第6話 香坂
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(呂級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・牧光長…岡部厩舎の調教師見習い
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・坂井政則…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・小平一香…岡部厩舎の女性厩務員、父は北国牧場の小平生産顧問
・跡部資太郎…白詰会の調教師(呂級)
・香坂郁昌…跡部厩舎の専属騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
一月の定例会議が開催された。
参加者は、牧、新発田、服部、石野、荒木。
岡部厩舎の一月の出走は二頭で、『タイカ』の能力戦三と、『ロウト』の『金杯』への挑戦。
『ロウト』の鞍上は服部、『タイカ』の鞍上は石野と決まった。
会議が終わると、少し相談があると言って岡部は真剣な顔をした。
絶対に口外しないようにと釘を差した上で、跡部と香坂の話を始めた。
結局こうなったのかと服部は呆れた顔をする。
荒木も噂には聞いていたが、まさかそれに岡部が関わっているとは知らなかった。
他の三人は初めて聞いた内容にかなり驚愕している。
そもそも何が問題なのかと、荒木が岡部に説明を求める。
参加者の中で荒木と牧を除いて全員競竜学校に行っている。
牧は調教師試験の勉強をしていたのでその中で学んでいる。
なので、この中で純粋に『調騎分離』の話を知らないのは荒木だけで、他は全員知っている。
「調教計画は調教師が、騎手は調教計画に直接携わらないという大原則があるんですよ」
大昔は普通に行われていたけど、今の協会ができた時にそう決めたんだと牧が補足。
じゃあ香坂は違反を犯してたという事になるのかと荒木がたずねた。
すると、それはどうなんだろうと全員が首を傾げてしまったのだった。
「調教計画には跡部が責任者として最終承認している。だから問題無い。そういう調教師もそれなりにいると思う」
つまり人によって解釈が異なるという事になる。
やっと状況が把握できた荒木が唸ってしまった。
「黒よりの灰色、平賀先生はそう評したよ」
わかりやすい例えだと牧たちは頷いた。
「そやけども、今、香坂を切ったら、跡部先生はどうにもならへんくなるん違いますか?」
憐れむような顔で服部が言った。
「どうにもならなくなっちゃうだろうね。厩務員たちが今後をどう考えるか、それが気になるところだね」
泥船から降りる人が出るだろうと荒木も呟いた。
「そないな事になってもうたら、跡部先生は、厩舎運営が立ち行かへんくなってまいますよ」
「当面は放牧で竜を減らして対応するしかないだろうね。だけど、櫛の歯が抜けるようになってしまう可能性もあるよね」
この話が一月で幸いだったと石野が言った。
それに牧と新発田が頷いた。
「おそらくだけど、平賀先生も、かなり苦悩して、この時期まで待ったんだと思うよ。先生自体は問題無いと思ってたみたいだから」
「そしたら誰が問題視しとるんですか?」
「跡部に嫉妬する調教師が多いと、平賀先生は言ってたよ」
嫉妬かと新発田たちが言い合った。
そこから会議室は、それはどうにもならないという雰囲気になってしまったのだった。
一週目の木曜日、『サケロウト』は予選を余裕で勝利した。
さらに『サケコウガイ』も能力戦を勝利し、重賞挑戦資格を取得。
金曜日には『サケタイカ』が能力戦三を圧倒的な強さで勝ち切り、重賞挑戦資格を得た。
月曜日、調教を終えると監視台で跡部に会った。
思いつめた表情で岡部に近づき、この後一緒にお茶でもどうですかと誘ってきた。
跡部の厩舎は主通路を挿んだ反対側、武田親子の厩舎のさらに先にあった。
事務室に入ると、事務机の奥の壁に『緑地に四つ盛り白花』の白詰会の会旗が貼られていた。
「先生はどんなお茶が好みですか?」
「どんなって、どんなのがあるの?」
「緑茶、紅茶、香草茶、あと花茶いうのもあります」
茶葉の入った小さな瓶を跡部はいくつか岡部に見せる。
「飲んだ事無いから、その香草茶ってのを飲んでみたいかな」
「あまり飲んだこと無いんやったら、甘茶蔓が良えかもしれませんね」
出されたお茶を一口飲むと、茶の香りは少ないながら、口の中にほのかな甘みが溢れた。
「奇妙な感じだね。お茶っぽいのに、はっきりわかるくらい甘いなんて」
「僕は緑茶一択なんですが、香坂がこういうんが好きでしてね」
跡部は寂しそうな目で微笑んだ。
その表情から、香坂が抜けた穴が大きすぎて今はただ呆然としているという事が察せられる。
「ところで、香坂は今どこに?」
「恐らく食堂やと思います。毎日出勤して、食堂でぼうっとして、午後には帰るようでして……」
「なんで、ここに呼んでやらないんだよ!」
岡部の叱責に、あからさまに跡部は怯んだ。
「そやけど、あいつとは専属契約を切ってしまいましたから……」
「だからって、お前が香坂と一番仲が良い事には違いは無いだろ! なんでそんな爪弾きにするような真似するんだよ!」
『爪弾き』と岡部はわざと責めるような言い方をした。
それに跡部は露骨に動揺した。
「そやけど、なるべく距離を取るようにと平賀先生から……」
「仕事上はな。個人的な付き合いは誰も禁止してないだろ! 僕だってこうして個人としてここに来てるんだし」
跡部ははっとした顔をした。
「そうか! 僕、馬鹿正直に……香坂に酷い事しちゃいましたね」
「何してるんだよ! 早く連れに行って来いよ!」
ぱあと明るい表情になり、しばらくお待ちくださいと言って跡部は事務室を出て行った。
跡部が戻るまで、主任の長坂に厩舎の状況をたずねた。
長坂の話によると、予想通り香坂との専属契約を切ってから、厩務員の中でも進退をどうするかという話が盛んになっているらしい。
長坂は跡部と運命を共にするつもりだが、調教助手がそうではないらしく動揺が広がっているのだとか。
予想以上に跡部の置かれた状況が酷い事が長坂の話から感じ取れる。
跡部が戻ってくるまで、予想よりも時間がかかった。
恐らくは香坂も渋っているであろう事が察せられる。
「先生、すみません。なんだか巻き込んだようになってしまって」
岡部の顔を見る早々に香坂が謝罪した。
「聞いたよ。跡部がいじわるして仲間外れにしたんだってね」
「いや、これには訳があって……」
岡部の誤解を解こうとしたが、すぐに冗談を言ったんだと気づき香坂は苦笑した。
「香坂、このお茶旨いね。ちょっと調べてみたくなっちゃうよ」
跡部に何を出したのかたずね、次を準備しますねと言って香坂は席を立った。
丸長の硝子の容器に細長い草を入れてお湯を注いだ。
「少し時間がかかるので、甘茶蔓を飲んでお待ちください」
「なんだろ? なんだか新しい畳みたいな匂いがする」
「飲むとちょっと驚きますよ」
少しの間、静寂が訪れた。
跡部も香坂も、かなりまで明るい表情を取り戻しつつある。
恐らくは、会ってはならないというわけではないと跡部が香坂に説明したのだろう。
「先生、僕はどこで間違えたんでしょうね……」
新たに淹れているお茶の様子を見ながら香坂がボソッと呟いた。
「何も間違えてないさ。お前は自分が思ってる以上に評価されちまったんだよ」
「僕はこれから、どうしたら良いんでしょう……」
「お前はどうしたいんだ? お前の技量なら、たいていの事なら叶うだろ」
瞳を閉じ、香坂はじっくりと考え込んだ。
「僕は……跡部先生と一緒に伊級へ行きたいです」
泣き出しそうな顔で跡部が香坂の顔を見つめた。
「残念だね。数少ない叶わないことが、それなんだよ」
「どうしてもダメなんですか?」
「一つ方法はある。跡部が自力で伊級に昇級し、伊級に行ったお前と契約する事だ」
跡部の顔をじっと見つめ、目を閉じると香坂は首を横に振った。
そんなに絶望する事ないだろと、跡部が笑いながら苦情を言った。
「先生はどうしたら良いと思いますか?」
「さっさと伊級に行って、良い調教師に拾ってもらうのが最良だと思う」
すると香坂はじっと岡部の顔を見つめた。
「その『良い調教師』に、岡部先生は含まれていますか?」
「含まれている……かもしれない」
「僕、競竜学校の時、先生の最後の実習競走を見てから、いつか先生の竜に乗りたいと願ってるんです!」
実はそれが、これまでの香坂の原動力だったんですよと跡部が補足した。
頑張って先生を追いかけていれば、いつか必ず先生から騎乗依頼があるからと。
「僕は服部と伊級に行くんだよ。そう約束しているんだよ」
「じゃあ僕と一緒に世界に行ってください! 先生の竜に僕が乗れば、きっと世界だって!」
身を乗り出さんばかりに香坂は自分の希望を伝えたのだが、岡部はそれを受け流した。
「僕の竜には服部が乗るんだよ。お前を乗せる可能性が無いとまでは言わないけど」
「これも、数少ない叶わない事の一つなんですか?」
「今はね。でも未来はわからないよ。願い続ければそれは叶うかもしれない」
香草茶の香りを嗅ぐと、そろそろ良いと思うので飲んでみてくださいと香坂は岡部の茶椀に注いだ。
口に含むと、ほのかに檸檬の味がしたように感じる。
「檸檬水みたいな不思議な味がする。匂いは畳だけど」
「これ『檸檬草』って香草なんです。不思議な感覚でしょ」
「面白いね、これ!」
自分の趣味を喜んでもらえて、香坂は非常に嬉しそうな顔をした。
「先生。僕は先生に身を委ねる事にします。僕の希望は今言った通りです。申し訳ありませんがよろしくお願いします」
横で跡部が、僕からもお願いしますと頭を下げた。
「それは何? 跡部もついでに面倒を見て欲しいって事?」
さすがにそれは厚かましいですよねと、跡部は乾いた笑いをした。
「平賀先生は、お前の事もよろしく頼むと頭を下げていったよ」
平賀先生がと、跡部はかなり驚いた表情をした。
処遇を全て委ねると言われた事は、さすがに二人には伏せておいた。
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