第8話 相談
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・牧光長…岡部厩舎の調教師見習い
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は北国牧場の小平生産顧問
・跡部資太郎…白詰会の調教師(呂級)
・香坂郁昌…跡部厩舎の専属騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
翌日、『金杯』優勝の祝賀会が皇都の大宿で開催された。
本社から会長と小野寺部長が、北国からは氏家夫妻が駆けつけた。
岡部厩舎としては祝賀会でもあり豪勢な新年会でもあった。
来年大暴れしてやると言っていたが、まさか一月からいきなり重賞制覇とはと、氏家が麦酒を片手に高笑いをする。
「来月は『テンポウ』『ソウベン』『ダイトウ』の三頭で行きます。来月もそこそこやれるんじゃないかって思ってますよ」
その一言で、会場から一斉に「おお!」という歓声があがる。
「来月は確か杉厩舎も二頭出すって聞いてますね。あちらもかなり期待してるそうですよ」
「仮に全部残ったら、報道が大騒ぎですね」
「西国の決勝進出枠九頭中五頭は、さすがに他会派の会長の恨みを買っちゃいますよ」
違いないと言って小野寺と氏家が笑い合った。
そうは言ったものの、義悦も嬉しそうに高笑いした。
「そういえば、先日、例の件で一栗と里見が説明に来ましたよ」
「どうですか? 元止級研究所社長として」
「私としては、高速船には非常に産みの苦しみがありましたので、できれば、それ以上のものにはなって欲しく無いというのが本音ですね」
あまりに正直な本音に岡部は噴き出してしまった。
「実は用途が違うんですよ、高速船とは。あれ、国内用じゃないんですよ」
「海外輸出用って事ですか?」
「海外輸送用って事です」
つまりそれは暗に海外遠征を見据えているという事である。
パルサのジーベックステークス、デカンのナーガステークス、国際三冠を視野に入れての開発という事になる。
会場がにわかにざわつき始めた。
「止級は海外も海辺に競竜場があると聞きましたので、であれば空港より海に直接降ろす方が竜には優しいかなと」
「確かにデカンのコルカタ、チェンナイ、パルサのドバイ、マナーマ、全て海岸に面した競竜場ですね」
問題は瑞穂からデカン、パルサまで無補給で飛んで行けるかどうか。
空は海のように水の入れ替えができないので、そこをどうするかが最大の障壁となっていくだろう。
さすがに義悦は高速輸送船の開発をしていただけあり、すぐに問題点を口にした。
「決して簡単な開発ではないと思いますよ」
「会としてどこまで金を付けようか、かなり悩んでいまして、先日の会議も喧々諤々でしたよ」
「じゃあ人を紹介しますので、その方に色々相談してみてくださいよ」
そう言うと岡部は名刺入れを取り出し、竜主会の浅利の名刺を義悦に渡した。
「その方、竜主会の止級の責任者です。雷雲会の鉄砲玉ですけどね」
例の久留米での一件でお世話になった人だと岡部は説明した。
「ですけど、この方に相談するとなると極秘開発というわけにはいかなくなってしまいますね」
「その人に極秘に話があると言って、これは紅花会でもごく一部と、あなたしか知らない事だから、他言無用と言っておけば大丈夫でしょ」
「なるほど。洩れたらこの方のせいと」
相変わらずそういう事を考えさせたら天才的だと氏家が笑い出した。
「天才的じゃなく、天才なんですよ。こういう知恵で、うちの会派がどれだけこれまで助けられてきた事か」
違いないと言って小野寺が大笑いしたが、岡部は憮然としていた。
翌日、松井一家が岡部宅を訪れた。
元々は岡部が一人で松井宅を訪れる予定だったのだが、まず最初に梨奈が付いていくと言いだした。
さらに菜奈も行きたいと駄々をこねた。
松井に行っても良いか聞くと、うちはそんなに広くないと怒られ、松井一家が岡部宅に来る事になった。
松井が手土産にお菓子と酒を持ってきて梨奈に差し出した。
菜奈を見た小夜は菜奈ちゃんだと言って、しゃがんで自分の方に呼び寄せる。
ところが菜奈は人見知りなところがあり、指を咥えて岡部の後に隠れてしまった。
私のこと忘れちゃったのかなと小夜が不安そうな顔をすると、遊んでればすぐに思い出すよと麻紀が微笑んだ。
「もっと広い家借りなよ。それなりにお金あるでしょ。ここまで上がって来たんだから」
「良いんだよ、家は狭い方が。家族の顔がよく見えて」
そう言い合って岡部と松井は客間に入って行った。
「そうは言ってもさ、小夜ちゃんに自分の部屋が欲しいって言われたりしないの?」
「言うよ。言うけど、麻夜が小さいから目が届かなくなると困るって言ってある」
二人は娘たちの姿をじっと見つめた。
麻夜と菜奈が一緒に遊んでおり、それを小夜と麻紀と梨奈が監視している。
現在小夜は小四で妹の麻夜とは六歳離れている。
お姉さんというより育児係のようである。
「うちも、菜奈はちょっと目を離すと危ない事してるもんなあ」
そう愚痴った岡部に、そうやって危ない事を経験で覚えようとしてるんだと麻紀が教えてくれた。
だからこの時期が一番大怪我しやすいんだと説明すると、梨奈がそうなんですねと相槌を打った。
ゆうげの時間になった。
聞けば、松井は岡部宅の近くに部屋を借りたらしい。
言ってくれれば引っ越しの手伝いに行ったのにと言うと、両親と弟が引っ越しの手伝いに来てくれたからと麻紀は笑顔を見せた。
今日は歩いてきたから酒が呑めると松井夫妻は嬉しそうにした。
梨奈がてっちり鍋の用意をしたものを岡部が持ってきた。
義悦が送ってくれた出羽の大吟醸をお銚子に入れて直美がやってきた。
みんなで手を合わせて、いただきますと言うと、梨奈と麻紀が取り皿に取り分けた。
お銚子を傾けて岡部が松井のお猪口に注ぐ。
松井も岡部に米酒を注ぐ。
麻紀は一升瓶のまま小升で呑んでいる。
「昨年末、樹氷会の人がうちの厩舎に来たよ」
その一言に松井だけじゃなく麻紀も敏感に反応した。
「誰が来たんだ?」
「母里って筆頭秘書の人。君が話を聞いてくれないから説得して欲しいって。追い返したけどね」
「ふざけてるんだよ。毎回秘書がやってきて、さっさと樹氷会に帰って来いって言い草で」
すると、悪い話じゃないから説得して欲しいって私も秘書に言われたと麻紀が腹を立てた。
「秘書ばっかりで、会長は来ないの?」
「新年の挨拶だってやってきたよ。……秘書と一緒に」
最後の部分を聞いて、岡部は鼻で笑った。
「で、どうしたの?」
「紅花会の相談役から受けた恩を、俺は忘れる事はできないと追い返した。君は何て言って追い返したんだ?」
「口先だけの会派に君はやれないって。そしたら信じて欲しいって言うから、一度踏み倒された相手に、担保も無しに大金は貸せないって言ってやった」
岡部らしい言い回しだと松井と麻紀が笑い出した。
手酌でお猪口に酒を注ぎ、松井は一口すするように飲んだ。
「正直に聞きたいんだけど、君はどうするべきだと思ってるんだ?」
松井の質問に、岡部は少しだけ答えづらそうにする。
そんな岡部の顔を麻紀もじっと見つめている。
「僕は、樹氷会に戻るべきだと思ってる。どうやら紅花会に在籍してるって事に気後れしてるみたいだからね」
「やはりそうか。薄々そうじゃないかと感じてはいたんだ」
「だけど、もし、君が引き抜かれたってなったら、次が怖いってのもある」
自分以外にまだ誰か移籍話が出そうな人がいるのかと、松井は表情を険しくした。
「櫛橋さんだよ。きっと白桃会が引き抜きに来る。桜嵐会は双竜会の連合に入ったけど、白桃会はどこにも入ってないからね」
あっと思わず松井は声をあげた。
確かに二年で八級に昇級した女性調教師に目を付けている会派は多いだろう。
「だけど、あの姉ちゃんは俺と違って、最初から紅花会で調教師になってるんじゃ?」
「白桃会はそうは思わないだろうね。女性調教師は全員、白桃会か桜嵐会に属するのが当然と思ってるだろうから」
確かにそれはある、そう呟き松井は頷いた。
「だから、もし樹氷会に行くんだとしても、引き抜きという形では行って欲しく無いんだよね」
お猪口を口に付け、松井は無言で頷いた。
「だけどさ、俺が仮に樹氷会に戻ったとして、紅花会に何の利点があるんだ?」
何も無ければ移籍を考慮する要素が何一つ無いと松井は言った。
「君の弟子で樹氷会を乗っ取って欲しいんだ。十河を見るに君ならできると思うんだよね」
「そうか! 一会派一人しか研修に出せないんだもんな!」
「伊級調教師を筆頭に、複数の呂級調教師を抱える会派を盟友にしたいんだよ。筆頭が親友なら、なお良い。赤根会と火焔会では、正直、戦力不足感がね……」
赤根会は会派順位最下位、火焔会の中の下。
そんな火焔会より順位の低い樹氷会を思い出し、松井も思わず苦笑いである。
「何でそんなに盟友が欲しいんだよ」
「標的分散をしたいんだよ。ここに来て、うちの会派は毎年のように昇級者を出して、急速に力をつけてきてる。このままだと他会派から嫉妬で足を引っ張られるのも時間の問題に思うんだ」
なるほどと言って松井はお猪口に酒を注いだ。
「話はわかった。だが俺にも意地がある。今の樹氷会には戻れない」
「それで良いと思う。今の彼らの態度は、人を招こうとする態度からは程遠いと僕も思う」
少なくとも自会派の浮沈のかかった人物を交渉しようとするには、あまりにも居丈高すぎる。
その岡部の意見に麻紀も頷いた。
「俺からは拒絶しかしないけど、それで良いよな?」
「良いと思う。義悦さんに何か言われたら僕も考えるよ」
意識合わせができたと二人は無言でうなずいた。
夕飯を食べ終わった麻夜と菜奈が、また、きゃっきゃ言いながら遊び始めた。
食べ過ぎたのか、気疲れしたのか、梨奈が突然気分が悪いと言って便所にかけこんで行った。
何か食材が痛んでいたのかと直美が不安そうな顔をする。
だがそれなら子供たちが真っ先に吐くはずだと言って、麻紀は便所に様子を見に行った。
二人で便所から戻ってくると寝室に向かい、梨奈を横にならせた。
梨奈さんはどうなんだと松井が聞くと、麻紀は、わからないけど食べ過ぎや食あたりじゃないんじゃないかなと微笑んだ。
松井も岡部の顔をちらりと見て、そういう事かと微笑んだ。
松井が岡部のお猪口に酒を注ぐ。
「で、そっちの厄介事ってのは何なんだ?」
「まだ何にも言ってないのに、厄介事はないだろ」
「君が俺に折り入って話があると言えば、毎回厄介事だからな。それとも今回は違うのか?」
口を尖らせ、岡部は違わないと呟いた。
そんな二人のやり取りに麻紀が大笑いした。
跡部と香坂の話を平賀の来訪から順に話をしていった。
その都度松井はうんうんと頷いて相槌を打っている。
「素直に君が貰えば良いだろ! 相手は多くの調教師が欲しがる絶世の美女だぞ。それが君にすり寄って来たんだぞ」
「僕が貰う義理が無いよ」
「学生時代からの憧れなんだろ? それに答えてやるのも立派な義理じゃないか」
違うか?と聞く松井に、それはそうなんだけどと岡部は言葉を濁した。
「今はダメだよ。流れが悪すぎる……」
「おいおい、世界だぞ? 全調教師の最終目標だぞ? 流れなんて関係ないだろ!」
お猪口を傾け、松井が岡部のお猪口に酒を注ぐ。
「じゃあ聞くけど、君は僕と同じ境遇になったとして、臼杵の前でも同じ事が言えるの?」
「それは……いや、言う。それだけ世界制覇は魅力的なはずだ」
横で麻紀がかなり冷たい目で松井を見ている。
「言わないよ君だって。君も僕の立場なら、世界より人情を取る。君はそういう人だ」
そう言うと岡部はお猪口を傾けくっと酒を喉に流した。
「じゃあ、どうするんだよ」
「香坂には、いずれ呼ぶとは言った。僕に本当に世界を見る力があるのなら、僕が見た後で見せてやるとも言った」
世界が見れるのなら、香坂の力じゃなく、まずは自分の力で見てみたい。
その岡部の意見に松井も納得した。
「で、跡部は何と?」
「僕を追いかけて伊級に行けって香坂に言ってた」
「ほう、存外気丈なやつなんだな」
香坂の一番の理解者。
岡部は跡部をそう評した。
「跡部は最初から、香坂を一時的に預かってるだけと思っていたんだろうね」
「なら跡部と一緒に伊級に行って、そこで契約騎手にしてもらえば良かったのに」
自分が言って平賀にあっさり却下された案を松井も言い出し、岡部はお酒を噴き出しそうになってしまった。
「周りが嫉妬したんだよ。平賀さんも、それで良いと思ってたみたいなのに」
「それじゃあ、跡部の方には、ギリギリでも呂級で踏ん張ってもらうしかないだろうなあ」
「それしかないだろうね。香坂の方はどうしたもんだろね」
酔いがまわってきたようで、松井は赤い顔を両手で押さえている。
「そっちは、おあつらえ向きの奴を知ってる。いいよ。明日俺が連絡とってやる。事情も話しておくよ」
「すまないね」
「かまわんよ。俺は借金が嫌いでね。少しづつでも返済しておきたいんだ」
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