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【完結】競竜師  作者: 敷知遠江守
第五章 課題 ~呂級調教師編(前編)~

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第54話 樹氷会

登場人物

・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)

・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女

・岡部菜奈…岡部家長女

・戸川直美…梨奈の母

・戸川為安…梨奈の父(故人)

・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」

・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将

・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫

・大崎…義悦の筆頭秘書

・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長

・加賀美…武田善信の筆頭秘書

・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長

・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定

・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ

・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和

・大宝寺…三宅島興産社長

・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆

・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)

・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)

・松井宗一…紅花会の調教師(八級)

・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)

・服部正男…岡部厩舎の専属騎手

・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手

・荒木…岡部厩舎の主任厩務員

・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手

・巻光長…岡部厩舎の調教助手

・垣屋、花房、阿蘇、大村、内田、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員

・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員

・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員

・跡部資太郎…白詰会の調教師(八級)

・香坂郁昌…跡部厩舎の専属騎手

・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)

・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手

 十月に入って早々に、競竜界に衝撃的な情報が駆け巡った。

樹氷会の小寺(こでら)保職(やすもと)会長が辞任したのである。

西国八級の『菊花杯』を松井厩舎が制し昇級を決めた、その数日後の出来事であった。



 ――樹氷会は小寺鉄工所という福原の鉄鋼加工の町工場から始まっている。

町工場といってもそこそこ大きな工場で、経営は極めて順調であった。

ところが世の景気が悪くなった際に、経営が立ち行かなくなってしまった事があった。


 その時、偶然一人の騎手から(あぶみ)の作製依頼があった。

鐙は何種類か既製品があったのだが、どれもその騎手にはしっくりきていなかったようで、自分用の鐙を作ってしまいたいと考えたらしい。

いくつかの鉄鋼加工の工場に相談し、最も親身になってくれたのが小寺鉄工所であった。


 その鐙でその騎手は成績を向上させた。

するとそれが福原の騎手たちで話題になり、多くの騎手から注文を受ける事になった。

その後、蹄鉄の生産も受注することになり、倒産間近だった経営は完全に立ち直ることになった。

当初は鉄製品だけだったのだが、徐々に皮製品、布製品も生産するようになっていった。


 こうした縁で先代が竜主の資格を取得する事になった。

 ところがある時、竜主の会派化が規約で決まった。

先代の会長もそれに合わせ、『樹氷会』という会派を設立する事になった。

『樹氷』は、先代会長の出身地である近江郡東部の冬の風物詩であるらしい。


 ところが、今度は競竜場からの竜具の受注生産が、公正競争の観点から問題される事になってしまった。

工場は大口の取引先を失うことになり、いきなり倒産の危機に直面することになる。

公正競争の観点は極めて重要としながらも、収入源である工場の仕事を奪って会派を潰すというのは、それはそれで問題があるという意見が竜主会の会議で出た。

他会派の協力で北国や南国の牧場に竜具を卸させてもらい、何とか倒産は免れる事になった。

だが主力の工場がそんな状況なため、樹氷会は資金力不足でまともな会派運営ができなかった。


 若き工場長だった息子の保職は、今まで作っていた製品を毎日眺めていて一つの決断を下した。

竜具の生産を縮小し、寝具と家具の生産に切り替える事にしたのである。

保職自らあちこちの旅館に営業に出向いた。

各会派にも協力してもらい従業員に寝具や家具の目録を配ってもらった。

竜もまともに買えない程に逼迫していた運営状況は、それを機に徐々に上向いていく事になる。


 先代が亡くなり保職が会長になっても会長自ら営業を続け、寝具と注文家具では最大手と言われるまでに成長した。

木材加工工場と紡績工場を所持している関係で、各会派から応援商品の生産依頼を受ける機会も増えた。

紅花会も、ぬいぐるみや、手ぬぐいなどをよく生産してもらっている。


 資金的に多少余裕の出始めた樹氷会は、一人の調教師の活躍により一気に飛躍することになる。


 その調教師、山中(やまなか)幸一郎(こういちろう)は、まさに天才だった。

その運営方針は冷酷そのもので、希望を感じない竜はどれだけ高額の竜でも見向きもしない。

ならばと保職は山中に競りに来てもらい、気に入る竜を選んでもらった。

保職も山中が良いと言えば、金に糸目を付けずに購入に踏み切った。

こうして山中は、開業からわずか十年で伊級に昇級する事になった。


 だが、その山中が五十代で病死すると、樹氷会には何も残らなくなってしまった。

同時期に活躍していた紅花会の斯波調教師もそうだったのだが、山中も後進育成にも会派の運営にも一切興味が無かった。

唯一残ったのは、その冷酷な切り捨て理論の厩舎運営の方針だけ。

保職も山中を見習って同じ方針で工場を運営しており、会派の風土として人材育成という事がないがしろにされ続けた。

そのせいで良き人材が育たず、徐々に樹氷会は規模を縮小していき、現在に至っている――




 昼から新会長就任の会見の中継放送があるという事で、食堂には多くの厩舎関係者が詰めかけていた。

岡部も荒木や内田と共に、杉や弘中主任とともに食堂に出向いた。


 福原の樹氷会本社の大会議室に新会長である小寺職太郎(もとたろう)が現れた。

司会の説明によると、職太郎は保職会長の孫で現在三五歳。

これまでずっと本社の社長として保職会長を支えていたらしい。


 説明が終わると、新会長の挨拶が始まった。


 最初に自分の経歴などを話し、今回、突然会長が交代になった経緯を話した。

交代の理由は昨今の会派合従の流れに前会長の保職が付いて行けず、このままだと会内の調教師に迷惑がかかってしまうと危惧したから。

職太郎が会長交代を迫り、保職が承諾した事で今回会長交代という運びとなったと報告した。


 そこまでは、初めて耳にする内容ではあるものの、よくある話だと岡部は感じていた。

だがその後に語られた、今後の会の運営方針の部分で、ちょっとした問題発言があった。


「我会派には、かつて山中幸一郎先生という偉大な調教師がいました。この先生の活躍により会は躍進を遂げ、現在に至る発展の礎となっています」


 この時点で実は岡部は少し嫌な予感がしていた。


「そこで会長に就任して、まず最初に私が行わなければいけないことは、第二の山中先生を見つけ出す事ではないかと考えています」


 まさかね、岡部はそう呟いた。

荒木と弘中が同時に岡部の顔を一瞥する。


「かつて樹氷会を退()()()()ある先生を説得し、樹氷会に戻ってもらい、その先生と共に樹氷会にもう一度光を当てて行こうと考えています」


 お前らが追い出しておいて『退会』とは何だと、武田が立ち上がって大声で叫んだ。

そのせいで『ある先生』が松井の事だと調教師たちの多くが気が付いた。

西国呂級の調教師であれば、久留米の一件を耳にしていない人はいないであろう。

周囲の人達も、なんなんだこの会長はといきり立ってしまった。


「今、複数の会派で会長が世代交代し、調教師にも若き俊英が活躍し出した昨今、樹氷会も周囲の会派と連携し、少しでも会を大きくできたらと思っています」


 新会長の挨拶が終わると、岡部は静かに目を閉じ眉を掻いた。

 またひと悶着起きる、そんな嫌な予感が岡部の呼吸を少し苦しくさせた。



「俺が松井やったら、絶対戻らへん」


 岡部厩舎にやってきた杉が、珈琲を飲みながら不機嫌そうに言った。


「松井くんも今頃、頭抱えてるでしょうね」


「もう松井とこには話はいっとんのかな?」


「どうなんでしょうね。少なくとも僕は全然聞いてません」


 筆頭調教師が聞いていないという事は、つまりは会長同士の交渉となり、それはすなわち引き抜きという事になる。

その後の影響を考えると、岡部としては、それだけは避けたい。


「お前やったら戻るか?」


「どうでしょうね。立場が違うので何とも。ただ、松井くん自体は、樹氷会に良い印象は持っていないとは思います」


「一番しんどい時に、手ぇ払われたんやで。俺やったら一生怨むわ」


 自分の事のように憤って杉は右手をぎゅっと固く握った。

ですよねと同調して岡部も珈琲を飲んだ。


「そもそも松井くん、厩舎も追い出される形で調教師になったんですよね」


「そんなんやったら、戻る要素なん何一つ無いやんけ」


 普通、会派に調教師が留まる理由は二つ。

出身厩舎がその会派だからという場合と、会派そのものに恩がある場合。

杉の理由は前者が大きく、岡部の理由は後者が大きい。

松井にはそのどちらもが無く、おまけに紅花会にもう移籍してしまっている。


「ちょっと調べたら、わかりそうなもんですけどね。あの会長は、どこに可能性を見出したんでしょうね」


「ポンコツなんちゃう?」


「可能性はあるかもですけど、何か引っかかるんですよね……」


 顎に手を当て、岡部は流し目で考え込んだ。


「ほな、あの会長には、松井を引き抜ける目算があると?」


「ここまでの松井くんの話を聞く限り、口説き落とせるとは到底思えませんけどね」


 その時、松井から携帯電話に連絡が入った。

突然だけど今日家を訪ねたいが大丈夫かという話だった。

明らかに松井の声は張りが無く、元気が無かった。

家族でおいでと言うと少し元気になり、そうさせてもらうと答えた。




 その日の夜、松井一家が岡部宅を訪れた。


 松井が小夜の手を引き、麻紀が麻夜を抱っこしている。

松井が梨奈に手土産を渡し客間へ向かった。

小夜は岡部の腕に抱き着いて一緒に客間へ向かった。


 明らかに松井も麻紀も笑顔がかげっている。


 すぐに晩酌の用意をすると梨奈が言ったのだが、私はお酒は今日はと麻紀が断った。

梨奈が心配そうにすると、真面目な話をする時と哀しい気分の時には、お酒は呑まないようにしていると伏し目がちな表情で麻紀は説明した。

酒田の時は呑んでたじゃないかと岡部が指摘すると、あの時は私は関係無かったし、好きなだけ呑ませてくれるって相談役に言われたからと少し笑顔を見せた。

帰りの車の運転もあるからと、結局麻紀は酒を拒んだ。



 酒田から送られた酒をお猪口に移し、直美と松井と三人で乾杯した。

梨奈、麻紀、小夜、奈菜、麻夜は隣の机で夕飯を一緒に食べている。

ご飯を食べ終えると、梨奈は小夜と一緒に菜奈と遊びはじめ、麻紀は麻夜を寝かしつけた。



「あれ、松井くんの事だよね。お昼の樹氷会の新会長の」


 先に話を切り出したのは岡部だった。


「だろうな。本人に何の根回しも無く、よく、ああいう真似ができるもんだよ」


 松井の顔は露骨に気分を害したという顔であった。

目からは少し恨みすら感じる。


「根回しはできてると取り巻きから虚偽報告を受けたか、あるいは……」


「あるいはって、それ以外に何かあるのかよ」


「無理を押し通す交渉術かも」


 松井の空いたお猪口に岡部が米酒を注いだ。

注ぎはしたものの、少し松井の呑む速度が早いのが気になる。


「交渉術って? 少なくとも俺は今のところ不快感しか抱いていないんだが」


「僕も色々考えたんだよね。自分だったらどうするかって。もしかしたら同じ事をしたかも」


 それを聞いて、麻紀がかなり驚いた顔をした。

実は自分も同じ事を感じていたと言って会話に参加した。


「私もね、既定路線にして押し通そうとしとるんやないかて思うたんよ。そやけど、最後は宗君の意思なわけやない? こないな事して、宗君が、うんって言うわけあらへんと思うんよね」


「例えば、松井くんが、うんと言うかもしれない、何か切り札を持ってるとしたら?」


「それやったら宗君の意志を変えさせる事もできるかもやけど……そやけど、うちらあの一年の恨み、まだ忘れてへんよ?」


 麻紀の発言に松井も同調し、無言で大きく頷いた。


「例えばですけど、新会長が家に乗り込んで来て、麻紀さんの前で頭を下げてきたら。それでも麻紀さんは悪態つけます?」


「いや、それは、さすがに無理やけども……」


 いくら恨んでいても、面と向かって本人に悪態つける人は中々いないだろう。

会派追放された当時であればやれたかもしれないが、あれから四年も経った今となっては。


「自分はずっと松井くんを買っていたんだ。それなのに先代はあんな酷い事を。だからあれからずっと先代と衝突して、今回ついに追い出す事になった。そう言われたら?」


「岡部さんやったら、そういう交渉するんや……」


「そう言って麻紀さんを味方につけると思う」


 その岡部の一言に、麻紀ははっとした顔をする。


「そうか! 私が怒ってへん言うたら、宗君も交渉に乗りやすいかもいう事なんや!」


 確かにそうなったら交渉の席につくかもしれないと松井が言いだした。

もしそういう交渉をされたらどうすると岡部は麻紀にたずねる。


「私は……宗君が紅花会の相談役の恩を忘れるような、薄情な人やないと信じてる」


 そう言って麻紀はきゅっと口を真一文字に結んだ。



「で、さっき言ってた切り札って、君は何だと思っているんだ?」


 不安そうな顔でお猪口を口にして松井が岡部にたずねた。


「いくつか考えるんだけどね。今の麻紀さんので、たぶん最大の札はこれだろうというのは……」


「麻紀ちゃんのって……相談役か!」


「うん。もし相談役が説得に来ても、突っぱねられる自信ある?」


 苦悶の表情で松井は口ごもってしまった。

麻紀も端正な顔を歪ませて苦しそうにする。


 松井が岡部のお猪口に米酒を注いだ。


「君の方はどう思ってるんだ? 筆頭調教師として今回の事を」


「同期としてじゃなく、筆頭としての意見を聞くんだね」


「同期としてなら、反対と言ってくれるに決まってるからなあ」


 それを聞くと麻紀は微笑みを浮かべた。

悩みながら田楽を一口口にし、岡部は米酒を呑んだ。


「『筆頭として』というなら、交渉条件によると思うな」


「例えば、どんな条件を?」


「赤根会や火焔会のように、紅花会を盟主にした盟友になりたい」


 それを聞くと松井は、「そういう事か!」と大きな声をあげた。

びっくりして小夜と菜奈まで松井を見る。

それに気づくと小夜たちに優しい顔を向けて、ごめんごめんと謝った。


「そうか! 盟友になるために盟主の筆頭調教師と仲の良い俺を筆頭調教師に据えたいのか!」


「松井くんが意地を張らなければ、多くの人に恩恵がある……なんて言ってくるかもね」


「ああ……俺は一体、どうすれば良いんだ……」


 松井は頭を抱えて悩み始めてしまった。

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