第56話 熱田
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(八級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・巻光長…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、内田、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・跡部資太郎…白詰会の調教師(八級)
・香坂郁昌…跡部厩舎の専属騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
朝早くに最上夫妻を迎えに行き、前回金刀比羅に行った大型車で東海道高速道路を東に向かっている。
相変わらず菜奈の横に誰が座るかで揉めた。
前回と違い今回は菜奈が普通にお喋りをするので、最上もあげはも頑として横の席を譲らなかった。
最初、直美が助手席に座り、梨奈は後部座席で寝ていた。
一度、柘植の休憩所で休憩をとり、再度車を走らせたところで菜奈が起きた。
誰に似たのか菜奈は非常に寝起きが悪い。
起きて早々に大泣きしだした。
後部座席から梨奈がどうしたのと言って菜奈の顔を覗き込むと、菜奈は泣き止み逆に笑い出した。
その後は「じいたん」「ばあたん」と二人を呼んで、二人に何かを話しかけている。
車は鈴鹿まで走り、休憩所で朝食を取る事にした。
最近菜奈は普通の食事がとれるようになってきている。
こういう場合、梨奈が小食なので自分の分を菜奈に別けて与えている。
ただ梨奈は食の好みが非常に渋いため、好みがうつらないか直美が心配している。
それを言うと、自分の食の好みはいたって普通だと梨奈が怒る。
今回も岡部と直美がとんてきを、最上夫妻がてこね寿司を食べている中、梨奈はさんま寿司を食べていた。
初めてみる料理が気になり岡部は梨奈と少し交換。
思った以上にさんま寿司は美味しく、こっちにすれば良かったとさえ感じた。
義母さんと梨奈の好みが違うから、奈菜の好みの問題は大丈夫なんじゃないかと岡部は笑った。
鈴鹿を発って、桑名、稲沢を経て、熱田で高速道路を降りる。
神宮近くの駐車場に車を停め、熱田神社へ向かった。
熱田神宮の周辺は完全に住宅街で、その中に木が生い茂る自然豊かな神宮が鎮座している。
正門から入ると巨大な鳥居が建てられており、先に左手の別宮を参拝。
別宮を出ると直美が熱田神宮の説明を始めた。
「ここにはね。天皇さんが即位する時の剣が祀られてるんよ」
『三種の神器』って知ってる?と直美はたずねた。
剣と鏡と宝石と岡部が答えると、情報が大雑把すぎると言って直美も梨奈も爆笑であった。
『雨叢雲剣』『八咫鏡』『八尺瓊勾玉』の三つで、『八咫鏡』は伊勢神宮に、『八尺瓊勾玉』は皇都の御所に祀られている。
「じゃあここ、剣が御神体って事なんですか?」
「そやね。全国でも珍しいと思うな」
三種の神器は天皇陛下即位の際に持ち出されるので、その際は御神体が無くなってしまうという稀有な神社だと直美は笑った。
「でも剣が御神体って事は、戦勝祈願とかの御利益がありそうですよね」
「そやろ! 今の綱ちゃんにはぴったりやと思うんよ」
それを聞いた最上が何の話だとたずねた。
すると岡部は少し不満そうな顔をする。
「僕の運が最近悪いってこの二人が言うんですよ」
その岡部の態度に最上とあげはは大笑いした。
確かに今年のあなたはちょっとねとあげはが言うと、最上も賛同した。
長い長い玉砂利の参道を菜奈の手を引いて歩いていると、中間の鳥居まで来たところで菜奈が抱っこと言いだした。
しゃがみ込んで、向こうまで歩こうねと言ったのだが、いやいやと駄々をこねられてしまった。
最近奈菜はよくこういう態度を取って梨奈に叱られている。
また始まったと梨奈が苛ついた顔をし、奈菜が泣き出しそうな顔をする。
そんなに父さんと一緒に歩くのが嫌なのと岡部が優しく聞くと、菜奈は口を尖らせて首を横に振った。
じゃあ一緒に歩こうと微笑むと、菜奈は今にも泣きだしそうな顔で渋々本宮前まで歩いた。
参拝を終えると岡部は菜奈を抱っこし、よく頑張ったねと言って頭を撫でた。
嬉しそうな顔をして菜奈は岡部の首に抱き付いた。
それを見て最上とあげはも、頑張ったね、偉いねと言って菜奈の頭を撫でる。
それで恥ずかしくなったらしく、菜奈は岡部に強く抱き付いて顔を隠した。
熱田神宮を出て一行は近所の鰻屋に入った。
五人分のひつまぶしを注文すると間もなく鰻のたれの焦げた匂いが店中に広がり、五人の空腹な胃袋を強く刺激。
あげはと梨奈は取り分け用の器に自分の分を別け菜奈にあげた。
匙で不器用に食べ始めたのだが、菜奈にはどうにもタレが辛いらしく嫌な顔をする。
ひつまぶしには色々な食べ方があるからと、あげはが出汁茶漬けにしてあげると、菜奈は嬉しそうに食べ始めた。
「ここに食べ方って書いてあるんですけど、食べ方なんあるんですか?」
そう梨奈があげはにたずねる。
初めて食べるのかとあげはが聞くと、隣の岡部も初めてだと言いだした。
ちらりと最上の膳を見て、あなたも食べ方を知らないのねと、あげはは笑い出した。
「まずはこうして四つに区切って、その一角をそのまま味わうの」
ふむふむと岡部たちだけじゃなく最上も真似をする。
「次に薬味を乗せて次の一角を食べるの」
僕はこっちの方が好きですねと言って岡部はご飯をかき込んだ。
「三杯目は出汁茶漬け、最後の一角は、一番気に入った方法で食べるのよ」
出汁茶漬けを食べてしまうと次に普通のは食べれないと、最上は残りは出汁茶漬けにしてしまった。
私も出汁茶漬けが良いと梨奈も同じく出汁茶漬けにしてしまった。
「お店によってどれが美味しいっていうのがあるから、毎回こうして試すのがお薦めなのよ」
昼食を取り終えると菜奈はお昼寝の時間になってしまった。
本当なら菜奈のために水族館に行こうとしていたのだが、急遽、予定を変更することにした。
まずは車で桑名に行き名物の蛤を食べることに。
その後、長島に有名な温泉があるという事で温泉に入る事になった。
その頃には菜奈もお昼寝から起きており、元気一杯に風呂場ではしゃいでいたらしい。
「松井くん、大丈夫ですかね……」
温泉に浸かりながら岡部が呟いた。
「樹氷会だろ。小寺さんの孫は自分たちのやったことが、どれだけ松井先生を傷つけたかわかってないのかな?」
「どうなんでしょうね。まさか大した事ないとでも思ってるんですかね」
だとしたらそれはそれで大問題だと最上は渋い顔をする。
「もしそうだとしたら、そんな薄情なとこには絶対に松井先生は渡せんな」
「同感です。ただ、もし説得を向こうからお願いされたらどうします?」
「ふざけんなと追い返す!」
最上は即答だった。
岡部は鼻を鳴らした。
「では、もし説得しなければならないような条件を出されたらどうします?」
「難しいところだな。だが私個人としては松井先生を手放したくは無い。彼はとても気持ちの良い青年だ。あいつらには勿体ない」
「僕もそう思います。ですがどこからも連合の誘いがかからなかったのを見ると、樹氷会は今後間違いなく先細りするんですよね……」
今回の件の結果いかんでは、先細りは致命的な事になるかもしれない。
岡部の指摘に最上は唸り声をあげた。
「どの会派も松井先生の件は知ってるからなあ。確かに手は差し伸べんだろうな。私から言わせてもらえば自業自得としか言いようが無いんだがな。自分達の冷酷な態度が招いた結果なのだから」
「松井くんならその会の雰囲気を変えてくれるかもと、期待する気持ちもわかるんですよね」
「それを松井先生にやらせるってのか? 自分らでやれ自分らで。その後でどうしても松井先生の助力が欲しいというなら、そこでお願いしに来いって言うんだよ」
最上はそう言い放ったが、岡部は何か言いたげな顔で無言で最上を見た。
「私は自分でやったぞ。例外は久留米の件くらいなもんだ」
あの件は手足となるはずの部署まで共犯で、まともに聞こえる報告しか上がって来なかったからどうにもなかったと最上は言い訳した。
「この件も、彼らにしてみたら僕たちの久留米の件みたいなものなのかもしれませんよ」
「ならばだ。せめて松井先生が八級に上がった時に言ってくるべきだったんだよ。呂級に上がってから言ってきたら、良い調教師みたいだからよこせと言ってるようなもんだろう」
「……ごもっとも」
岡部は流れた汗を湯で洗い流し、天井を見上げた。
「先ほどから聞いてると、もしかして君は向うに同情的なのか?」
「……もしかしたら、そうなのかもしれません」
「何故に? 君の大切な同期にあんな仕打ちをした会派なんだぞ。それも、たかだか執行会の会長選を邪魔されたというだけで」
今思い起こしても正気の沙汰じゃないと言って最上は憤った。
会派の社員は会長の私物じゃないのだと。
「実はそんな中にあって、唯一松井くんに好意的に接してたのが新会長なんですよ。だから、松井くんは新人賞が取れてるんです」
「そうだったのか。なるほどなあ。確かにそれを知ってしまうと、あの新会長の印象が少し変わるかもしれんな」
「そうなんですが、それはそれとして、あれを退会と公表したことは許すわけにはいきませんね」
困った問題だと二人は言い合って、大きくため息をついた。
温泉を出た一行は、四日市のまぐろ加工で有名な店に行った。
併設の食堂で食事を取る事になったのだが、最初はまるで学校の給食のような雰囲気に味もハズレを覚悟していた。
だが予想をはるかに上回り非常に絶品であった。
これで米酒があればいう事がないと、最上、あげは、直美が口を揃えて言った。
食後、あげはも直美も、米酒の良い肴になると冷凍品をしこたま買い込んだ。
岡部はたたきが好きで、これをネギトロにするんだと大喜びだった。
最上は最上でやわらか煮を買い込み、帰ったらこれで米酒呑むんだと嬉しそうにした。
帰りの車の中は、誰も一滴も酒を呑んでいないのに運転手の岡部以外全員ぐっすり眠りこんでいた。
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