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【完結】競竜師  作者: 敷知遠江守
第六章 出藍 ~呂級調教師編(後編)~
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第25話 巨星

登場人物

・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)

・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女

・岡部菜奈…岡部家長女

・戸川直美…梨奈の母

・戸川為安…梨奈の父(故人)

・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」

・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将

・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫

・大崎…義悦の筆頭秘書

・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長

・加賀美…武田善信の筆頭秘書

・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長

・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定

・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ

・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和

・大宝寺…三宅島興産社長

・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆

・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)

・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)

・松井宗一…紅花会の調教師(呂級)

・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)

・服部正男…岡部厩舎の専属騎手

・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手

・荒木…岡部厩舎の主任厩務員

・牧光長…岡部厩舎の調教師見習い

・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手

・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員

・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員

・坂井政則…岡部厩舎の厩務員

・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員

・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員

・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は北国牧場の小平生産顧問

・跡部資太郎…白詰会の調教師(呂級)

・香坂郁昌…大須賀(吉)の契約騎手

・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)

・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手

 七月の三週目、『サケセンカイ』が能力戦一に出走した。

 新竜戦を圧勝した『センカイ』は、ここもまだまだ余裕といった感じで、終始他竜を圧倒し一着で終着。

楽勝、まさにそんな感じの競走内容だった。



 いつものように調教台へと向かった岡部は、毎日暑いですねなどと周囲の調教師と話していた。

蝉が四方八方から、けたたましい音楽を奏でている。

今年の暑さはちょっと異常だよ、思わず調教場に飛び込んで行きたくなると、松永は流れる汗を拭って笑い出した。

涼しそうに竜に乗ってる騎手が素直に羨ましいと、伊東も悔しそうに言った。


 そこに秋山と武田信文が現れた。

秋山も暑いですねと周囲に言いながら双眼鏡で調教を覗いている。

暑いから食堂に冷たい珈琲でも飲みにいくかと松永が言うと、岡部ところの珈琲は旨いのだが冷えて無いのが玉に瑕と伊東が笑った。


 岡部、伊東、松永で調教台から帰ろうとすると、入れ違いに池田と大須賀忠陽(ただあき)が現れた。

池田も大須賀も、まるでそういう挨拶かのように、暑いと言ってぐったりした顔をしている。


 その時だった。

 後ろから、どたっという音がした。


 池田と大須賀が、信じられないものを見たような顔をしている。

 岡部たちが一斉に後ろを振り返ると、武田信文が地に伏せてしまっていたのだった。


 耳元で秋山が大声で「先生!」と何度も叫んでいるが反応が無い。

岡部はすぐに近くの内線電話で守衛に連絡し、救急車を要請。

武田の容体を確認すると、伊東は秋山と岡部を一番近い厩舎へ走らせ、布、水、傘、あれば氷も持ってくるようにと命じた。

その間、伊東は武田を仰向けに寝かせ、松永、池田、大須賀に影になるように立つように命じ、武田の衣服を緩め通気をさせた。


 岡部と秋山が戻ると、伊東は布を丸めて水に浸し、額、脇の下、首の後ろに当てた。

傘で影を作り、布を水で濡らして皆で仰いだ。

松永から会に連絡するように指示され、秋山は近くの厩舎に走り、甲府の本社に連絡を入れた。


「単なる熱中症やと、ええんやけども……」


 かなり心配そうな顔をして、伊東が武田の脈を取りつづける。

武田は過去に一度脳梗塞で倒れているらしく、もし再発したのならかなり危険だと池田と大須賀が言い合う。

温くなった水を替えに岡部は近くの厩舎へと走った。


 岡部が観察台に戻ると、何人か調教師が増えており武田を必死に仰いでいた。

氷水の入った桶を差し出すと、周囲の調教師は一斉に布を氷水で冷やして、ある者は仰ぎ、ある者は冷やし布を冷やした。


 未だに意識は無いらしく、伊東が悲痛な顔で脈を見続けている。

 冷やし布をさらに冷やそうとする者に、伊東は、高齢だから冷やし過ぎも良く無いと止めさせた。


 徐々に観察台の周囲に人だかりができ始めている。

急に風が弱くなり、池田は周囲を見渡した。


「ド阿呆! 風をさえぎんなや、ボケが!」


 苛ついた池田が野次馬に怒鳴りつけた。

 調教の観察が終わった奴はさっさと帰れと松永も大声で叫ぶ。

武田信文を布で仰いでいた松井は、激怒している松永を宥めて、一緒に野次馬の整理を行った。


 布で仰いでいる者は、皆、汗だくだった。


 しばらくすると救急車が到着。

救急隊員は、かなり適切な処置がされている事に驚いた。

伊東から高齢だから慎重に頼むと言われ、救急隊は慎重に武田を救急車へ乗せた。

遅れてやってきた武田信英が連絡係として乗り込んだ。

病院がわかり次第事務棟に連絡してくれと伊東は武田信英に頼んだ。



 救急車が厩舎棟を出て、しばらくして黒田事務長が到着。

岡部と秋山が事務棟で電話番をしており、冷房の効いていない事務棟の接客机を無言で囲んで座っている。

黒田は二人からある程度の経緯を聴くと、伊東のいる食堂へと向かった。


 皆、汗だくで食堂で冷えた珈琲を飲んで無言でぐったりしていた。

ご苦労様でしたと黒田が声をかけると、伊東は一仕事終えたというような表情をしていた。


「おう、黒田。ここ、お前のおごりで珈琲振る舞っといたわ」


 周囲はどっと沸いたが、一人黒田だけが顔を引きつらせている。


「け、経費で落ちますかね?」


「お前の呑み代一回分くらいやろ。せこい事を言うなや」


 周囲はまたどっと沸いた。

そこに岡部が駆けつけてきた。

武田先生が病院に着いたと連絡があったと報告した。

病院名を聞くと、黒田は逃げるように病院へと向かって行った。


 結局この日、武田信文は目を覚ます事は無く、目を覚ましたのは翌日の昼だった。



 週末に競争が行われ、その翌日、秋山が岡部厩舎を訪れた。

少し陰りのある顔で秋山は、武田先生からの依頼でお前を迎えに来たと述べた。


「そんなに状態が悪いんですか?」


 病院へ向かう車の中で、岡部は真剣な表情で秋山に問いかけた。

秋山は、しばらく真剣な表情で口を閉じていた。

そして重々しく言葉を紡いだ。


「……嫌になるほど元気や」


 岡部は思わず鼻で笑ってしまった。


「何でも、お前との約束を果たさなあかんのやって」



 病室に入ると、武田信文は体に色々な計器を付けて副調教師と話をしていた。


「おう! よう来た。よう来た」


 そう言って武田は元気そうな笑顔を浮かべ、岡部と秋山を招きよせた。

丸椅子に腰かけ岡部が、お元気そうでなによりと言うと、心配かけたなと微笑んだ。


「以前お前に戦い方を教えたるって約束したんを急に思い出したんや」


「来年、伊級に上がりますので、その時にみっちり教えていただければ」


「すまんな。今年一杯で引退する事にしたんや」


 武田のその言葉に、岡部は唇を噛み目を伏せた。

秋山も小さくため息をついた。


「脳梗塞なんや。もう二度目でな。今回は命拾いしたんやが、次は終いやろ。その時にバタバタされるんも忍びないんでな。その前に身ぃ引く事にしたんや」


「……残念です。その前に伊級に行きたかったのですが」


「なあに、俺はほっとしとるよ。お前の竜にコテンパンにされる前に逃げきれてな」


 かっかっかと笑うと武田は少し咳込んだ。


 少し体調が落ち着くと、また変なのに付きまとわれてるんだってなと、武田は気の毒そうな顔をした。


「絶対に腰を引くな、目を反らすな、悪い芽は小さいうちに摘め、味方を増やせ」


 矢継ぎ早に武田は言った。

一呼吸置くと「やる時は徹底的にやれ」と追加して岡部の顔を指差した。


「相手の被害なんぞを変に気にして、慈悲の心なんぞを見せるからこういう事になるんや。やると決めたらとことん、徹頭徹尾、鬼に徹しろ」


 武田がまた少し咳込む。

秋山が近寄ろうとすると、武田は大丈夫だと言ってそれを制した。


 封書による脅迫という手段から私怨だと思っているだろうが恐らく違う。

相手は以前のような商売を行うために、組織の立て直しをはかっている。

そのために自分たちはまだやれるという事を見せたい、だからお前に付きまとってるんだ。

そう武田は断言した。

何で今さらと思っただろうが、そうじゃない、準備に今までかかったんだ。

標的は誰でも良いと思ってるし、刺客がどうなろうと構わないとも思っている。

お前の周囲の人が害される事こそが目的なんだと武田は言い放った。


 周囲の者が害されたら、お前にまた手紙が来る。


「『次はお前の番だ』ですか?」


「いや、『お前が調教師を辞めるまで惨劇は続く』やろうな」


 卑劣なとそれを聞いた秋山が呟く。


 正確に言えば、かつて新聞が煽ったように、お前が脅しに屈して調教師を辞めることが目的なんだと武田は言った。

脅しに屈したらお前は一人だ。組織の助力が無くなりお前は裁判に負ける。

そうなれば新聞は誹謗中傷が再開でき、隣国からまた工作資金も貰え、以前のような商売がやれると言うわけだ。

そう言って武田はにやりと笑った。



 帰り際、武田は秋山の手を取って、雷雲会を頼むと優しい目で言った。


「お前は俺の最高傑作や。十市よりも上やと俺は自信を持って言える」


 そう言った武田の眼光は非常に鋭く、まさに勝負師のそれであった。


 秋山は黙っていた。

実は会の中では、次期筆頭は信文の三男の信邦か、松平という声が多数を占めている。

当然その事は武田も知っての発言である。


「心配せんで良え。この俺がお前が良え言うとるんや。誰もお前に文句は言わさへんよ」


 思わず秋山の頬を涙が伝う。

秋山の後ろの岡部を見て、秋山と仲良くしてやってくれと、まるで我が子の友人にでも言うように武田は言った。

岡部は静かに首を縦に動かした。


「岡部。お前の影響力は大したもんや。お前が動くと競竜の歴史が動く。そないな調教師、これまで一人も会うた事が無い」


 お前もこいつに食らい付いて行くんだぞと武田は秋山に言い含めた。


「引退したらな、藤の大きな椅子を日向に置くんや。毎日そこに座ってな、新聞片手に競竜の中継を観んねん。贅沢な夢やろう」


「実に贅沢ですね。いつか世界に挑戦できるようになってみせます。ぜひ、その様子を藤の椅子で観てください」


「ほお、そいつは楽しみやな。なるべくはよ頼むな」


 かっかっかと武田は笑った。



 七月の末、『玉波賞』決勝の翌日、雷雲会本社から、武田信文調教師の年内一杯での引退が公表された。

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