第1話 牧場名
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(八級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・牧光長…岡部厩舎の調教助手
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・内田修宗…紅花会の調教師見習い
・西郷崇員…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・跡部資太郎…白詰会の調教師(呂級)
・香坂郁昌…跡部厩舎の専属騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
「呂級の東西重賞制覇だなんて、私が会長の時は一度も無かったぞ!」
がははと笑いながら、最上は最高の気分だと言って満面の笑みで麦酒を呑んだ。
東西の新竜重賞の翌々日、岡部は厩舎関係者数人を率いて、祝賀会へ出席するために皇都の大宿へと向かった。
通常であれば、祝賀会は競走の翌日の夜に近くの大宿で行われるのだが、今回は東西重賞制覇ということで杉厩舎の面々の帰還を待つ事になった。
会場には最上、義悦の他に、本社競竜部の小野寺部長、北国牧場の氏家夫妻他数人が参加している。
また競竜会のいろはも参加しており、かなりの大人数となっている。
東西で期待の竜が出走というだけで酒田の本社はお祭り騒ぎだったと、小野寺部長がはしゃいだ。
本社の食堂は空いた酒缶と酒瓶で足の踏み場が無いほどだったと義悦と笑いあっている。
呂級の東西重賞制覇なんて、稲妻や楓でもそうそうやれる事じゃないと義悦は上機嫌だった。
来年の募集がどうなるか今から楽しみだと、いろはが満面の笑みで麦酒を呑む。
北国の牧場も深夜までお祭り騒ぎだったと氏家も大喜びである。
今頃、白糠もこの寒空の下、野外で焼肉祭をしていると笑い出した。
この事態を招いてくれた『セキラン』を生産したというだけで、北国牧場は今後ずっと誇っていって良い話だと最上が褒め称えた。
それを聞き、思わずあすかは瞳を潤ませた。
西国竜の『新月賞』制覇が史上初だとは知らなかったと義悦は杉を褒めちぎった。
そんな事より肩の荷が下りたという方が大きいと、杉は引きつった笑みを浮かべる。
「杉さんの『チタセイ』はどの程度持ちそうですか?」
大欠伸をかまし、今にも寝そうになっている杉に岡部はたずねた。
「そう言うって事は、お前の『ショウチュウ』もあんま持たへんいうことか」
「まだ、この先を見てみないとわかりませんが、うちは来年一杯じゃないかと」
「俺の方は夏が超えれるかどうかやと思う。母系も早熟なんかもしれへんな」
まるで炎の強い短い蠟燭のようと杉が例えた。
その的確な比喩に岡部も納得であった。
「成長力は凄いあるんですけどね」
「うちのもや。超早熟って感じやな。それだけに見極めが難しいと思うとる。恐らく、これまでに出てきてへん仔は、母に似たか、見極められへんかったかやろうな」
「前者ならまだしも、後者はきついですね」
北国牧場から来た小平が、短距離竜が多いが、中距離竜も思ったより多い印象だと述べた。
「そうなんや。古河牧場から買うたうちのが短距離やったから、他もそうなんやとばかり」
「うちのも、あれ中距離寄りですよ」
「はあ? 嘘やろ? あれで『優駿』まで行けるんかいな。化け物やん」
その言葉を聞いた小野寺部長が、ほんとかよと目を丸くして驚いた。
少し宴席が進むと、そういえばと言って、義悦が最近本社で出ている問題を話し始めた。
「実は先日、火焔会さんから牧場名は何になるんですかと聞かれたんですよ」
「『最上牧場』だろ。何を今さら」
最上が即答し鼻で笑った。
だが、「『紅花牧場』じゃないんですか?」と氏家が困惑した顔で最上にたずねた。
看板にそう書いてありましたけどと。
「『紅花会 最上牧場』じゃないか。何を言っとるんだ」
すると今度は小野寺が、本社では『白糠牧場』『崇徳牧場』と呼んでると言い出した。
それは場所の話じゃないかと最上も氏家も笑い出した。
二人は笑ったのだが周囲は唖然としている。
岡部と杉は、単純に『北国牧場』『南国牧場』と呼んでいると言いあった。
確かにそれもよく聞くといろはが頷く。
「ね。こういう話なんですよ」
「そうか。これまでは我々だけだったから『最上牧場』でも良かったが、他会派と連合となると何か新しい名前を探らねばならんのか」
「社内からいくつか案は出てはいるんですが、他に何かないかと思いましてね」
だが急にそんな事を言われても、残念ながらこれと言って名前は一切挙がらなかった。
「今はどんな案が出てるんです? 本社内で募集とかしてるんでしょ」
庄内、紅、紅鮭、稲船、末摘、呉藍、紅藍という感じだと義悦は岡部に向かって言った。
「その『末摘』とか『呉藍』とかって何ですか?」
「紅花の別名だそうです。正直、私も初めて聞きましたよ」
『庄内』は地名だからありえないと氏家が言うと、良い響だと思うんだけどとあすかがムッとした顔をし、夫婦で揉め始めてしまった。
『末摘』って綺麗じゃないといろはが言ったのだが、『末』も『摘』も縁起の悪そうな字だと最上が反対した。
そんな感じで、皆が思い思いに話し始めて、収拾がつかなくなってきてしまった。
「実はこの話が出ると、酒田でもこんな有様でして」
苦笑いしながら義悦は岡部の顔を見た。
「なるほどね。すみれさんは何て言ってるんですか?」
「相談役か岡部先生に決めてもらったら? だそうです」
岡部は言葉に詰まってしまった。
「でた、丸投げ」と言って成松と服部が大笑いした。
「それはやはり、年の功という事で相談役が」
岡部がそう言うとすぐに、父さんの感性はちょっとと、いろはとあすかが言いだした。
娘の苦情を気にせず最上が『稲船』を推した。
富が来そうと言って。
だが、そのまま流れて行きそうと、いろはとあすかが、すぐに嫌そうな顔をする。
「会長はどれが良いと思ってるんです?」
「私は『紅鮭』だったのですが、妻に馬鹿にされました。感性が酷すぎると」
弘中と吉弘が小さく頷き苦笑いをする。
氏家と小平も似たような表情をしているという事は、口には出さないがすみれと同じように感じているという事だろう。
「稲妻も楓も会派名から連想する名前ですから、それに倣うなら『紅藍』か『紅』が良いと思いますね」
「どっちが良いと思うんです?」
「『紅藍』ですかね。『紅』だけじゃ寂しいし、紅葉会さんと被ってしまうので」
真っ先に吉弘が私もそれが良いと思うと言うと、小野寺も自分もそれが良いと思っていると言い出した。
「赤と青で紫って意味もあるそうですよ。紫は高貴な色だそうですから、なお良いかもしれませんね」
義悦の話に、なるほどなあと最上が納得した。
いろはとあすかも、良いじゃないのと納得した様子だった。
「じゃあ、有力候補として『紅藍』という事で推薦しておきますね」
「読みは『べにあい』じゃなく『くれあい』なんて良くないですか。ちょっと『ふれあい』っぽくて温か味がある気が」
すると十河と荻野が、それ良いですねと嬉しそうな顔をした。
小野寺部長も、そう聞くと綺麗な名前に感じると頷いた。
「じゃあ、それで各方面に打診してみます」
祝賀会が佳境に差しかかかると、北国牧場の小平が隣の席を空けてもらい座った。
「実は、先生に折り入ってお願いがあるんですけど」
小平が折り入ってお願いだなんて、何だろうと岡部は訝しんだ。
どこかバツの悪そうな顔をして、小平は非常に言いづらそうにしている。
「実はその……一人厩務員を雇っていただけないかなと……」
「なんだ、そんな事ですか。一人くらいなら構いませんよ。ただ、厩務員って夜勤もありますけど大丈夫ですか?」
「そこは本人も承知してるので大丈夫です。私としては、先生の足を引っ張ったらと思うと、できれば反対したいところなのですが……」
そう言うと、小平はかなり参ったという顔をする。
「という事は、小平さんの縁者さんなんですか?」
「娘です。先生とは面識があると本人は言ってますが」
「ああ! 古河牧場でお見かけしましたね。構いませんよ。ただし厩舎の外の事までは責任は取れませんけど」
杉と最上たちと古河牧場の競りに行った際、『コウガイ』を展示していた牧童。
それが小平の娘だというのは、後に最上から聞いた話である。
「寮っていうのはあるんでしょうか?」
「ありますよ。なので生活については心配はいらないと思いますよ」
「今月、高校を卒業するのですが、進路はどうしたのかと聞いたら、先生の厩務員になると言いだして。なんでもっと前に言わないのかと……」
しかも妻から、先生に頼んでくれと押し切られてしまってと、小平は頭を抱えてため息をついた。
岡部は思わず苦笑いである。
「娘さんは調教師になりたいのでしょうか?」
「さあ。私は単に、先生の傍で厩務員がやりたいとしか聞いておりませんので」
「じゃあ、年明けに皇都で待っているとお伝えください」
ありがとうございます、娘をよろしくお願いしますと、小平は岡部の手を握って頭を下げた。
「ねえ、綱ちゃん。もう一人くらい何とかならないかな?」
小平の話を聞いていた義姉のいろはが、小平とは反対の椅子を空けてもらい座った。
「もう一人くらいなら構いませんよ。どんな方ですか?」
「先生って、八級の坂井先生って知ってる?」
「知ってますよ。義父さんの師匠だった方ですね」
その息子さんの政大先生に決まってると、いろはは笑い出した。
「ああ! 昔、杉さんが専属騎手してた」
「そそ。その坂井先生の息子さんの政則君って子が調教師になりたいんですって」
「斯波さんの時も言いましたけど、お父さんの元で一貫して教育した方が良いと思うんですけど」
そもそも坂井政大の父は、岡部の師である戸川の師の坂井政二なのだから、前回の斯波とは異なり教育方針も同じはずなのだ。
「坂井先生って斯波先生と仲が良くてね、斯波先生から話を聞いたんだって」
だとしたら斯波を受け入れておいて、今回を断ったら角が立ってしまうではないか。
つまり最初から断るという選択肢は用意されていなかったのだ。
「その方、歳はおいくつなんです?」
「二四って言ってたかな」
「若いですね。そういう事なら、ちゃんと調教師になる気があるなら構いませんよ」
『そういう事』の意味がわからず、どういう事?といろはがたずねた。
「伊級の準備をしていかないといけないので、短期間だけでも厩舎を任せられるような人を複数抱えたいんですよ」
「それ、あまり口外しない方が良いと思うな。綱ちゃんのとこに研修にって厩舎、結構多いんだから」
「伊級に行けたら順次受け入れますから、希望だけ出してもらえれば」
そうは言ってもせいぜい四、五人くらいだろうと岡部は高を括っていた。
そんな岡部を見て、いろはは口元を歪めた。
「わかった。じゃあそう案内してしまうわね。私どうなっても知らないからね」
「……えっと、ちなみに、どのくらいの人数になりそうなんでしょう?」
「そうねえ。現段階で、ゆうに二十人は超えると思うけど」
岡部から目を反らし、いろははすまし顔をする。
「ちょ! ちょっと待ってください! それはちょっと……」
「綱ちゃん。みつばじゃないんだから、ちゃんと話は詳しく聞かないと!」
だから忠告したのよと、岡部を指差していろはが悪戯っぽい顔をする。
「も、申し訳ありませんでした。人選の件は『義姉さん』にお任せします」
「ふふふ。義姉さんが任されました!」
勝ち誇った顔で、義姉さんって呼ばせたと言って、いろはが、あすかに自慢しに行った。
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