第4話 梨奈
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(八級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上あげは…義景の妻。紅花会の大女将
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・織田繁信…紅葉会の会長、執行会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか、長女は百合、次女はあやめ
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば、長男は義和
・櫛橋美鈴…紅花会の調教師候補。夫は中里実隆
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…紅花会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(八級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の調教助手
・阿蘇、五島、千々石、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・杉尚重…紅花会の調教師(八級)
・津軽信明…紅花会の調教師(八級)
産まれた時は未熟児だったらしい。
乳児の頃から頻繁に高熱を出して両親を心配させる世話のやける娘だったらしい。
医師から人よりも極端に免疫機能が弱く体力の消費の激しい体質だと言われている、そう両親から聞かされている。
虚弱体質をなんとかしようと母は色々な事を試した。
毎日、日光浴をさせようと公園に出かけた。
葛が良いと言われれば毎晩葛湯を飲ませ、山芋が良いと言われれば頻繁に山芋料理を作った。
幼稚園の頃、同園の保護者から水泳が良いと聞かされ水泳も習わせた。
だが高熱で何日も寝込み死線を彷徨う事があり、すぐに辞めさせることになった。
父は少し熱が出ているだけなら、繰り返すうちに平気になるかもしれないと言って、あちこち旅行に出かけた。
延命祈願に鞍馬の地蔵寺へは毎年参拝に行った。
だが両親の努力が報われる事は無かった。
体質改善については両親も徐々に諦めるようになっていった。
細く長く小さな炎を絶やさずにいてくれれば、それ以上は望まないと。
小学校にあがっても頻繁に熱を出し休むことが多かった。
体育もずっと見学だった。
夏に水遊びする同級生を日蔭で羨ましく見ては惨めさに打ちひしがれた。
せめて勉強だけは置いて行かれないようにと必死にやった。
小学校も四年生になると周囲は友人同士で固まる事が多くなった。
だが他人と同じように遊ぶことができない梨奈は誰も相手にしてくれなかった。
この頃から徐々に教室内でも孤立することが多くなっていった。
そんな梨奈にも友人ができた。
同じ学年でもかなり目立つ娘が梨奈と同じ教室になり興味を持ってくれた。
その女の子は紗織という名で、女王のような高飛車な性格の娘であったのだが、梨奈はそれを上手く扱って付き合っていた。
真反対の性格の二人は思った以上に相性が合ったらしい。
梨奈も人生初の親友を非常に大切に扱った。
紗織は運動もでき性格も明るく友人付き合いも非常に上手な娘だった。
その為、親交の範囲がとても広く友人の数も圧倒的に多い娘であった。
梨奈は紗織を通じて徐々に紗織の友人たちと親交を持っていった。
五年生になったある日の事、母親は学校に呼び出されることになる。
梨奈が学校で喧嘩をしたというのだ。
母親は耳を疑った。
少なくともそんな派手に喧嘩できるような体力など無いはずなのにと。
学校に行くと、髪はぼさぼさで、服が所々破れ、泣いている娘の姿があった。
喧嘩しているところを見つけ引きはがしたのだが、喧嘩の原因をこの娘が喋らないと担任は苛々していた。
喧嘩相手は壊れた玩具のように、ただただ梨奈が悪いと連呼していたらしい。
母親の前で担任は大声で何度も、お前が原因なんだろう、さっさと何があったか言えと叫んだ。
その都度梨奈はびくりと体を震わせ泣き続けた。
母親は担任に何度も何度も、ご迷惑をおかけしましたと頭を下げた。
だが担任は許さなかった。
終いには、家でどんな躾をしたらこんな娘になるんだと母親に悪態をついた。
母親はそれにカチンときてしまった。
それまで頭を下げていた母親は、うって変わって強気な態度に変わった。
教頭か校長を呼んでくると言って職員室へ向かって行った。
青ざめた担任は母親を引き留めたのだが、結局職員室まで行き、教頭に間に入って欲しいと依頼した。
教頭は何か問題があったらしいとすぐに察した。
三人で教室に行くと、梨奈は薄暗い教室で泣いたままだった。
梨奈は母親を見ると震える声で、便所に行かせて欲しいと懇願した。
教頭はしゃがみ込んで梨奈に目線を合わせ、優しい声で行っておいでと微笑んだ。
梨奈が便所に行っている間、教頭は担任から事情を聞いた。
担任の話は実に一方的で教頭は激怒した。
少女に便所を我慢させ一方的に怒鳴りつけることの何が教育なのかと担任を叱責。
その後、保健室の先生に事情を聞きとってもらうという事で話はまとまった。
ところが当の梨奈が教室に帰ってこない。
心配した母は便所に様子を見にいくことにした。
母親が見たのは便所から出た梨奈が高熱を発し廊下で倒れている姿であった。
それから梨奈は五日間熱が引かずに学校を休んだ。
三日後、母親は再度学校に呼ばれた。
教頭が喧嘩の相手から事情を聞いた事で、何が起きたかわかったというのだ。
その喧嘩の相手は例の紗織であった。
紗織は梨奈に、好きな子がいると告白していた。
その子は同じ教室の長定君という子で、教室の男児の中で一番元気の良い子で顔も端正である。
梨奈は上手くいくと良いねと紗織の恋話を笑顔で聞いていた。
二人の友人付き合いは紗織が一方的に梨奈に話かけるという関係で、梨奈は基本的に笑顔で相槌をうつ感じだった。
紗織もこの頃になると梨奈の体質のことを知っており、そういう感じの関係になっていた。
ある日、長定が友人と二人で紗織と梨奈に話しかけて来た。
紗織は舞い上がってしまい上手く話ができなかった。
一方で梨奈はいつも利き手だったので、二人の話をいつものように笑顔で相槌をうって聞いていた。
それからというもの、この四人は仲良くお喋りする事が多くなった。
問題だったのは、元々この長定は梨奈に魅かれていたということだった。
実は梨奈は気が付いていなかったのだが、長定は三年生の時から梨奈と同じ教室で、梨奈のことを深窓の令嬢のように感じていたのである。
喧嘩があった日、梨奈が職員室に呼ばれた。
どうやらその時に、長定は紗織に梨奈が可愛いというようなことを言ったらしい。
紗織のことを気にもかけず、梨奈が清楚だと褒めちぎった。
昼休み、紗織は梨奈に私の長定君を盗み取ったと激怒した。
梨奈は何のことかわからなかったが、紗織は梨奈につかみかかり馬乗りになった。
そこに担任が騒ぎを聞きつけやってきた。
普段から声が小さく何かと特別扱いを言い渡されている梨奈に対し、担任は良い感情を持っていなかった。
担任は紗織を解放し梨奈に何があったのかひたすら問い詰めたのだった。
梨奈は何で喧嘩になったのか全くわかっていなかったのに。
この事件は梨奈の心にとてつもなく大きな傷となって残った。
この日を境に、同じ教室の女の子たちは梨奈を徹底的に無視するようになった。
長定も梨奈を気遣いながらも女子の連帯が怖く手が出せなかった。
担任はその後も梨奈をいびり続け、梨奈が反抗的な目を向けると、なんだまた教頭に言い付けるつもりかと睨んだ。
この頃から梨奈は教室では一言も喋らなくなった。
給食も一人ボソボソと食べ、いじめられ、膳をひっくり返されるような事が度々あった。
その都度担任はまたお前かと怒鳴り、教室の子たちがクスクス笑う中、梨奈に片付けさせた。
泣きながら片付けると毎回熱が出たのだが、また怠け癖かと言われ午後の授業は休ませてはもらえなかった。
そうなると数日熱が引かず学校を休むことになった。
中学校でも状況は何も変わらなかった。
小学校の頃の担任から引き継ぎを受けており、梨奈は問題児として要注意人物だとされていたからだった。
同性からは貧相な体型をからかわれた。
男子生徒の前でスカートをめくられたりといったいたずらも、たびたび受けることがあった。
このままではいづれ性的な悪戯が助長し取り返しのつかない事態になりかねないと登校をしぶるようになっていった。
徐々に不登校になり、登校しても体調不良を訴え保健室に入り浸っていることが多くなった。
修学旅行も体調を考慮して欠席し保健室で勉強していた。
こうして同級生の中からは梨奈の存在を忘れていく子もでていた。
高校生となり紗織たちとは学力に差ができ違う学校になった。
だが梨奈の事を知っている娘がいないわけではなく、知り合いになった娘もすぐに梨奈から遠ざかるようになった。
学校で一言も喋らない梨奈の周りからは徐々に人が離れていき、以降、孤独な学校生活を送る事になった。
教師にいびられたり同級生にいじめられないだけマシではあったが。
物静かだがそれなりに明るかった性格はどんどん内に籠るようになった。
家に帰ってきても両親と会話をする事すらほぼ無くなった。
徐々に現実の世界から目を背け妄想にふけるようになっていった。
そんな『終わっている』梨奈は専ら小説や漫画といった空想の世界に逃げた。
休日でも自分の部屋から一歩も外に出たがらず、ずっと小説と漫画を読んでいた。
小説や漫画には、梨奈のような『終わっている娘』を助け出す英雄のような人物がよく現れる。
現実が辛くなると梨奈は、いつかきっと英雄のような人が私の前に現れ救い出してくれると夢見たのだった。
だが徐々にだが、そんな人物なんて実際には絶対に現れないんだと諦めがつきはじめていた。
それと共に人生に絶望し始めていた。
だが高校二年の初夏、梨奈の生活は大きく変わった。
ある朝、寝ぼけ眼で寝間着を着替えていると見ず知らずの男性が入ってきた。
ほぼ裸の状態を見られた梨奈は混乱した。
そんな梨奈に母はあなたの義兄になる人だと説明した。
その日一日学校で考え続けた。
『血のつながらない兄』
小説や漫画で何度も見た境遇だった。
『優しい兄』
これまで何度も何度も妄想した存在だった。
何度も思い出し、何度も耳まで赤くなるほど照れた。
漫画や小説の中だけと思っていた非現実の世界が現実にやってきたのだ。
その日貰った髪輪は今もずっと大事にしている。
義兄は安物だと言うのだが、梨奈にとっては何よりも大事な宝物だった。
男性に喜んで貰えるのは手料理で胃袋を掴めば良いという知識を小説や漫画から得ていた。
だから義兄に少しでも喜んでもらおうと母から料理を習いはじめた。
義兄はどんな料理も具体的にどこそこが美味しいと褒めてくれる。
梨奈は料理を作るのが楽しくてたまらなくなっていた。
だが、そんな義兄のいる楽しい生活はたった一年半で終わりを告げた。
そして義兄が家を離れてから三年の月日が過ぎ去った。
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