。

梨奈は岡部の手を握ろうとして力無くへこたれた。

奥さんは岡部の反対側で梨奈の手を握り、あなたは未だにこれなのねと心配そうな顔をしている。


 戸川が最上夫妻と共に部屋にやって来た。

測ってみると梨奈は三八度台の熱が出ている。

平日はこういう部屋は利用頻度が少ないから落ち着くまで泊まっていってと、最上の妻は言ってくれた。

最上は、男三人で牧場に行くから医者に連れて行ってさしあげろと妻に言うと、戸川と岡部に、準備をしろと命じた。



 送迎車を待たせるわけにいかないという事で、朝食は社内でおにぎりを齧る事になった。

牧場への送迎車で最上は、梨奈を非常に心配していた。


「あの娘は幼い頃から変ってないな。戸川」


 最上が後ろを振り返って、戸川を見て目を細めた。

どうやら頬にご飯粒がついているらしく、最上は自分の頬を無言で指で指した。


「梨奈の事、覚えてはるんですか?」


 戸川は頬についたご飯粒を口に運んで何事も無かったように尋ねた。


「思い出したよ。幕府で宿取ってやって同じような事が幾度かあったなってな」


「昔から体の弱い娘なんで、幕府行くと必ずああで。いつも背負って帰りました。大人になって多少は思うたら……」


 ポリッとたくあんを齧ると、戸川は小さくため息をついた。


「そうだったなあ。だが手がかかる娘ほど可愛いというからな。あの娘が嫁に行くときは大騒ぎだろうな」


 最上は高笑いした。

戸川も笑ってはいるが顔は完全に引きつっている。




 高速道路『海岸線』を南に走り、白糠で降り、少し東に向かったところに紅花会の牧場はあった。

目の前は広大な海、背を向けると雄大な山、さらに川と、まさに大自然を凝縮した景色が広がっている。


 山の麓にいくつかの建屋があり、そこから何人かの従業員が出迎えにやってきた。

挨拶をしたのは、牧場長の氏家(うじいえ)直之(なおゆき)という人物。

作業着を着、長靴を履き、帽子をかぶったその姿は、どこからみても、その辺の普通の農家のおじさんである。


 氏家は岡部に名刺を差し出すと、君が岡部さん、話は聞いていますよと笑顔を向けた。

氏家は、北楯(きただて)という部長に、岡部を案内するように指示した。

ところが最上が、久々に施設を見てまわろうと思うから私も付き添うと言いだした。

そうなると戸川と氏家も付いていかないわけにいかず、かなり大所帯で牧場を周る事になってしまった。



 競竜は、種付けして産卵したとしても、受精卵として生まれてくるとは限らないらしい。

しかも卵が(かえ)る可能性もそこまで高くないらしい。

初卵後から種付けを始めても、生涯に平均して六頭くらい産まれれば良い方なのだとか。

もちろん多産の子もいれば早世する子もいる。

受精卵の確率と孵化の確率をふまえると、それくらいになるのだそうだ。


 紅花会の呂級の調教師は、戸川の他に東国に三浦(みうら)勝義(かつよし)という調教師がいる。

二つの厩舎に毎年一頭から三頭の新竜を提供する為に、肌竜を十五頭前後確保しているのだとか。


「三浦は戸川より成績がな。あれはもう歳だから、そろそろ引退かもな」


 最上は戸川を見て寂しそうな顔をした。



 岡部は肌竜を一頭一頭見て周った。


「『セキラン』の母はどれになるんですか?」


 岡部は肌竜の一頭の首筋を撫でながら北楯に尋ねた。


「『サケバショウ』という竜だったんだけどね、初仔が『セキラン』で、二頭目を出す前に残念ながら病気で亡くなってしまってね……」


 北楯は非常に残念そうな顔を向けた。


「この『オウトウ』が『バショウ』の妹なんだけど、どうかな?」


 そう言って北楯は栗毛の牝竜を紹介した。


「よくはわかりませんけど、『セキラン』とはあまり似ていない気がしますね」


「『バショウ』とは父竜が違うから、そう見えるのかもね」



 一通り肌竜を見た後で、孵化室(ふかしつ)を見に行った。

完全防音室になっている産卵小屋の隣に、かなりこじんまりとした孵化室があった。

内部は外の気温からすると少し涼しめだが、かなり湿度が高い。

母竜の体温に極力近い環境を疑似的に作り出しているのだそうだ。

だから暑い外の気温からすると、少し涼しめに感じるのだとか。



 孵化室を出ると今度は幼竜を見に行く事になった。

そこで最上は、岡部と戸川で一つ遊びをしようと言い始めた。


「岡部君。今年、四歳の竜が三頭いる。そのうちの君が望む竜を戸川厩舎に預けよう」


 戸川は岡部を見ると、責任重大だなと、まるで他人事のように言った。

岡部は戸川に良いんですかと尋ねると、戸川は問題ないと笑った。


 北楯は一頭づつ説明していく。

一頭目は『サケケンコウ』の牡で、父は『タルサ』系の『エイユウホウガン』。

戸川が、『ケンコウ』は『ショウリ』の母だと補足してくれた。

二頭目は『サケリンゴ』の牝で、父は『ナイトシェード』系の『ニヒキカンショ』。

戸川は、『リンゴ』の系統は、うちでは今までみた事がないと言った。

三頭目は『サケシロカキ』の牡で、父は同じく『ニヒキカンショ』。

戸川は、『シロカキ』は昔うちで扱ってた竜でその初仔だと補足した。


 岡部は、三頭をじっくり触っては首をさすって品定めをした。

どうかなと最上が回答を迫ってきた。


「『シロカキ』の牡が良いと思います」


 そう言うと岡部は可愛い栗毛の竜の首筋を撫でた。


「理由も聞かせてくれるかな?」


「三頭とも良い竜なのですが、一長一短がある感じです。中では、この『シロカキ』の仔が、胴も脚も長く、骨太で、これなら最初から長距離一本に絞って行けそうだからですね」


 という事だそうだと最上がにやりと笑って氏家に言った。

若干氏家は納得がいかないという顔をしている。

氏家は『リンゴ』の仔が肉付きが良さそうに思わないかと岡部に尋ねた。


「この仔が牡竜なら、そうなんですけどね、牝ですからねえ」


 すると今度は北楯が、『ケンコウ』の仔は均等の取れた良い体つきをしていると思うと、岡部に言った。


「純粋に速さだけを見たらこの仔でしょうね。ただ、体がちょっと堅そうで距離の選択に苦心しそうですね」


 最上は戸川にも意見を求めた。

戸川もパッと見で『ケンコウ』の仔か『シロカキ』の仔かなと思ったと述べた。


「そやけど、君の見立ては迷うことなく『シロカキ』の仔なんやな」


「こっちの方が断然扱いやすそうですよ」


 戸川はうんうんと頷いた。

最上は、約束だから『シロカキ』の仔を、来年戸川に預けることにすると高笑いした。



 その後、少し遅い昼食になった。

さきほどまで案内してくれた北楯は自分の仕事に戻り、氏家の妻あすかを交えて五人での昼食となった。

あすかは最上の次女なのだそうだ。


 食事をとりながら、氏家が開口一番、話題を提供した。


「岡部さん、少し相談なんだが、うちに来る気はないかい?」


 戸川の食事の手がピタリと止まった。

それはさすがに戸川がうんと言わないと、最上は笑い出した。


「さきほどの相竜眼、できれば、うちの生産や育成で生かして欲しいんだけどね」


 岡部は、そんな無理ですよと照れた。

最上は、無理を言うもんじゃないと言いながらも、げらげら笑っている。

あすかが、岡部さんが困ってるじゃないと、夫を窘める。

だが氏家は引かない。


「そうだ! うちには、百合(ゆり)という君より少し下の娘がいてね、それを嫁にして次期牧場長になるというのはどうだい?」


 良い竜を作って戸川先生を喜ばしたら良いと氏家は言った。

またそんな勝手にと、あすかはさらに夫を窘めたが、氏家は、彼が来てくれるなら百合を説得すると言い出した。


「つまり岡部君が私の孫婿になるのか。それは……悪くない話かもなあ」


 最上までそう言って笑いだした。

これ以上は洒落にならないと思った岡部は、残念ですけど今やりたい事があると、きっぱり断った。




 昼食後、八級の厩舎を一通り見て、帰りの送迎車に乗り込んだ。

氏家は最後まで、俺は諦めん、ずっと待ってるからと岡部に粉をかけ続けた。


 昼食以降、ずっと黙っていた戸川が岡部に口を開いた。


「綱一郎君、その、さっきの話なんやけどね」


 岡部は、言いづらそうにする戸川を安心させようと笑顔を向けた。


「やだなあ。牧場の話は、きっぱり断りましたよ。聞いてたでしょ?」


「そうやないねん。その……君のね、やりたい事って……」


「戸川厩舎の皆で重賞をもぎ取る事ですよ」


 戸川の顔が急に明るくなった。


「こんな目前の魅力的な目標ありますか?」


「そうか! そうやな!!」


 それを聞いていた最上は、それが達成できたら次はどうするんだと、やや意地の悪そうな顔をした。


「その時はもっと大きな目標に掲げ替えるだけの話ですよ」


 岡部は良い笑顔で笑った。

最上は、その意気や良しだと高笑いした。

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