第8話 告白
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(八級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師候補。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(八級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の調教助手
・阿蘇、五島、千々石、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・杉尚重…紅花会の調教師(八級)
・津軽信明…紅花会の調教師(八級)
翌日、朝から緊急の会議が開催された。
議題は翌日の初めての追切りの件。
八級は仁級よりも日程が一日後ろにずれている。
仁級の競走は月曜日と火曜日だったが、八級は火曜日と水曜日である。
会議室には岡部の他に、荒木、国司、服部、内田が参加している。
岡部は一人、机の横に椅子を置き座っている。
「明日から本格的に調教を行っていくんだけど、一つ八級には問題がある。この中で『パデューク』の名前を知ってる人は?」
岡部の問いかけに全員が手を挙げた。
さすがに八級に来た時点で名前は全員聞いていると荒木は笑った。
「じゃあ『パデューク』産駒の特徴を知ってる人は?」
手を挙げたのは国司だけだった。
「よく新聞なんかで言われるんは、『切れる脚を長う使える』いう事らしいですね」
「僕も戸川先生からそう聞いたんだ。国司さんは、それについてどう思う?」
「純粋にバケモンやと思いますね」
岡部は、だよねと他人事のような感想を述べた。
一同は岡部が何を言いたいのかわからず、まだ上の空という表情である。
「服部。お前、『切れる脚が長く使える』ってどういう事だと思う?」
「え? 文字通りやないんですか? 脚が切れるんですよね。それが長く……あれ?」
服部は眉をひそめて首を捻った。
その態度に荒木と内田が困惑している。
「どうした? どう思うか思った通りに言ってみろよ」
「ほんまにどういう事なんですかね? 普通末脚って、切れるか、長く使えるか、どっちかやないんですか?」
「僕もそう思うんだよ」
国司も、改めて言われるとおかしな話だと言いだした。
荒木と内田は意味がわからず説明を求めた。
そこからは国司が説明した。
「末脚言うんはな、二つの種類があるんや。一つは瞬発力。これが、いわゆる切れる脚いうやつやな」
「それは末脚いうと何となく想像するやつやな。最後の直線でスパンと前に出る感じのやつや」
うんうんと国司が頷く。
「もう一つ、最高速の速さ言うんがある。これが良い脚いうことなんや」
「それもよう聞くやつやな。全竜が切れ味が落ちる中、じりじり上がって来るやつやんな」
ここまでは理解できると荒木が言うと、内田もこくこくと頷いた。
「これ、普通は、どっちかしか使えへんねん」
「なんでや? 瞬発力を発揮して最高速に達したら良えだけやないの?」
「ほう! 荒木は、そないに長い事、瞬発力を発揮できるんやな」
荒木と内田は、あっと声を発した。
「そうやねん。よう言う切れる末脚言うんは速さの伸びやの事や。伸びなんやからどっかで頭打ちになる。たいていの竜は無理に瞬発力を発揮するからそこからダレる」
ゆっくりと徐々に最高速近くまで速度を上げられる仔と、勝負所まで足を溜めて最後に根性で最高速に持って行く仔、基本的に竜はそのどちらかしかいないと国司は説明した。
「国司さんは、どういうカラクリだと思う?」
「普通に考えたら、仕掛け所で最高速に持ってく瞬発力いうか筋力が凄いんやないかと推測しますね」
国司の推論に岡部はうんうんと頷く。
「服部はどう思う?」
「国司さんのいう感じか、あるいは、失速を少なくできるか」
「僕も、そのどっちかだと思うんだよ」
岡部は服部を指差してから腕を組んだ。
「先生はどっちやと思うんですか?」
「わからないけど、これまでの競走を見た限りだと前者かな? 最後の最後で伸び負けしている竜をちょくちょく見かけるからね」
つまりは国司の言うように、最後の直線で無理やり最高速に到達させている。
その一瞬で使う筋力が凄まじいという事なのだろう。
「もしそれやとしたら対応は簡単やないですか」
「ほう! どうしたら良いと思う?」
「逃げ、もしくは先行で長く良い脚を使って粘り込む」
直線での勝負に持ち込ませずに、それまでに脚を使わせて逃げ粘れば良いと服部は胸を張る。
だが、それを岡部は鼻で笑った。
「運良くそういう竜がいれば良いんだけどね」
「そっか……脚質の問題やから必ずしもそう育つとは限らへんのか」
「だけど発想は僕も同じだよ。どんな竜でも末脚の最高速を鍛えること自体は可能だと思うんだよね。口で言ってもわからないだろうから調教場で説明するよ」
岡部は成松を呼び出し、国司たちを引き連れて調教場へ向かった。
「成松、この乗り運動場をゆっくり走ってくれ」
成松は言われた通り、ゆっくりと輪乗り場を周回し始める。
この後をよく観察して欲しいと岡部は一同に言った。
「成松、かなり早めに走ってくれ!」
岡部の指示で成松は一気に速度を上げて走り始めた。
「どこが変わったと思う?」
真っ先に内田が歩幅が大きくなったと言いだした。
それを聞いた荒木が、腿も上がってると言いだした。
「成松、ありがとう。もう良いよ」
走り終えた成松は久々に長く走って見事に息が切れた。
「今見てもらった通りだよ。恐らく腿を上げさせれば歩幅が大きくなり、最高速が速くなると思うんだ」
「ほな重点的に坂路で体重を後ろにかけて、一杯で走らせれば」
岡部は服部の提案に大きく頷いた。
「ただ、これはあくまで全部仮定だよ。明日から試行錯誤して方針を修正していこうと思う」
国司、服部、荒木、内田は晴れやかな顔で「はい」と返事した。
その後ろで成松が大の字で横たわり、ぜえはあ言っている。
日曜日、仕事が終り家に帰ると、いつものように梨奈が玄関まで出迎えてくれた。
防府に来て早三週間が過ぎた。
毎日家事をやって多少は体力が付いたのか徐々に血色が良くなってきている気がする。
岡部は二階の居間に行き仕事鞄を置くと、ちゃぶ台の前に座った。
梨奈はニコリと微笑むと、すぐにゆうげにしようねと言って一階の台所に向かおうとした。
だが岡部はそれを制し、ちゃぶ台の向かいに座らせた。
その前にどうしても聞いておかないといけない事があると切り出したのだった。
「これ以上この部屋にいたいなら、仕事で何があったのか教えて欲しいんだ」
「何も無いよ? 変な綱一郎さん」
「無いわけないじゃない! 梨奈ちゃんは何も無かったらこんな強引なことする娘じゃないでしょ?」
梨奈は岡部の強い語気に泣きそうな顔になった。
「何があったの?」
岡部が優しく問いかけると梨奈は渋々話始めた。
「去年、私、父さんに騙されたんよ。うちに突然、会の人が来はったの」
「光定さんでしょ?」
梨奈は唇を噛みしめて頷いた。
「会いたないってずっと言うてたのに騙されたんよ」
「うん。それで?」
「そしたらね、それから仕事の意匠送るたびに、その人から手紙が来るようになったんよ」
この部分は戸川たちからは聞いていない部分と岡部は感じた。
恐らく戸川たちにも言っていない胸にしまっていた話なのだろう。
「手紙ってどんな?」
「最初は単に、もう一度会いたい言うだけやったんやけど、だんだん付き合うて欲しい言い出して、結婚前提に付き合うて欲しいって。毎月毎月。もうほんまにしんどくて……」
つまりは交際を迫られてそれを無視しているうちに、仕事も嫌になってきたというところだろうか。
ただ戸川たちの前だと仕事をしないと叱られるのでここに逃げていると。
「だけど会派の一門の人だよ? 嫌なの?」
「嫌や!」
「何で? 玉の輿じゃない」
『玉の輿』という単語が露骨に結婚を想像させたらしい。
梨奈は耳を赤くしながらも眉をひそめ不快という表情をした。
「だって……知らん人やもん……」
「徐々に知ってったら良いじゃない。良い人かも知れないでしょ?」
梨奈はちらりと岡部の顔を見ると、顔を赤くして手をもじもじしはじめた。
「だって……他に結婚したい人がおるんやもん……」
「そうなんだ。そんな人がいるんじゃあ仕方ないのかな。勿体ない話だけど」
梨奈は真っ赤な顔を上げると岡部を指差した。
その指先を見て岡部は完全に体を硬直させた。
「綱一郎さんのことやで?」
はぐらかされたと感じた梨奈はわざと念を押した。
岡部はずっと黙ったまま固まってしまった。
……これは困った事になった。
まず真っ先に感じたのがそれだった。
何とか聞かなかったことにできないだろうか?
どうしたら今のやり取りが無かった事にできるか、それを必死に考えた。
だが目の前の相手は、岡部の焦りを察してか畳みかけに入ったのだった。
「私の事、嫌いなん?」
「いや、そんなことは……」
「そしたら、好き?」
返答に若干困りはしたが、妹としてと勝手に付け加えて返答した。
「それは……まあ……」
「ほな、結婚してくれる?」
「それは……」
岡部の笑顔が露骨に引きつった。
「何がダメなん? おっぱいちっちゃいから?」
「いや、それは……」
思わず胸の大きさを再確認してしまいそうになり、必死に目を泳がせる。
「お尻ちっちゃいから?」
「いや、それは……」
思わず視線が下の方に行ってしまいそうになり、再度、必死に目を泳がせる。
「あばら浮いてるほど、ガリガリやから?」
「そんなことは……」
「そしたら何でなん?」
梨奈は首を傾げるような仕草で岡部の顔を覗き込もうとする。
岡部は視線を落し小さくため息をついた。
それしかできなかった。
暫く二人とも言葉を無くし、静寂が二人を包み込んだ。
岡部は何かをずっと思案し続け、梨奈は耳を真っ赤にして指をもじもじさせ続けて照れている。
ここで無下に断れば、岡部はもう戸川家とは疎遠にならざるを得ない。
やり方を間違えれば、梨奈が思いつめて極端な行動にでてしまう可能性すらある。
その事態だけは絶対に避けねばならない。
うちらは兄妹でしょと窘める事で無かったこととするのが一つのやり方ではあるだろう。
恐らく梨奈も、もちろん兄妹としてだよと言って誤魔化してくるに違いない。
ただ梨奈は、きっと自分を選んでくれるはずと、不安ながらも人生最大の賭けに出たのだろう。
梨奈は元々かなり引っ込み思案で、こうした賭けに出るのに岡部が想像する何倍も勇気がいったであろう事は想像に難くない。
その思いを踏みにじってしまうことが果たして自分にできるのかどうか。
脱衣所で初めて会ったあの日から、岡部も梨奈の事をかなり良い感情を持って相対してきた。
ただそれは常に義妹としてという線引きを忘れないように心掛けてきた。
だけど梨奈はそうでは無かったのだろう。
優秀な競竜師の岡部先生ではなく、一人の異性、岡部綱一郎に好意を寄せてくれる梨奈。
そう思うと、真っ赤な顔でこちらを覗き込んでいる梨奈が急に愛おしく感じてきてしまったのだった。
かつて元の世界で所属していた厩舎の先生が言ったことがある。
幸運の女神には前髪しか無いんだと。
だから後から気付いて追いかけても遅いんだと。
小学校、中学校、騎手として開業後、前の人生では一度も女性に告白されたことなど無かった。
今、目の前でもじもじして、こちらをちらちら見ている女性、彼女を掴む事が自分の人生にとっての幸運なのかもしれない。
もしそうならこの機を逃してはならない、そうも思うのだった。
岡部の中で大勢は決した。
岡部は何かを覚悟し、再度大きく息を吐いた。
「梨奈ちゃんの気持ちは受け止めたよ。僕も気持ちの整理がしたい。だから大人しく皇都で返事を待ってくれないかな?」
大人が子供をはぐらかす時によく使う言い方だと梨奈は感じたらしく、少し表情を強張らせた。
「いつまで待ったら良えの?」
「……当面は、四月一杯まで」
絶対にはぐらかそうとしている、そう梨奈は強く感じたらしい。
若干眉が中央に寄った。
「何年後の?」
「今年の……予定」
「ほんまに?」
明らかに疑いの目を向けてくる梨奈に、岡部は急に馬鹿らしい気分になってきてしまった。
「僕、梨奈ちゃんとの約束破ったことあったっけ?」
「旅行の約束破って、父さんとどっか行ったことあるよ」
「そっか。僕の言葉が信じられないというのなら、もう、この話はこれまでだよ」
岡部の態度の急変に、駆け引きをしすぎたと感じた梨奈は、焦って岡部の袖を両手で掴んだ。
「嘘や、嘘! 信じる! 皇都でずっと待ってるね!」
岡部に喋る余裕を与えず、ゆうげの準備するねと言って、真っ赤な顔で少し涙目の梨奈が台所へと向かって行った。
その日の夜、梨奈は興奮したせいか高熱を出した。
結局、梨奈が大人しく皇都へ戻ったのはそこから三日後の事であった。
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