第59話 母里
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(八級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・巻光長…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、内田、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・跡部資太郎…白詰会の調教師(八級)
・香坂郁昌…跡部厩舎の専属騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
愛娘と一日たっぷり過ごし鋭気を養った岡部は、翌日、厩舎へ出勤した。
出勤して来る岡部を、牧がそわそわしながら待っていた。
にやけそうになるのを必死に堪え、岡部に一通の封筒を手渡す。
その表情から合否どちらかはわかったが、念のため中の書面を確認した。
「牧さん、おめでとうございます。これで来年は副調教師待遇ですね」
「ありがとうな! で、待遇言うんは、その、これは?」
にやけ顔で牧は指で輪を作る。
そんな牧に岡部もにこりと微笑む。
「あくまで待遇ですよ。名誉職みたいなもんです」
「うわっ! 安月給でこき使う気や、この人!」
「ほう! なら厩務員に戻りましょうか?」
僕は全然かまいませんよとニコニコ顔で言う岡部に、牧は一瞬で青ざめた。
「じょ、冗談やん。嫌やなあ……」
昨日のうちに皆に合否を報告していたようで、知らないのは岡部と数人だけだったらしい。
荒木も内田も、おめでとう以上の反応は無かったが、嬉しさで牧は足は地に付いていなかった。
十一月になると、朝晩は非常に厳しい寒さとなり始める。
今年も残すところ、新竜重賞と『皇都大賞典』を残すのみとなった。
昨月、『ソウベン』『ケンウン』『テンリャク』が能力戦三を勝利し、これで条件戦に出走する竜は『シンカイ』と『タイカ』のみとなった。
これまで条件戦を戦ってきた竜たちは順次放牧となっている。
そのため現状で長距離の『皇都大賞典』に挑戦できる竜はおらず、今月の『ショウチュウ』の『新竜賞』が年内最後の重賞という事になった。
また、十一月といえば新竜戦の中距離戦が解禁になる月である。
岡部厩舎としては『コウガイ』がどこまでやれるのか非常に注目している。
定例会議が開催された。
参加者は内田、牧、荒木、服部、石野、新発田。
まず、新聞に出ていた新竜重賞の話になった。
「先生、杉先生の『チタセイ』、『新月賞』に行くってほんまですか?」
かなり驚いた顔で新発田がたずねた。
「そうなんだって。あれも種牡竜にしたいんだと。そのためにはどっか重賞をってことで『新月賞』に行くんだそうな」
「いやいや、そうは言うても、西国の竜って『新月賞』勝った事ないんでしょ? それに向うは三浦先生の『メイワ』がおるやないですか」
「『メイワ』は目標先にするんだって」
この件は杉厩舎でも首脳部以外内密の話となっている。
当然三浦厩舎も三浦しか知らない。
岡部もあえて今日まで公表はしなかった。
「ようこんな話、三浦先生が承知しましたね。重賞取れる絶好の機会を奪われる事になったわけやないですか」
「三浦先生は来年の『天狼賞』と、その先の『金杯』狙いなんだそうだ。『チタセイ』は来年の『上巳賞』で引退が決まっているんだってさ」
「そらまた……えらいこと上手にばらけましたね」
新発田の訝しんでいる事はわかる。
そしてその予測も当たっている。
だが、密談の内容を話してしまうわけにはいかない。
「だからって『チタセイ』が勝てるとは限らないけどね。今、新発田も言った通り、これまで西国の竜は、『新月賞』勝ったことないわけだし」
「正直、『新竜賞』の最大の障壁や思うてましたから、こっちは安堵ですけども」
「そんな事言うけど、武田くんのも同じくらい強いと思うよ。少なくとも小結なんて評される竜じゃないよ。三頭は差があまりないと思ってる」
それだけで全員どの竜の事かわかったらしく、あの竜かと言って渋い顔をした。
事務棟へ『コウガイ』の新竜戦と『ショウチュウ』の『新竜賞』の登録をしに行き、厩舎へ戻ると客が来ていた。
来客の事を荒木は樹氷会の人だと報告した。
すぐに十河を呼びに行かせ、十河が来るまで、岡部はゆっくりと時間をかけて珈琲を淹れた。
「樹氷会の母里言います。会長小寺の筆頭秘書をしとります」
そう言うと母里は、自分の名刺を岡部と十河に手渡した。
「樹氷会さんが私に何のご用件でしょうか?」
「今、樹氷会は連合先を模索しとりまして、それで紅花会さんがどんな感じなんか伺いたい思いまして」
ずいぶんと遠い話題から入るんだなと岡部は感じた。
このままだといったい本題に入るのはいつになる事やらと内心辟易した。
「私はこう見えて筆頭調教師をさせていただいてますから、外の方に向かって自分の会派を悪く言うことはありませんけど?」
「それは存じとります。将来世界を相手に戦うかもしれへんと噂される先生に、全幅の信頼を寄せてもらえるやなんて紅花会さんが羨ましいですね」
「そんなのどこの筆頭調教師だって同じだと思いますけど。樹氷会さんはそうではないのですか?」
珈琲を口に運び、母里は苦笑する。
「今、幕府の山中先生が筆頭をしとるんですが、うちらの顔を見ては文句ばかり言うてますよ」
「へえ、それは良かったですね」
「どういうことですか?」
母里としては愚痴のつもりで言った。
それを『良かった』と言われれば気分を害するのは当然だろう。
「苦言を言われるということは、まだ見捨てられてはいないって事ですよ。私だったら自分の会派を見限ったら何も言ってやったりはしせんよ」
「そういう見方があるいうんも知ってますけども、我々としては、先生と紅花会さんのような互いに支え合うような関係が理想やと思うてるんです」
支え合うには本音をお互いぶつけ合わないといけない。
そうなれば自然と苦言を言い合う事になる。
そんな単純な事も樹氷会はわからないのかと言ってやりたい気分であった。
だが恐らく喧嘩になってしまうだろうと思い、ぐっと堪えた。
「これまで私もさんざん文句は言ってきてますよ。春の輸送事故をご存知でしょ?」
「あれは、ほんまに痛ましい事故でしたね。我々も運輸会社を持ってますから他人事やありませんよ」
確かにあの時、会見で苦言を呈していたのを聞いたと言って、母里はそこからしばらく黙ってしまった。
その後小さく何度か頷き、そういうものかもしれませんねと小さく呟いた。
珈琲を一口飲むと、母里は少し前のめりになった。
「先生から見て、紅花会の調教師はどのように見えますか?」
無駄話に飽きてきた岡部は、さっさと本題に入って欲しいと感じていたが、一方でどこまで無駄話をするつもりなのだろうという興味も湧いていた。
「久留米で屑を何人か見て少しがっかりしましたが、それ以外は、皆、心に熱いものを宿して日々頑張っていると思っています」
すると母里は、特に期待している調教師の名前を聞いてきた。
それに対し岡部は包み隠さず、杉、松井、櫛橋の名を挙げた。
三人ともいずれ伊級に昇級し、会派を盛り上げてくれる事だろうと言って。
「うちでは、能力の低い竜もすぐには見捨てず、良い所を引き出して行こうという方が多いですからね」
岡部のその一言が自分たちを皮肉っているというのは、母里もすぐに察した。
だがそれでも冷静さを崩さなかった。
「うちの会派が他所からどう見られてるんかは、よう存じてます。そやけども、噂で言われているような冷酷な会派では無いんですけどね」
「それはどうでしょうね。まあ、そのおかげで私たちも『サケサイヒョウ』のような良い仔を貰えたわけですけど」
『サケサイヒョウ』という具体的な例を出されてしまうと、母里も反論は難しかった。
「あれは……私もどうかと思いましたね。ただ、あれを山中先生に預けて、果たしてあそこまでの竜になったかどうか」
「長年呂級で筆頭をやりながら頑張って会派を支えてくださっている方に対して、冷たくはありませんか?」
「もちろん本人には口が裂けても言えませんよ。ただ単に、山中先生と亡き戸川先生とを比べていう話ですよ」
この時点で筆頭秘書のこの人物は、我々をかなり調査してここに来ていることが察せられた。
つまり松井の件は調査不足であんな事を言ったわけでは無いという事になるだろう。
「母里さん。当会派との何かしらを望むのであれば、直接、会長へお話いただけませんか。私もそれなりに忙しい身でして」
「これは申し訳ありませんでした。そしたら早速本題に入らせていただきます。実はその、我々にお力添えをいただきたいんです」
岡部が少し声を荒げた事で、母里は焦って話題を一気に核心に近づけてきた。
「他の会派に私が手を貸すと色々と問題がある事くらい、筆頭秘書をされてるんですからご存知ですよね?」
「その点やったらご心配なく。私がお力添えをいただきたい相手は、現在紅花会の調教師の方ですから」
やはり。
岡部だけじゃなく十河も同じような顔をする。
少し呆れたような、嫌悪感を抱いたような顔である。
「単刀直入に言います。松井先生を説得してはいただけませんでしょうか?」
「樹氷会さんが、うちの松井くんに何の用事が?」
岡部の釘を刺したような言い方に母里はぴくりと眉を動かした。
交渉の難航を覚悟したのだろう。
「先生は同期ですからご存知やと思いますけども、松井先生は元々うちの調教師やったんですよ」
「もちろん存じていますよ。あなた方の極めてくだらない事情によって、松井くんが一番苦しい時に縁を切った事までね」
それによって、松井一家がどれだけつらい思いをしたのか、わかっていないのかと岡部は責めた。
当時三歳だった長女が、その件でどれだけ涙を流したか。
「会長は先代に、松井先生を信じるように、ずっと進言しとったんです。ところが、先代はそれに激怒し、意固地になって処分を強行してもうて……」
「あの後、執行会から冤罪だったとして訂正と松井くんへの正式な謝罪がありましたよ?」
「ええ。会長がそれを知り松井先生と和睦しようと、もう一度先代に進言した時には、既に紅花会さんに移籍してもうてまして」
こいつは何もわかっていない。
母里が放った一言に岡部は苛つき睨みつけた。
「母里さん。その時点で松井くんは無所属だったんですから、移籍ではありませんよ!」
「紅花会からしたら所属でしょうが、我々からしたら移籍なんですよ!」
「……つまり追放などしていないと?」
岡部の指摘に母里は黙ってしまった。
母里としても、岡部の言いたい事も指摘も十分わかってはいるのだろう。
その上で会派としての体裁を重視しようとしているのだろう。
「会長は土肥で研修している時から松井先生に目を付けとったんです。そして会長になった今、過去の会派の過ちを悔いて、松井先生と新たな会を作って行こうとしとるんです」
「ならば何故、その悔いねばならない過去を『退会』という言葉で繕ったんです? そんな事したら懺悔にならない事くらいわかりますよね?」
岡部の指摘に母里は口を真一文字に結んだ。
「あの会派追放の話は、会内では『退会』いう事で公表されてもうてるんです。そやから、会内の事を考えたら、ああ言うしかなかったんですよ」
「つまりは、松井くんの信用回復より、会内の整合と?」
「……松井先生も、説明すればわかってもらえると信じてます」
母里がどう考えているかは知らないが、この時点で岡部の中で交渉は決裂した。
「僕としては、大切な同期を口先だけの会派に引き渡す気はさらさらありません」
「口先だけかどうかは、この先をみていただけたら!」
岡部は小さくため息をつく。
「母里さん。あなたは何の担保も無しに大金を貸せるんですか? それも、一度踏み倒された相手に」
「貸すんでは無く、投資やと考えていただきたいのですが……」
「魅力的な銘柄じゃないって言ってるんですよ!」
横で十河が不安そうな表情で、岡部と母里の顔を何度も見ている。
母里も大きくため息をついた。
「どうしたら信じていただけるんでしょうか……」
「先に嘘を公表して信用も信頼もかなぐり捨ててきたのはそちらでしょ?」
「つまり、我々は初手で致命的な誤りをしてしまったいう事ですか……」
かなり絶望的な表情をして母里はうなだれた。
「紅花会には、今の樹氷会さんに心を動かされる人は、残念ながら誰もいないと思いますよ。皆、松井くんの味方ですから」
「会長も怨んどるんですよ。贔屓にしとった先生を無下に切り捨てた先代を……」
「新会長が目をかけてくれてるという事は、私も松井くん自身の口から何回も聞きましたよ。それだけにあの一言は最悪でしたね」
今の樹氷会には一切交渉の余地は無い。
しかもわずかながら光明はあったのに、それも自分たちの手で塞いでしまった。
これまでの会話で母里はそう受け取った。
「本社に帰って、会長ともう一度検討しなおしてみます」
貴重なお時間をいただいて、ありがとうございましたと言って、母里は厩舎を後にした。
よろしければ、下の☆で応援いただけると嬉しいです。