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【完結】競竜師  作者: 敷知遠江守
第一章 師弟 ~厩務員編~
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第31話 松下

登場人物

・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員

・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)

・戸川直美…専業主婦

・戸川梨奈…戸川家長女

・最上義景…紅花会の会長

・長井光利…戸川厩舎の調教助手

・坂崎…戸川厩舎の厩務員

・池田…戸川厩舎の厩務員

・荒木…戸川厩舎の厩務員

・木村…戸川厩舎の厩務員

・大野…戸川厩舎の厩務員

・垣屋…戸川厩舎の厩務員

・牧…戸川厩舎の厩務員

・花房…戸川厩舎の厩務員

・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員

・吉川…尼子会の調教師(呂級)

・南条…赤根会の調教師(呂級)

・相良…調教師(呂級)

・津野…相良厩舎の調教助手

・日野…研修担当

 昨晩、夕飯後の家族会議は非常に長引いた。


 会長の機嫌を考えると予定日の申請はせいぜい二週間以内と戸川は説明した。

だが、とにかく梨奈がはっきりしない。

そんな急にだとか、着ていく服がどうたら、やれ旅行鞄がどうの、靴がどうのと駄々をこねまくった。

そんな梨奈に戸川ではなく奥さんが先に我慢の限界を迎えた。

梨奈は置いていくから厩舎の他の方を連れていこうと岡部に言いはじめ、梨奈が泣き出しそうになるという一幕があった。

結局戸川が、もう来週月曜という事で連絡するから、それまでに準備しろとぴしゃりと言い切って会議は閉幕した。




 翌日、出勤すると岡部は牧に引っ張られて竜房に連れていかれた。

牧は童顔だがそこそこの年齢で、岡部より少し年上、しかも既婚者である。


「なあ、長井さんから聞いたんやけど、あの『禿鷲(はげわし)』をやり込めたんやって?」


 牧は目を輝かせ嬉しそうな顔で聞いてきた。


「『禿鷲』って、もしかして……」


「会長に決もうてるやん。うちらは皆そう呼んでるで」


 昨日の会長の容姿を思い出し、岡部は笑いが止まらなかった。


「ええい、そないな事はどうでも良えねん。一体何をしたんや?」


「普通に新竜の評価を言ったら、機嫌良くして帰ってっただけですよ」


 本当にそれだけなのかと牧は訝しんだ。

だが考えてみれば、初対面であの『禿鷲』に新竜の評価を語れるというだけで凄い事に感じる。

ましてや、まだ来て数日の人物だと考えたら、驚き以外の何ものでも無い。


「偉いもんやな、君。僕、昨日、禿鷲が帰るとこ出くわしたんやけど、あない喜んでるとこ初めて見たもんなあ。そないな対応ようできたなあ」


「そんなにいつも機嫌悪いんですか? 僕、初対面だから」


「少なくとも僕がここに来て、これまで笑ったとこは見た事なかったね」


 それだけで尊敬すると牧は真顔で驚いた。

来週牧場に招待されたから戸川とお休みすると言うと、あれを笑わせられたら御褒美もらえる仕掛けがあったのかと笑い出した。


 牧も働き始めに面談があったが、ずっと不機嫌なままで、終いには最上から呼んできたのに、もう行っていいと追い払われたのだとか。

それを聞いていた池田が僕もそんな感じだったと笑い出した。



 竜の世話をしようと長靴をはこうとしたところで、長井に事務室に呼ばれた。

事務室の奥で二人で『サケセキラン』の調教計画を練っていると、戸川に呼ばれた。


 事務室の接客椅子を見ると、見慣れぬ青年が座っている。

ジーンズにTシャツ、鞭を右手に小刻みに振っている。

年齢は岡部と同じか、少し上くらいだろうか。

髪はかなり派手に染めているらしく、非常に黄色い。


「あ、長井さん! 久しぶりですね。またお世話になります」


「おお、松下くん! ずいぶん見へんかったけど、どこ行ってたん?」


 長井は松下に歩み寄って行き、背中をパンパン叩いて歓迎した。


「どこって、この時期騎手が行くとこ言うたら、海一択やないですか」


「南国に姉ちゃんのケツ追っかけに?」


「太宰府や! 止級に決もうてますやん!」


 ふいに松下は見慣れぬ人影に目を移した。

長井が岡部を紹介すると、戸川が補足した。

最初は、戸川家の養子だとか、厩務員だが竜をちょっと追う事ができるとか、落竜の危険があるから調整が限度だとか言う話だった。

だが徐々に二人の話は弾んでいき、最終的には会長をやり込めたという話までし始めた。


「僕も、ここ来てから、あの会長に何遍も会うてるんやけど、あの人、やり込められる事なんてあるんやね」


 岡部は話がどんどん盛られていくと言って苦笑いした。

その後戸川から松下の紹介があった。



 松下(まつした)雅綱(まさつな)騎手は、元々は丸目(まるめ)という若き調教師の専属騎手をしていた。

丸目調教師は相良調教師と同じく『山桜(さんおう)会』の調教師。

相良よりも年下で、山桜会で最も期待されていたのだが、呂級に昇格してわずか二年で病没。

解散になった丸目厩舎の面々は路頭に迷う事になった。

厩務員は相良以外の厩舎でも引き取り手があり、全員すぐに再所属先が決まったのだが、松下だけがどこからも引き取り手が無かった。


 戸川厩舎では数年前に長井が引退していて、そこから専属騎手無しで運営していた。

相良から話を聞き、それならうちで松下を引き受けるという事になった。

ただ松下は山桜会から抜けたくないという事で戸川厩舎と騎乗契約だけ交わし、山桜会所属のまま契約騎手となっている。


「あの会長の下は嫌な予感しかせんもんな」


 松下は岡部の肩をバンバン叩いて大笑いしている。



 四人は竜房に向かって歩き始めた。

彼が別所(べっしょ)さんの代わりなんですかと言って、松下は戸川に寄っていった。

戸川は、そうではないけど、そうなれると良いねと、岡部をちらりと見て微笑んだ。

それを見て長井が岡部に顔を近づけた。


「別所さんはね、先生の仁級からの主任厩務員やった人や。せやけど三カ月前に、がんで亡くなってもうてね……」


 長井は残念そうな顔を向けた。

長井は戸川厩舎開業から、専属騎手として所属している。

当然、別所とも同じ期間を共に過ごしてきた。

それだけに別所の死には非常に落胆した。


「じゃあ今、人員としては一人減なんですか?」


 岡部の疑問に長井は不思議そうな顔をした。


「何言うてんの。君がおるやない」


 長井は岡部の背をパンと叩いて笑いだした。



 松下は、満室にうまった竜房の竜を一頭一頭確認していった。

最後に新竜の二頭の確認をした。


 戸川は今年のはどうだいと言って松下の顔を見る。

松下は首を傾げると、随分と状態が違うみたいと困惑した表情をした。


 戸川は少しバツの悪そうな顔をし、戸川と長井、岡部で喧嘩をしている事、『セキラン』の調教を長井たちに任せている事を説明した。


「八月上旬にしては、こっちの『セキラン』、ちと調子上げ過ぎやないですか?」


 松下の指摘を聞き、岡部は不安そうな顔で松下に説明を始めた。


「実はこれでも、まだ追い始めたばかりなんです。とにかく肉付きが早くって」


 岡部の説明を受け松下は、再度『セキラン』の脚元を触って確認した。


「骨太やから、余計そう感じるんかな?」


「松下さんから見てどう思います? もっと緩くした方が良いんですかね?」


「はあ? アホ言え! このまま行けよ! 一発重賞狙えるで、これ!」


 松下は嬉しそうに岡部の背をパンと叩いた。



 竜房から出ると松下は長井の横腹を突いた。


「ねえ、長井さん。あの『セキラン』、次の調教、乗せてえな」


「あかんよ。岡部君と君を乗せるんは、新竜戦の直前って決めてるんやから」


「もう少し前にしようや。一杯に追う時から乗りたい」


 長井が岡部を見ると、岡部は苦笑いし首を縦に振った。

松下はそれを見て、来年が楽しみだなと足取りを弾ませた。


「実はな松下、一頭、相談したい竜がおってな。『ホウセイ』の事なんやけどな」


 戸川が事務所の戸を開けながら松下に顔を向けた。


「あれ、短距離に移そう思うんやけど、お前どう思う?」


「『ホウセイ』を短距離に? ちともう一回、現状見てきますわ」


 そう言うと松下は竜房に戻っていった。


 会議室で三人で座って茶を啜っていると松下が戻ってきた。


「あれを短距離に移すいうんは、先生の案なんですか?」


 そう言いながら松下は電気やかんでお湯を沸かすと、急須にお茶葉を入れ湯飲みを用意した。


「いや、綱一郎君の案なんやけどね。実は、僕はまだ迷っててね」


 戸川は眉をひそめて言った。


「そうやろね。先生の決断やないやろうなと思いましたわ。先生にしては思い切りが良すぎる」


 松下の発言に戸川は少し憮然とした顔をした。


「で、どうなんや?」


「良えと思いますよ。ちと時間はかかるかもしれへんですけど、今よりは結果出るん違いますかね」


「そうか。鞍上(あんじょう)(=騎手)のお前がそう言うやったら決まりやな。秋の大目標は『皇后杯』から『天狼賞』に変更や」


 戸川が力強く言うと四人は頷いた。



 その後戸川は、来週頭から戸川と岡部で北国に出張するという話を始めた。


 問題はその間の厩舎運営。

春までなら、主任の別所によろしくと一言言っておくだけで、数日程度ならほとんどの事は何とでもなっていた。

だが今はそれができない。

これまでは夏季期間だったから、長井一人でなんとでもなったが、これからはそうはいかない。


 そこで、暫くは長井と松下で何とかして欲しいと戸川は言った。

だが、松下が僕は部外だからちょっとと固辞した。


 厩務員の誰かを補佐に付けたらどうかと岡部が提案したのだが、長井は、該当者に心当たりがないと笑った。

岡部は顎をつまみ、真剣な表情で悩んだ。


「長井さんから見て、厩務員の中で報告が一番正確って思うのは誰なんですか?」


「詳しいんは坂崎さんやけど、正確さいうと池田さんかも」


 岡部は戸川の顔を見た。

戸川も岡部を見て頷いた。


「解った。体制を作ろう」


 そう言うと戸川は、後ろの白板に臨時体制図を書いていった。

中央に長井、その横に池田、池田の下に線をたくさん書き、長井の上に戸川と書いた。


「池田には臨時で主任見習いをしてもらう。長井は池田と共に、あらかじめ計画された調教を粛々と進めてもらう」


 長井は明らかに強張った顔をした。


「各厩務員からは池田に情報を集約してもらい、長井に相談させる。長井は僕に定時で連絡し相談する」


 どうかなと戸川は一同を見回した。

岡部は席を立ち、池田を呼びに行くと言って竜房へと向かって行った。



「あれ、ほんまに新入りなんですか? 先生への補佐の仕方が、完全に熟練の主任のそれですやん」


 松下は信じられないという顔を長井に向けた。


「恐ろしい事に、まだ来て一月くらいなんや。あの会長を言いくるめたんも頷けるやろ?」


 長井は松下を見て小さく笑った。

戸川はその会話を聞き、御満悦の表情をした。

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