第37話 諮問
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(呂級)
・岡部梨奈…岡部の妻、戸川家長女
・岡部菜奈…岡部家長女
・戸川直美…梨奈の母
・戸川為安…梨奈の父(故人)
・最上義景…紅花会の相談役、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の会長、義景の孫
・大崎…義悦の筆頭秘書
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・大宝寺…三宅島興産社長
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師(八級)。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・杉尚重…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(八級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(呂級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・石野経吾…岡部厩舎の契約騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・新発田竜綱…岡部厩舎の調教助手
・巻光長…岡部厩舎の調教助手
・垣屋、花房、阿蘇、大村、内田、赤井、成松…岡部厩舎の厩務員
・十河留里…岡部厩舎の女性厩務員
・荻野ほのか…岡部厩舎の女性厩務員
・跡部資太郎…白詰会の調教師(八級)
・香坂郁昌…跡部厩舎の専属騎手
・栗林頼博…清流会の調教師(伊級)
・松下雅綱…栗林厩舎の契約騎手
翌日、朝早く一同は紅花会本社の会長室へ詰めかけた。
岡部と松井は大崎と共に大会議室へ向かい、総務部の松根部長と共に事前打合せを行った。
松根はいつものように長方形状に机を並べ椅子を配置したのだが、岡部がこうでは無いと言い出す。
岡部が指示した机と椅子の並びを見て、大崎と松根は顔が引きつった。
「態度には出してないですけど、先生もかなりご立腹ですね」
「たぶん他の誰よりも怒っていますよ。うちの厩務員たちが手塩に掛けて可愛がった竜にあんな事されたんですからね」
岡部は怒ると口調の抑揚が少なくなる。
そのせいで大崎と松根は背筋をぞくりとさせた。
「三姉妹も、そうとうご立腹だと伺いましたが?」
「本社もなんでしょ?」
「みんな大盛り上がりでしたからね。また会社に残って視聴会やろうって。福利厚生で酒代を出そうとまで」
会場作りをしている社員たちが不機嫌そうな顔で大崎を見て何度も頷いている。
大崎たちが会場つくりをしている横で、松根たちは座席表を作成している。
どちらもが終わると、受付から山野辺到着の報がもたらされた。
先に最上たちが会場入りした。
足を踏み入れてすぐに、最上と義悦は鼻を鳴らす。
こういうことするのは岡部だろうと言い合った。
参列者は松根の部下に促され各々の席に座った。
一通り席に着いた参列者を見渡して義悦が、隣の席の大崎と斜め前の席の岡部を入れ替えさせた。
一同が不機嫌そうな顔で席についていると、山野辺たちが案内されて入ってきた。
入って早々、参列した顔ぶれに山野辺は顔が引きつった。
山野辺も幾人かの部長は参列するだろうと思ってはいた。
なのでそれなりの人数を引き連れてきた。
ところが、いざ来てみたらほぼ役員会議の様相であった。
よく見ると農園の安東社長まで出席している。
当てが外れた山野辺は歯噛みした。
さらに座るように促された席がコの字の中央、机が無く椅子だけの席であった事に、さらに歯噛みした。
完全に犯罪者扱いであった。
「これは、どういうことでしょうか?」
山野辺が引きつった顔で義悦に問いかける。
「聞きたいのはこちら側だ。とっととはじめろ!」
義悦ではなくその隣に座っていた最上がそう命じた。
その声は非常に威圧的で、その眼光はとても鋭かった。
気圧された山野辺は部下に報告するよう促す。
部下は鞄から紙を取り出し、それを読もうとした。
ところが最上がそれに待ったをかけた。
「おい、山野辺! 私はお前に報告しろと言ったんだよ! それとも何か? 相談役になった私の命はもう聞けないか?」
最上の横では、義悦が汚物を見るような目で黙って山野辺を見ている。
岡部は義悦の隣で静かに目を閉じている。
「……失礼いたしました」
部下から紙を受けとった山野辺は、それを途中何度もつっかえながら、なんとか全て読み切った。
その内容は、近年運転手の成り手がおらず確保が大変だという情勢の説明から始まった。
運転手の勤務は激務そのもので、日々、疲労が蓄積しているといった自己弁護がダラダラと続く。
競竜の関係者は突発で依頼をかけてくるので、業務に支障をきたしているという苦情が途中から始まった。
どの厩務員も自分たちを非常にぞんざいに扱うので不満が溜まっているといった厩舎に対する批判もされた。
そんな中、我々は文句一つ言わず業務を遂行してきており、今回大ごとにはなったが、物流業界では良くある類の事故であると締めた。
『良くある類の事故』
この一言に会場の雰囲気は非常に険悪なものになった。
みつばがずっと何かを言いたそうにしているが、事前に最上から何かを言い含められているようで、歯を噛みしめて山野辺を睨みつけて黙っている。
誰も何も言い出さないので、焦った山野辺は噴き出た汗を拭った。
小さくため息をつき、まず岡部が口を開いた。
「山野辺社長。私は報告をするという事でしたので、はるばる酒田まで来たんです。いったい報告はいつから始まるんでしょうか?」
「今報告したではないですか。目を瞑っておられたようですが、居眠りしていたんですかな?」
明らかに岡部を見下した物言いをする山野辺に、いろはたち三姉妹が椅子をガタンと鳴らした。
それを隣に座るあげはが手で制した。
「えっと。していただけるのは事故の報告なんですよね? まさか御社は『報告』というのが何なのか、誰もご存知ないのですか?」
「どなたかは存じませんが、あなたのような若い方より、よほど社会経験豊富な者が弊社には揃っておりますけども」
山野辺が岡部の事を知らないと発言すると会議室内がざわつき始めた。
それに山野辺の部下たちが困惑した。
「御社では、社会経験というのは先ほどのように、多様な言い訳を覚えるということなのでしょうか?」
「ずいぶん口の悪い若造だな。私は相談役と会長に報告をしているんだよ。三下がしゃしゃり出て良い場じゃないんだ。分をわきまえたまえ!」
そう言って山野辺は岡部を睨みつけた。
その言葉に三姉妹が怒って思わず椅子から立ち上がった。
それを最上とあげはが、手で押さえるような仕草をし無言で制した。
「山野辺。本当に彼が誰かわからないのか? それともわかっていてそのような言い方をしているのか?」
最上の指摘に山野辺は部下の顔を見た。
だが部下も首を傾げただけだった。
「我々も会内の人事をそこまで把握しているわけではありませんので。三宅島の関係者の方でしょうか?」
山野辺の言葉に会場内が失笑に包まれる。
先生の知名度もまだまだですねと、小声で大崎が岡部をからかった。
「あの……どなたなんですか?」
その山野辺の発言に、我慢できずに輸送管理部の尾花沢部長がガタッと立ち上がる。
お前たちが今日一番知っていなきゃいけない方だと指を差して怒鳴った。
それでもまだ山野辺たちは誰なのかわからないようであった。
「山野辺さん。さっきから気になってたんですが、その引き連れてきた三下は誰なんですか?」
それまで黙っていた義悦が初めて口を開いた。
本社営業部長、総務部長、運送管理部長、車両管理部長、乗務員管理部長、経理部長、竜運部長、西国支部長、東国支部長。
そうそうたる肩書きの者ばかりであった。
「それだけの重役を揃えて、こちらが誰か誰も知らないと?」
会長である義悦が『こちら』と言った事で、山野辺は会の重鎮である事だけは察した。
問い合わせるかのように部下全員の顔を見たのだが、皆、首を横に振った。
会場からは失笑を通り越して、呆れてため息が漏れた。
「少なくともここに座ってる時点で、三下じゃない事くらいわかりそうなもんだが……」
義悦は怒る気力も失ってしまった。
「名乗りが遅れて大変失礼いたしました。呂級調教師の岡部綱一郎と言います。『サケケアラシ』の管理をしておりました。現在、筆頭調教師を務めさせていただいております」
無表情のまま岡部は両手を胸の前で組んだ。
その尋常じゃない威圧感に山野辺は思わず背筋を正し、額から汗を垂らす。
抑揚の無い極めて冷静な声で岡部は言葉を続ける。
「山野辺社長。私が聞きたいのは『報告』です。ご存じないようなので僭越ながら教示させていただければ、報告というのは事故の原因と経緯、それと今後の対策の事ですよ」
ここに来て山野辺はやっと状況が飲み込めたらしい。
今回の事故の顧客の事を知らないと言ってしまい、ハナから事故調査をする気が無かった事をさらけ出していたのだ。
しかも社長だけじゃなく営業部長以下役員全員が。
大ごとになったからやむをえず出頭しただけな事を、自分達で自白していたようなものだったのだ。
しかもこの若さで呂級といえば間違いなく有名人。
個人的に興味が無いのではなく、竜運業をしているにも関わらず、会社全体が競竜界に疎い事も明るみになってしまった。
さらに筆頭調教師と言えば会派の取締役待遇。
恐らくは昨年行われた就任式で紹介があったはず。
面倒になって、受付だけしてそそくさと帰った事がこれでバレてしまった。
しかもこの若さで自分と同格の地位の人物なのである。
そんな人物を三下などと言ってしまったのだ。
竜運部長、皇都支部長、幕府支部長と順番に見ていったのだが、全員が引きつった表情で首を傾げている。
正面の三名に視線を戻すと、三人とも刺すような視線で自分を見ており、山野辺は完全に目が泳ぎだしてしまっている。
「まだ事故から日も浅く、経緯の方はその……」
おどおどした口調で山野辺は言い訳を始めた。
「報道であそこまで情報が出ているんですよ? 当事者がわからないわけないでしょ?」
「まだ警察からの報告がなく、我々としても、その……」
そう言い訳するのが精一杯という感じであった。
その態度で、今回の事故について現場から情報が上がって来ていないという事を山野辺は暴露してしまったようなものだった。
そんな山野辺を岡部はさらに問い詰めていく。
「運転手は極めて軽傷だと報道は言っていましたが、そこは報道が誤っているんでしょうか?」
「事故から運転手に連絡が取れなくなってしまっていまして……」
適当な言い訳を言い連ねているだけ。
その場の誰もがそう感じた。
徐々に自分が適当にあしらわれているという気分になり、岡部は苛々してきている。
「では、連絡を取ろうとはしているんですね?」
「そう思いますが……」
「山野辺社長! 報告なのですから、憶測では無く事実をお聞かせいただけませんか?」
三下と侮った若造の口から発せられる質問は、一つ一つが山野辺の立場を極端に悪くするものだった。
山野辺はすがるように皇都支部長と幕府支部長の顔を見たが、二人とも恐怖におののいたような顔で首を傾げた。
その酷い体たらくに会場からため息が漏れた。
「では山野辺社長、質問の仕方を変えましょう。今回の事故の原因はどのあたりにあると考えているんですか?」
その質問は山野辺が普段から自社の業務をどの程度把握できているかという事を測るものであった。
「それは、業務繁忙による疲労が大きな原因かと……」
「であれば対策はどのようになさるおつもりですか?」
「なるべく人員を増やして、その為には料金の値上げを承諾していただきたいと……」
参列者から「どの口が」「厚かましい」という声が漏れてくる。
報告なんて建前で、こいつらがここに来た本音はこれなんじゃないのかと小野寺部長が呟くと、運送側の総務部長と経理部長が焦って顔を見合わせた。
「ここからしばらくは、皆さんの胸の内で留めていただきたいのですが……」
そう言うと岡部は一同を見渡していく。
全員が小さくうなずいたのを見て、岡部は言葉を続けた。
「山野辺社長。我々、厩舎の関係者が、あなたたちの運転手を何と呼んでいるかご存知ですか?」
山野辺は無言で首を横に振る。
「『酔いどれ』ですよ」
本社の部長たちが動揺して、ざわついてしまった。
「先日、『ケアラシ』を受けとりに来た運転手も非常に酒臭かったと報告を受けています。これについて、社長であるあなたの御意見を伺いたいのですが?」
「……根も葉もない中傷だと思います」
山野辺は即座にそう述べた。
そんな事実があるわけがないと、それについては自信を持って言えるのだろう。
「では、うちの厩務員が嘘を言っていると?」
「何か証拠でもあるんですか?」
「私も厩務員時代、助手席に麦酒の空き缶があるのを何度も見ました。そういった経験則から厩務員の証言は信用に足ると判断していますが」
すると突然、山野辺がうつむいて体を小刻みに震わせ始めた。
「誹謗もたいがいにしていただきたい! 我々だって呼気検査を毎回行っているんだよ! そんな事があるはずがないではないか!」
「いつの時点で?」
「毎回、出発前だよ! 今まで一度たりとも、それで引っかかった者はいないよ!」
岡部を睨みつけ、山野辺は勝ち誇ったように言ったのだが、岡部は思わず目頭を摘まんだ。
「今、ご自分が仰った事に、自分で何も疑問を感じないのですか?」
「……ど、どういう事です?」
もはや説明するのも馬鹿らしくなってしまい、岡部は呆れ果てた顔をして首を横に振った。
岡部が説明を放棄してしまったので、代わりに大崎が説明した。
「普通に考えて、深酒をしたものがこれまでに一度くらいは引っかかるもんでしょうよ。それが引っかからないという事は、やってるふりをしているだけという事ですよ」
それにはさすがに、支部長二人が納得がいかないと言いだした。
すると大崎は話は最後まで聞けと一喝。
「それと! 出発前しか検査しなかったら、出発してから呑んだ酒はわからないではないですか!」
「ですが我々は、全国運送協会で定められた基準を、きっちり守ってやってるんですよ?」
「底の抜けた基準を盾に誇られても困りますよ! そもそもそれはあくまで基準で、業務に合わせて追加や改修を繰り返して運用していくべきものでしょ!」
基準というのはお前たちの言い訳のためにあるのではなく、事故防止のためにあるんだ。
大崎の指摘に山野辺はぐうの音も出なかった。
「もういい!」
机を両手でバンと叩き、義悦は椅子から立ち上がる。
「山野辺さん。あなたからは誠意が欠片も見られない。会派はもう、あなたのような方を必要とはしない。出て行ってくれ」
「会長に他社の人事を決める権限は……」
真っ青な顔で唇を震わせながら山野辺は指摘した。
だが松根総務部長が席を立ち、すぐに人事課に指示し役員全員を懲戒解雇いたしますと返答。
山野辺を見て、緊急時の役員の人事権は会派本社も持っていると説明した。
役員会議にかけても良いが、今回の件を緊急時と考えない取締役は会派内にはあなたたち以外一人もいないだろうと吐き捨てるように言って会議室を出て行った。
松根の説明に山野辺の随員の部長たちは言葉を失ってしまった。
「尾花沢さん。社長代行として、この後すぐに小田原の本社に行ってください。部下が必要なら各部署に言って連れて行ってください」
尾花沢部長も立ち上がり、わかりましたと返事をした。
「都合の悪い資料を処分されかねないので、人を集めて早急に全国の輸送支部に派遣して監視してください」
色々と本社業務が手薄になりますがと大崎が進言した。
「構わない! 経理と営業だけ生きてれば本社はとりあえずなんとかなる。一気にやってくれ!」
大崎はかしこまりましたと返事をした。
谷柏農務部長が、まずうちの農業支部の職員を派遣しましょうと進言した。
うちも必要とあらば全面協力すると安東社長も申し出た。
義悦が協力よろしくおねがいしますと言うと、谷柏と安東は大きく頷いた。
持たせる書面を早急に作成しますので、後ほど署名をお願いしますと言って大崎が席を立った。
義悦が頷くと大崎と各部長は会議室から出て行った。
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