第16話 挨拶
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(八級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師候補。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(八級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の調教助手
・阿蘇、五島、千々石、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・杉尚重…紅花会の調教師(八級)
・津軽信明…紅花会の調教師(八級)
中傷事件の三日後、執行会会長の朝比奈会長が会見を開いた。
傍らには、数人の弁護士からなる弁護団が控えている。
競技日報社、及び東京競技新聞社による、営業妨害ならびに中傷行為に対し、竜主会と執行会で個別に損害賠償請求をすることにしたと発表した。
さらに労働組合、及び各調教師からも、両新聞に対し個別に名誉棄損の賠償請求を行うことになったと発表した。
その日の夜の報道では、仮に全ての裁判に負ければ、競技日報、幕府競技新聞が負う賠償金額は、親会社の子日新聞や幕府日報まで軽く倒産に追い込むほどの金額になるだろうと報じられた。
防府の会見から報道各社の主張は完全に真っ二つに割れたものになっている。
子日新聞、日進新聞、幕府日報では、競技日報の行動には触れず、言論封鎖や報道の自由の侵害などと、自分達の既得権益が犯されたと喚きちらした主張になっている。
一方、産業日報、かわら新聞、瑞穂政経日報では、競技日報が犯した行為を主記事とし、競竜運営に対し非道な中傷を行ったと、執行会たちが主張した内容のままとなっている。
あの会見での記者の態度は、競竜放送局と競技放送局によって何度も何度も繰り返し放送され、徐々に国民には子日側の主張は身勝手なものと映るようになっていた。
それに対し子日側は、大学教授を番組に出演させ、岡部調教師一人に対して言ったもので組織や全調教師を相手にしたものでは無いと説明させたのだが、中傷行為があったことは認めてしまう形となってしまい劣勢は覆せなかった。
伊級調教師の多くが自分達も同様の中傷を何度も繰り返し受けていると証言すると、子日側は、この件について一切報道しないという態度に方針を変えた。
防府の会見から四日後には、競竜協会の理事長を務める労働党の畠山連合議会議員が会見を開き、これまで公正競争を第一に運営してきた競竜事業に対する重大な中傷が行われたと、競技日報、幕府競技新聞を名指しで非難した。
両新聞並びに関連の新聞は、今後一切の取材を拒否するし、記事の掲載を認めないと宣言した。
これに呼応するように野球、蹴球、闘球といった各球技団体も連名で会見を開き、これまでの数々の中傷行為に対し、競技日報、幕府競技新聞、並びに関連の新聞は、当面、各球技に関する一切の取材を拒否すると表明した。
球技の中には子日新聞や幕府日報が経営に関与している球団もあったのだが、除名をちらつかされ経営から離れることを余儀なくされた。
これによって両競技新聞は活動が不可能となり、無期限の休刊を決断する事になったのだった。
ただ賠償の金額があまりにも高額すぎたため、競技日報も幕府競技新聞も引くに引けなくなり、裁判で決着をつけるということになった。
その日の夜の報道では、裁判を蹴ってしまうと賠償が即時確定してしまうのだから、示談か法廷闘争かしかないだろうと報じていた。
例え負けても闘争すれば賠償金額は減額されることが多いし、三審制のわが国では結審するまでは賠償は執行されないのだからと。
木曜日、岡部は車で皇都の戸川宅へと向かった。
いつもの一張羅で呼び鈴を鳴らすと、着飾った義母の直美が顔を出した。
みんな待ってたよと言って直美は家に上がるように促した。
何となくそんな直美の顔を見ていると、初めてこの家にやってきた日の事を思い出してしまう。
あの日と何も変わらない優しい笑顔。
そして透明度のある小さめの鈴を鳴らしたような感じの声。
梅菓子と米酒を直美へ手渡し家に上がり込んだ。
客間に行くと、余所行きの格好の梨奈と一張羅の戸川が待っていた。
岡部は梨奈に微笑んで、隣の座布団に腰を下ろす。
直美は、お茶を淹れて岡部の持って来た梅餡のまんじゅうと一緒に各人に配膳し、戸川の隣に座った。
「梨奈ちゃんを妻に迎えたいのですが」
岡部の言葉に戸川はかなり複雑な表情をする。
「梨奈が何かを誤解して、一人で舞い上がっとんのやと思うてたんやけど、ほんまなんやな……」
「ええ。許可いただけますか?」
戸川の顔は明らかに戸惑った顔である。
どうにも喉が渇くらしく、湯飲みから手を離さない。
「こないなこと言うんもあれやけども、ほんまに良えのんか、この娘で?」
「はい。もう決めたことですから」
岡部は晴れやかな笑顔でそう述べた。
「君を家に招いた時から、そうなってくれたらと、何度も母さんと言い合ってはいたんやけども。まさかほんまになるとは……」
「許可いただけますか?」
「あたりまえやがな! 僕の方からお願いするよ!」
岡部はありがとうございますと言って深々と頭を下げた。
そんな岡部の横で、薄化粧の梨奈が両手で顔を覆って泣き始めた。
「そいでやな……君からも梨奈を説得してくれへんやろか?」
「何かあったんですか?」
戸川は直美の顔をちらりと見ると、非常に言いづらそうに梨奈の顔を見る。
「それがやな……結婚式も披露宴もした無い言うねん」
「披露宴はともかく、結婚式はさすがに……」
「僕からしたら披露宴もして欲しいとこやけども、そっちはもう諦めるよ。そやけども結婚式だけは……」
梨奈は隣で泣きながら口を尖らせ、絶対嫌だと駄々をこねている。
そんな梨奈をちらりと見て岡部はお茶をひと啜りした。
「どうせそう言うだろうと思って、六人での結婚式を提案しようとしていたんですけど、最初からこう頑なに拒否されてしまうと、ちょっと困ってしまいますね……」
「六人って、他二人は?」
「僕を孫同然に可愛がってくれてる方々です」
ああ、会長夫妻かと戸川は納得の表情をする。
確かにあの二人が来てくれるなら少人数でも恰好が付くと直美も納得した。
岡部は梨奈に、知らない人じゃないし、どうだろうかと優しくたずねた。
だがそれでも梨奈は会長さんたちも忙しいと思うと言い訳を始める。
「こう言うてはなんやが、会長は綱一郎君のためやったら予定があってもこじ開ける人やぞ?」
「大女将はどうなんでしょう?」
「あの婆さんは、梨奈が来て欲しい言うたら地球の果てからでもやってくる思うわ」
戸川によって徐々に逃げ道を塞がれてしまい、梨奈はどんどん言い訳が苦しくなっていった。
僕たちの為にそこまでしてくれる人が来てくれる結婚式はどうかなと、岡部は再度優しくたずねた。
梨奈は観念して無言で首を縦に振ったのだった。
暫く歓談が続き、お茶を飲み終えたところで、ちょっと二人でお話があると言って、直美は岡部を二階の岡部の部屋に連れて行った。
「話いうんはね。梨奈ちゃんの体のことなんよ。綱ちゃんは、あの娘の体質の事、どれだけ知ってはんの?」
「ほぼ何も。これまでの感じからして、体力が無く、本人が思うほど無理が効かないということしか」
ただここまで見て来て、気分が高揚し続けて熱が出ている場面もあるように思う。
それについては理由が全くわからない。
「生まれつき虚弱体質でね。免疫力が弱いらしうて、病気への抵抗が恐ろしく低うて、すぐに風邪をひくんよ」
「すぐ熱出すのは疲労の蓄積だと思ってたんですけど」
「それは多分そうやと私も思うてる」
そう思うから高校を卒業してからも毎日公園に散歩に行ったり、家事を手伝わせたりして、徐々に体力をつけて貰っている。
だが、たかがその程度の事で熱を出してしまう事があるという有様なのだ。
「そやからね。もしかしたら、その……子供はあかんかもしれへんのよ。仮にできたとしても、妊娠、出産に体が耐えられるもんなんかどうか……」
直美は非常に言いづらそうに俯き、申し訳なさそうな顔で言った。
その態度で、改めて自分を呼んで話したかったのはその部分かと岡部は察した。
「それは承知しているのですが、その……もし本人が望んだらどうすれば?」
「その時は、試してみるんは構へんとは思うんやけど……そやけど、もし出産に耐えられへんってなって、あの娘や子供に何やあったらって思うと綱ちゃんに申し訳なくて……」
岡部の事だから梨奈に甘えられたら断れないだろう。
だが結果として、それで梨奈や子供を失う事になったら、岡部は悔やんでも悔やみきれなくなってしまうのではないかと直美は危惧しているのだ。
「綱ちゃんのとこから帰ってから、暫くかなり体調良かったみたいやから、もしかしたら……」
「熱を出しながらではありましたが、かなり家事を頑張ってたみたいですから、それが良かったんでしょうか?」
「もしそんなことやったら、この先、少しは光明があるんやけど……」
それなら熱が出る事を前提で家事を全てやらせていれば、そのうちに体力が付いてきて熱を出さなくなるかもしれない。
それが続くようなら妊娠にも耐えられるだけの体力が付くかもしれない。
「いづれにしても本人の希望を優先しますよ」
「そやけど、あの娘は綱ちゃんに付いて行こうと絶対無理しはるやろうから、綱ちゃんが、ちゃんと見ててあげてね」
「明らかに無理してる時はちゃんと制します」
話を終えた直美は安堵して目から涙を一滴垂らした。
ここまで耐えていた涙が一気にあふれ出てきたという感じに見える。
「あの娘の結婚なんて……とうに諦めてたから……こんな日が来るやなんて……思うてなくて……」
夜、ささやかな宴席が開かれた。
ささやかといえど、いつもの宴席に比べたら比べ物にならない豪華なものである。
「実は、婿養子という形を取ろうと思うんですがどう思いますか?」
岡部の急な申し出に戸川はかなり困惑した表情を浮かべる。
梨奈をちらりと見て、直美をちらりと見て、麦酒を机に置き腕を組んだ。
「戸川姓を名乗りたいいう事なん?」
「ええ。どうでしょうか?」
岡部の申し出に、直美と梨奈も戸惑っている。
戸川もそんな二人を見て、どうしたものかという顔をする。
「僕は反対やな。君は君の姓を大切にすべきや。戸川家は別にうち以外にも親戚がおるからなあ」
「でも岡部家は所詮僕だけですよ。それなら別に僕が戸川家に入っても……」
恐らく梨奈が一人っ子だからそう申し出ているという事がわかるだけに戸川たちは三人とも気が引けている。
「気持ちはありがたいんやけどもね。僕としては、そこまでしてもろたら申し訳が無さすぎんねん」
「そこまで言われるのでしたら……」
「そうやなあ。もし僕が亡くなった時に二人に子供がおったら、その時に再度考えてみはったら良えよ」
直美が梨奈ちゃんも岡部姓になりたいよねと聞くと、梨奈は照れながら「うん」と頷いた。
戸川は麦酒をぐっと呑んだ。
「その……こんな時に申し訳ないんやけども、仕事の事でちと聞きたいことがあるんやけど、向こうにはいつ戻る予定なん?」
「明日の夕方に」
残念ながらそんなに長く厩舎を空けられないと岡部は申し訳なさそうに言った。
「そうか。そしたら明日の昼間じっくり聞くか。『優駿』あかんかったから池田たちに任せてきたからな」
「僕も話さなきゃいけない大切な事が……」
「って事は、今巷で大騒ぎになっとるアレには、何や裏があるいうことか」
岡部はコクリと首を縦に振った。
その日の夜、岡部は入浴を済ますと初めて梨奈の部屋に入った。
色々なものが桃色と水色で彩られ、いかにもという感じの可愛らしい部屋であった。
ほんのりと牛乳と桃が混ざったような甘い香りがする。
「さっき、母さんと何の話してたん?」
「梨奈ちゃんをよろしくって言われただけだよ」
梨奈の寝台の隣に置いてあった小さな机を片付け、そこに自分の布団を敷きながら岡部は答えた。
「変な事言うてへんかった?」
「そうだねえ。体が弱いから気を付けてあげてって言われたんだよ。何となく想像つくでしょ?」
そう言うと岡部は梨奈の頭を優しく撫でた。
「ほんまにそれだけ?」
「そうだよ」
梨奈は岡部から視線を外すと、手をモジモジしはじめた。
「ねえ……ほんまに私で良かったん?」
「どうして? 結婚するの嫌になっちゃたの?」
「ううん。そうやないの……私は嬉しいんやけど、綱一郎さんは、どうなんやろうって……」
梨奈はうつむき、ずっと合わせた手を見つめている。
岡部は梨奈の頬に手を当て顔にかかっていた前髪を避けて、火照った顔を上げさせると、そっと唇に口づけをした。
それは二人の初めての口づけだった。
岡部は優しく微笑むと、おやすみと言って静かに自分の布団に入った。
梨奈は暫くその体制のまま固まっていた。
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