第55話 十河
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(八級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・巻光長…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、内田、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・跡部資太郎…白詰会の調教師(八級)
・香坂郁昌…跡部厩舎の専属騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
十月の定例会議が開催された。
参加者は内田、服部、石野、新発田、荒木。
九月の一か月間の成績で、最初の新竜の格付けが発表になっている。
西の横綱は『サケショウチュウ』。
東の横綱は三浦厩舎の『サケメイワ』。
西国の大関は杉厩舎の『サケチタセイ』となっている。
格付けの上位四頭のうち三頭が『サケセキラン』の産駒である事にかなり驚かされる。
「現役時代を考えて、かなり早熟性の強い種牡竜になるかもとは思っていたけど、まさかこれほどとはねえ」
「今頃、稲妻はかなり焦っとるでしょうね。ご自慢の産駒が東国の大関止まりやなんて」
嬉しそうな顔をして荒木は服部と笑いあっている。
「来年、種付け頭数を絞るらしいよ。外への種付け料をかなり高額にするんだって」
「そんなん、競りでの金額が吊り上がるだけで何も意味無いのに」
いくら払ってでも活躍する竜が欲しいという需要がある以上、種付け料を高騰させるのはあまり意味はないというのは、競竜の競りの報道で度々言われている事である。
単なる話題作りの一助にしかならないと。
「再来年から徐々に第二世代狙いに切り替えるでしょうから、急場の策でしょ」
「『ショウチュウ』も同じくらい人気になれると良えんですけどね」
牝系が良いから、他の産駒よりは良い種牡竜になるんじゃないかと北国の氏家場長はみているそうだが、果たして。
「ところで服部、『ロウト』はどうだい?」
「決勝まで残れるくらい肉が付いたと思います」
ただ稲妻牧場の精鋭たちとやりあえるかと言われると、さすがにそこまではというのが服部の感触らしい。
「来年やったら、勝負になるとは思うんですけどね」
「そっかあ。じゃあ、来年を楽しみにしておこうかな」
その発言に服部は眉をひそめた。
「来年って、今年の昇級はもう諦めたんですか?」
「だって、来年昇級した方が色々美味しいもん」
どう考えても初の伊級六年昇級の方が偉業な気がするのに、美味しいってなんだろうとその場の全員が首を傾げた。
「六年昇級ったって褒賞が出るわけじゃないしね。今年厳しい状況でギリギリ昇級したって賞金はそこまでじゃないけど、来年だったらがっぽりだよ!」
荒木と新発田と服部で『がっぽり』と言って大喜びする。
それを見て内田が非常に悔しがった。
会議が終わると、電子広場の調教師支援機能の一部試作ができたと光定から連絡が入った。
光定に説明されるがままに試験用の会員番号と暗証番号を入れると、広場の何も無かった場所に『調教師広場』というボタンが表示された。
それを開くと、すぐに梨奈が意匠したとわかる硝子細工のような美麗な画面が表示された。
「これ、どこまで使えるんですか?」
「先生から早急にとご希望の『親睦広場』の他に『会計管理』『給与管理』『調教管理』機能を取り急ぎ作りました」
しばらく岡部は電脳の指示器を動かしながら、何度もなるほどと呟いた。
「微妙に使いづらいですね……」
率直すぎる感想に光定は思わず笑い出した。
「そりゃそうですよ。うちらは先生の仕事を想像しながらそれを作ったんですから。ここをこうして欲しいっていうのは、右上に『改善要望』って項目があるので、そこで申請してもらえれば」
「これか……これって、そっちに電子郵便を送る機能なんですか?」
「そうですね。それ専用の私書箱に届くようになってます」
ふむふむと呟きながら岡部はかちかちと音を立て入力装置を操作。
その間光定は電話先で無言で待った。
「今月ひと月使ってみますので、できれば来年くらいには、今の機能だけでも公式に解放して欲しいですね」
「来年と言わず、大きく問題が無ければ来週でも良いですよ。修繕はその都度やれますので」
そうなんですねと一度は頷いた岡部であったが、そこからの歯切れが悪かった。
「こういうのに慣れてない人だと、最初に使いづらいって思ちゃうと、その後も使ってもらえなくなったりはしませんかね?」
「ああ、なるほどねえ。確かにそういうのはあるかもですね。じゃあ、先生の会員番号だけ機能解放しますので先生の方で合否判定出してくださいよ。要望は毎日精査して修正かけますから」
ではよろしくお願いしますと言って岡部は電話を切った。
その後一人で電脳を使って、いくつかの修正要望を送信したところで、昼休憩を終えた十河が荻野と共にやってきた。
荒木と内田を呼び、人数分の珈琲を淹れてもらい、五人で会議室へと向かった。
集まった顔ぶれで何の話かの想像は付いている。
それだけに誰も口火が切れなかった。
最初にその沈黙を破ったのは十河だった。
「先日の樹氷会の会長の言うてた調教師って、松井先生の事いうんは、ほんまなんですか?」
「それ、誰から聞いたの?」
「最初に聞いたんは杉厩舎の吉弘さんです。その後、服部さんに聞いたら服部さんも」
荒木にしても内田にしても、久留米時代の大量尾切れ事件を間近で見てきている。
その際、松井が会派を追放になったという事も当然知っている。
十河は事件の事を知って、そこから立ち直った松井に憧れて厩務員になったと以前言っていた。
だがこの感じからすると会派追放の詳しい経緯までは知らないのだろう。
「ほぼ間違い無く僕も松井くんの事だと思ってる。恐らくあの感じだと、松井君の呂級昇級が決まった段階で会長交代しようって決めていたんだと思うな」
「ほな松井先生、樹氷会に行ってまうんですか?」
「さあねえ。先日うちに来たんだけど、松井くんも、かなり悩んでたよ」
岡部が小さくため息をつくと、つられて内田と荒木もため息をついた。
「そやけど、吉弘さんから聞いた話やと松井先生、樹氷会に酷い扱いされて紅花会に来たんですよね。そない悩む必要なんて……」
それはそうなんだけどねと、岡部はため息交じりに言った。
「もし松井くんが樹氷会に戻ったら、十河はどうするんだ?」
「私どうしたら良えか……」
十河が泣きそうになってしまい荻野に頭を撫でられる。
それを相談しに来たんですと荻野が代わりに言った。
「僕は、君を松井くんから預かっていると思っているから、君が松井くんの元に帰ると言うなら止める事はしないよ」
「私……松井先生に、このまま紅花会にいて欲しい……」
「僕もそうは思うんだけどね。当人だけの問題じゃないからね」
荒木も内田も何となく状況を察するらしく、でしょうねと声を揃えて言った。
すると、当人以外に何の問題があるんですかと荻野がたずねた。
「樹氷会がダメだってことを、恐らく一番知ってるのが松井くんなんだよ」
だから松井くんは性格的に放っておけないんだと岡部は説明した。
だが荻野は納得がいかないらしく、だからってそれを松井先生が何とかしなければならない義理は無いと怒り出してしまった。
この五人の中で唯一何も知らないのが荻野である。
何なら荻野は松井の事も太宰府で少し会った程度しか知らない。
何も知らない人からしたら、あまりにも理不尽な話に感じるのだろう。
「仁級を共にした荒木さんたちならわかると思うんだけど、ダメな状況を放置すると後進に被害が及んじゃうんだよ」
岡部は具体的な事は言わなかったのだが、荒木も内田も、及川たちの事だとすぐに気が付いた。
確かにそうですねと荒木が渋い顔をする。
他の会派の事じゃないですかと、納得がいかないという感じで荻野は声を荒げた。
すると、そうなると他の会派にも影響が及ぶ事になるんだと、荒木が強い口調で諭した。
「松井くんも、仁級の時、僕の横でその状況を見てきているからね。樹氷会がそうなる事を危惧してるんだと思う」
「松井先生、可哀そう……酷い事された会派と縁が切れへんやなんて」
今にも泣き出しそうなか細い声で十河は言った。
「心の優しい人だからね。松井くんは」
困り顔で岡部がそう言った事で、岡部は内心では樹氷会に行く事に反対なんだと十河と荻野も察した。
「まあ、今すぐ樹氷会に移ると決まったわけじゃないんだ。どうするかはゆっくりと考えたら良いよ。前も言ったけど、調教師は重要な決断を強いられる仕事だからね」
「あの……先生のお薦めはどっちなんですか?」
「僕の立場で紅花会以外を薦めるわけないだろ。僕は筆頭調教師だぞ」
荒木も荻野も、そりゃそうだと笑い出した。
「そしたら質問を変えます。先生は、どっちの味方なんですか? 松井先生の味方ですか? 樹氷会の味方ですか?」
「そうだなあ。そこが対立するなら、これまで同様同期の味方をするよ。というか当面は松井くん側に立って、あの会派には冷酷に対応するつもりだよ」
すると荒木が、何にそんなに腹を立ててるんですかとたずねた。
「あの会長が重大な嘘をついたからね。僕は、あの嘘だけは絶対に許さない!」
十河に笑みを向けると荒木は、そういう事だそうだと微笑んだ。
十河も荻野も意味がわからず首を傾げる。
すると荒木は鼻を鳴らし、当面は松井先生が樹氷会に行くことは絶対に無いから安心しろと笑い出した。
一週目、『サケロウト』は『天狼賞』の予選に出走。
発走機が開くと『ロウト』は、かなり良い発走をした。
先行脚質の『ロウト』は、特に先頭は主張せず逃げ竜を行かせると、その後ろにピタリと位置取った。
曲線に入っても内でじっくりと脚を貯め続ける。
四角を回り直線に入ると、服部はやっと追い始めた。
『ロウト』は残念ながらあまり脚が切れる方では無く、じりじりと伸びていく。
だが直線半ばで最高速に達すると、もはや周りは付いては来れず、かなり差が開いた。
最後は流すように終着した。
「この仔に、あの戦術は合わないと思うんだけどなあ」
検量を終えた服部に、すぐに岡部はそう指摘した。
「そしたら、先生は、どう乗ったら良えと思うてるんです?」
「もっと前から加速って始められないの?」
岡部がそう指摘すると、服部は少しバツの悪そうな顔をする。
「……これでも試行錯誤して、かなり前から加速始めてるんですけど」
「思い切りが足らん! 負けても良いから、もっと自信もってやれよ! じゃないと来月は……」
「ちょっとちょっと! そしたら次走を見ててくださいよ。先生の言う通り、乗ってみますから」
慌てる服部を見て十河がクスクス笑った。
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