第58話 復帰
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…元樹氷会の調教師(仁級)、謹慎中
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、五島、千々石、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師、逮捕
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・浅利…竜主会監査部
・松浦…久留米競竜場元事務長、逮捕
・蒲池…松浦の代わりの久留米競竜場事務長、逮捕
・頴娃…蒲池の代わりの久留米競竜場事務長
八月に京香が新竜の一覧を持って来た時には岡部厩舎には竜房に空きが無かった。
岡部厩舎はそれから『ヨツバ』『ジャコウ』の二頭を引退させており、その分竜房に空きができ、そこに新竜を受託し入厩させることにした。
一頭は『サケトクサ』という竜で、かなり良い竜ではあったのだが本格化は先という感じだった為、調教は緩めに設定。
二頭目が『サケセンマイ』という竜で、かなり短距離向きと見た為、新竜の重賞である『新雪特別』に向け調教を設定した。
その後、千葉に『スイヘイ』を、高木に『スズシロ』を、『ヨウカン』を神代に振り分け、空いた竜房にさらに二頭の新竜を入厩。
一頭は『サケユウガオ』という竜で、長距離向きと感じたため『長月盃』に向けた調教を設定。
二頭目が『サケヒョウタン』という竜で、かなり仕上がりが早そうで『新雪特別』に向け調教を設定した。
その後『サケセンマイ』を坂に、『サケヒョウタン』を平岩に転厩させたのだが、どちらも新竜戦を勝ち上がり『新雪特別』の月を迎えてしまった。
しかも二頭は順調に勝ち上がり最終予選に見事に残る事になってしまった。
最終予選の竜柱が発表になると杉が岡部厩舎に駆け込んできた。
「岡部よ! この昇格できるかどうかの瀬戸際に、ようこういうことができるな!」
「何の騒ぎです?」
「竜柱見てへんとは言わさへんぞ!」
杉は手にした竜柱の紙をパンパンと叩いた。
「あの二頭は確かに僕が調教計画を立てましたけども、二人に振った時に計画までは渡してませんよ」
「ほんまに?」
「渡したら杉さんだけじゃなく、武田くんにも何を言われることやら……」
岡部がぶすっとした顔で言うので、杉もどうやら本当らしいと納得した。
だが、あくまで納得したのは調教計画を渡していないという部分のみで、鍛えた竜を振り分けた事には全く納得していない。
「なあ。お前、俺と同期どっちを応援しとんのや?」
「どっちも応援しています。さらに言えば平岩さんと坂さんも」
「お前な。水着の女の子四人に囲まれて、誰を選ぶの言われて、みんな大好き言うとんのと同じやで?」
岡部は目頭を指で摘まんだ。
全員おっさんじゃないかと言おうとしたが馬鹿らしくなって止めた。
「と、に、か、く。僕はどっちにも加担はしません。何なら二人とも上がって欲しいと思ってます」
「ほんまやろうな! 同期にも加担はせんのやな?」
「元々してませんよ。応援はしてますけど」
それを聞くと杉は納得した顔で珈琲をくっと飲み干した。
「それやったら安心や。これから先輩の格好良えとこ見せたるわ! よう見とけよ!」
既にかなり格好悪いと喉まで出かけたのだが必死に引っ込めた。
最終予選の結果は坂の『サケセンマイ』が三着で予選落ち。
同じ競走では杉の『サケアカネ』が一着で決勝進出。
別の競走で平岩の『サケヒョウタン』が一着で決勝進出となった。
決勝の日、岡部は食堂の大画面で成松と大村と一緒に観戦した。
「先生、何でこげん時間に食堂で中継見とると?」
「僕、電視機持って無いもん」
成松は信じられないという顔をし岡部の顔をじっと見た。
「もしかして……」
「別に買う金が無いわけじゃないぞ! ここで見れば済むし、みんなで見た方が楽しいってだけで」
なんだか岡部が必死に言い訳しているように感じ成松も大村も腹を抱えて笑い出した。
その後も成松と大村双方から、何にそんなに金を使っているんだかとあらぬ疑惑をかけられ、それに必死に言い訳をしていると、大画面に下見所が映し出された。
『サケヒョウタン』が映ると大村は、何で『サケセンマイ』は駄目だったのかと岡部にたずねた。
「坂さんは脚質の事がまだちょっと理解できてなくてね。感性は良いものを持ってるんだけどね」
発走者が大旗を振ると発走曲が流れた。
発走すると、武田の『ハナビシルリボシ』が二番手、杉の『サケアカネ』が三番手、平岩の『サケヒョウタン』が六番手で周回。
二周を走り終え最終周の鐘が鳴ると『ハナビシルリボシ』は先頭に躍り出た。
最後の曲線で『サケアカネ』は加速を開始し四角で二番手に付けた。
『ハナビシルリボシ』と『サケアカネ』が最後の直線で競りあう中、『サケヒョウタン』が大外を一気に駆け上がり二頭を抜き終着した。
競技場を一周した柘植騎手は、検量室に来ると大粒の涙を流した。
平岩も『サケヒョウタン』の首をさすり涙を拭った。
二着は杉の『サケアカネ』、武田の『ハナビシルリボシ』は三着。
またもや杉が五位に浮上した。
十二月一日。
岡部は厩舎でゆっくりと珈琲を飲み、松井が来るのを待ち続けた。
八時過ぎ、朝飼が終り厩務員が休憩に入ったところで松井は岡部厩舎に現れた。
「久々だな。活躍は中継や新聞で見てたよ。凄いじゃないか! 『夏空三冠』なんて!」
岡部は松井を応接長椅子に座らせると、自慢の珈琲を差し出した。
自分の分の珈琲も淹れ松井の対面に座った。
「あれから何してたの?」
「謹慎中ってさ、廃業手続きもできないもんだから、月雇いの仕事で食いつないでたんだよ。麻紀ちゃんも働きに出てね」
実は岡部も紅花会に松井を引き入れるにはどうしたら良いか小野寺部長や六郷課長に相談していた。
だが謹慎中で全ての事務手続きが凍結されていてどうにもならなかった。
謹慎処分が執行される前日に樹氷会から松井の会派追放の申請が出されていて、それだけが通ってしまっていたのだった。
「小夜ちゃんはどうしたの?」
「麻紀ちゃんの仕事は小夜が幼稚園行ってる間だけだから。俺は一日仕事だったけど」
「大変だったんだね……」
岡部が俯いて呟くようにポツリと言うと、松井は苦笑いして額を指で掻いた。
「何であれからうちに寄りつかなくなったんだよ。小夜がお前が来るのをずっと楽しみに待ってるんだぞ?」
「なんだか喧嘩別れしたみたいでバツが悪くて……」
「誰も怒ってなんていないのに。変なやつだなあ君は」
二人は静かに珈琲を飲んだ。
「謹慎空けて、これからどうするの?」
「もう俺には何も残ってないからな。竜も人も会派も。廃業しかないと思ってる。今の月雇いの会社が正式に雇っても良いと言ってくれててな。で、廃業手続きの前に君に最後の挨拶をと思ってな」
『最後の挨拶』という単語に岡部は胸が張り裂けそうになるのを感じた。
どうして何の罪も無い一人の有能な調教師がこんな仕打ちを受けなければならないのか。
改めて岡部は憤りを覚えた。
「……全部用意してあるって言ったら続けてもらえるの?」
「用意って……厩舎はあの時、君に解散処理してもらっただろ?」
岡部は椅子から立ち上がり、事務机の引出しから一枚の紙を取り出し、松井の前に広げた。
「これ、うちの会長から。君を説得して引っ張って来いって」
「そこまでしてもらう義理が無いよ……」
「僕にはある! うちの会派にもある! 無いと思ってるのは君だけだよ!」
岡部はかなりの熱量を込めて言うのだが、松井にはあまり響いている様子が無かった。
もう決意は変わらない。
そんな雰囲気を松井は醸し出している。
「何でそこまでして引き留めたいのか教えてくれよ」
「君が帰ってくるのを信じて待ってる人がいるんだ。僕は彼らの希望を叶えてあげたい!」
別に響かなくても良いとばかりに熱量を込めて言う岡部から、松井は視線を反らし続けている。
「そんなの臼杵だけだろ?」
「だけじゃない! 雑賀さんも! 高森さんも!」
松井はちらりと岡部を見ると、大きくため息をついた。
どう言って諦めてもらおうかと言葉を探した。
「重いんだよ……そういうの。一度心の折れた俺には……」
「じゃあ後ろを見てみろよ! 彼らにも同じ事が言えるのかよ!」
言われるがままに後を振り返ると、急いで休憩から戻った、臼杵、雑賀、高森が立っていた。
三人とも目にうっすらと涙を浮かべ、笑顔で松井を見つめている。
「十か月の間、ただただ君の帰りを信じて待った彼らに、そんな非情な事が君は言えるのかよ!」
「……厩務員二人でどうしろって言うんだよ」
事務室に入って来た臼杵たちから視線を反らして松井はぽつりと呟くように言った。
あの時の厩務員全員に連絡を取って全員に戻りたいと言ってもらいましたと、雑賀がぼろぼろと涙を流して報告した。
松井は滲んだ涙を拭い、珈琲のおかわりを所望した。
珈琲を待つ間も松井は臼杵たちから顔を反らして黙っていた。
おかわりの珈琲を一口飲むと、この旨い珈琲を久々に飲んだなと呟いた。
「なあ岡部くん。もう一度やり直せると、本当に君は思うかい?」
「他のボンクラじゃ無理だと思う。だけど僕の自慢の同期なら屁でもないと思う」
「そうか……」
松井は珈琲をもう一口飲むと、鞄から万年筆を取りだした。
「史上最年少の夏空三冠調教師にそこまで太鼓判押されたら、断るに断れないよな」
そう言うと紅花会の入会申請書に自分の前に引き寄せた。
応接机の横に立ってじっと松井を見つめてる臼杵たちに、岡部は笑顔を向け大きく頷いた。
その表情で松井の復帰を実感した臼杵たちは飛び跳ねて喜んだ。
書名をし終えたのを確認すると、岡部は再度席を立ち、事務机から一枚の紙と六通の書面を取りだし松井に渡した。
「これ竜の一覧と預託証。新竜の二頭と『長月盃』出た二頭はうちにいるから明日転厩させるね。放牧先の連絡先は下に書いてあるから」
岡部が渡した一覧の中には『伏月盃』を勝った『サケドングリ』、『長月盃』を勝った『サケススキ』、『星雲特別』を勝った『サケギュウヒ』の名が記載されている。
重賞を勝っていないのは新竜の二頭と『サケセンテイ』のみという錚々たる一覧である。
「臼杵はどうしたんだ?」
「昨日話し合って、一足先にうちの会派に移る手続き取ったよ」
相変わらず手際が良いと松井はくすりと笑った。
「厩舎は元の場所で良いのか?」
「思い入れあるかもしれないけど、そっちは今再度警察が実況見分やってて立入禁止なんだよ。だから元の僕の厩舎に移ってもらう事にしたんだ。ここの左隣ね。迷惑だったかなあ?」
「いや。心機一転にはその方が良かったかもしれん」
事務室の外で服部と二人ではしゃいでじゃれ合っている臼杵を見て、松井は再度くすりと笑った。
「それと、実は事務棟にも君が来るのを待ってる人がいるんだ」
「事務棟に? 誰だろう?」
「執行会の総務部長と監査部長だよ。君に謝罪がしたいんだって」
恐らく松井が岡部の説得に首を縦に振らなかった場合に備えて、代わりに説得してもらう為に来てもらっていたのだろう。
つまり、そもそも抵抗するだけ無駄だったのだ。
「相変わらず手際の良いやつだな……」
松井はなんだか可笑しくなって岡部の顔をじっと見つめて珈琲を口にした。
「でも実は間に合ってないものがあるんだ」
「これで、まだ何かあるのかよ」
「会旗と看板は明日になっちゃった。あれだけは申請書が無いとどうしても用意できないんだって」
会旗はどこの会派も歴史ある皇都の手織り工房で編んでもらった絹織物である。
その為、それ自体非常に高価な工芸品だったりしている。
看板は木の板に塗料を塗ったものではあるが、簡単に経年劣化しないようにかなり高級な木材を使用している。
「それは仕方ないよ。ちょっと締まらないけどな。じゃあ事務棟に行ってくるわ。色々とありがとうな。俺の愛すべき同期よ」
こうして二人は十か月ぶりに笑顔を交し合った。
よろしければ、下の☆で応援いただけると嬉しいです。