第51話 相談
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…元樹氷会の調教師(仁級)、謹慎中
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、五島、千々石、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師、逮捕
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・浅利…竜主会監査部
・松浦…久留米競竜場元事務長、逮捕
・蒲池…松浦の代わりの久留米競竜場事務長、逮捕
・頴娃…蒲池の代わりの久留米競竜場事務長
競走の翌日、南国牧場の中野場長が岡部厩舎を訪ねて来た。
「岡部先生、ありがとう! この日が来るのをずっと待ち続けていたんだよ!」
「良い竜ですよね。三歳の頃からみっちりとやってみたかったですよ。どれだけ重賞を総なめできたことか」
中野は珈琲を飲みながら、かなり興奮気味に『サケヨツバ』という竜にどれだけ強い思い入れがあるのかを滔々と語った。
紅花会では各社の取締役以上は竜主として何らかの竜を所持している。
南国の中野家も牧場長をしながら竜主をやっている。
それは北国の氏家家も同様である。
場長の中野義知、妻のみつば、息子の義和、それに最上牧場崇徳の四つの名義で竜を所持している。
この『サケヨツバ』は場長中野義知の名義の竜である。
中野場長は、これぞという期待した竜にこの『ヨツバ』という名を付けている。
妻みつばの子という意味であるらしい。
だが、これまで三頭にこの名前を付けてきたのだが、これという成果が出ず引退となっていた。
竜の名前は各級で独立管理なので、ごく稀に同時期に別の級で同じ名前の竜が走ることがある。
一度使った名前でも条件戦で引退した竜は、繁殖に入らない限りわずかな期間を置いてすぐに再使用ができる。
たとえ繁殖に入った竜でも一定の期間が過ぎれば再使用ができる。
ただし重賞を勝利した竜の名前が再使用可になるにはかなり長い期間が過ぎなければならない。
中野は過去の三頭以上に、この竜にかなりの期待をしていた。
母竜が中野が最初に見出した肌竜の系統だったからである。
父竜は『クラッシュマン』系の『ニッショウキセキ』という竜。
そこで中野は会派に無理を言って当時八級に上がれそうと評判だった愛子の調教師に『ヨツバ』を預託してもらった。
だが残念ながらその調教師は『ヨツバ』を新竜戦に出しただけで急死してしまったのだった。
ならばと同じく八級に上がれそうという噂の久留米の国分という調教師に預託しようとしたのだが、どういうわけか及川厩舎に預託される事になってしまう。
結局、過去三頭同様、四頭目の『ヨツバ』も全く音沙汰が無くなってしまっていた。
仁級でも呂級の『ソルシエ』系のように稲妻牧場が一つの血統を独占支配している。
それが『ピエルドトゥーシュ』という名前の種牡竜の系統で、最終周の加速力に定評があり、『ジョウイチイ』という後継種牡竜が大流行した。
呂級ほどでは無いにしてもそれなりに種付け料は高額で、それが稲妻牧場の強みの一つとなっている。
その状況をなんとか変えようと、中野たち花蓮郡の牧場は自分達で種牡竜を確保していきたいと考えている。
そんな中野たちが目を付けているのが、変速の多彩さに定評のある『ニッショウキセキ』という種牡竜であった。
先日の『伏月賞』で臼杵が騎乗した『サケススキ』も『ニッショウキセキ』の仔である。
もう一頭『サガモア』系という血統にも目を付けている種牡竜がおり、そちらは『ヤナギセイドウ』という種牡竜で直線の爆発的な加速力に定評がある。
以前、戸川と義悦と南国牧場にお邪魔した時、みつばが『サガモア』系と『クラッシュマン』系で一頭づつ種牡竜が欲しいと言っていた。
その一頭づつというのが『ヤナギセイドウ』と『ニッショウキセキ』の後継の種牡竜なのである。
「先生。『サケヨツバ』ですが、種牡竜にしたいので今年いっぱいで引退させていただくことはできませんか?」
中野の表情は駄目で元々という感じの顔である。
やっと重賞を勝たせられたのだ。
それもあんな強い勝ち方で。
もう一つ二つ走らせたいと思うのは当然だと中野ですら思っている。
「今年いっぱいも何にも、そういう事であるならば、この後すぐに引退でも構いませんよ?」
「え? 良いんですか? 確かに秋には短距離戦は無いとはいえ……」
予想外の反応に中野の方が心配になってしまっている。
もはや珈琲の味などわからず身を乗り出している。
「中距離もいけるでしょうから、『白鳥特別』出しても勝てるでしょうが、種牡竜にするなら圧倒的な印象で引退した方が衝撃が大きいでしょ」
「先生! 恩に切ります! それと、先生から見て引退させて種牡竜にできそうな竜って他にいますか?」
「残念ながら血統については詳しくないので何なのですが、『伏月賞』勝った『ドングリ』と、再来月に出す予定の『カミシモ』はどうですか? 年齢的に『カミシモ』は、もし勝てたらすぐに引退でも構いませんよ」
名前を言われても中野もすぐに血統が思い出せるわけではない。
鞄から何やら厚い冊子を取り出してペラペラとめくっている。
「おお! どっちも『ヤナギセイドウ』の仔じゃないですか!」
「『カミシモ』はちょっと種牡竜にするには歳いってますけどね」
「いやいや、晩成の竜ってわかっていれば、そういう肌竜(=配合相手の牝竜)をみんな持ってくるってもんですよ」
帰ったらさっそく竜主と交渉だと言って胸ポケットから手帳を取り出しメモをした。
かなりの交渉の難航を想定してた中野は、思ってた以上にすんなり行き、さらなる土産も貰いほくほく顔で南国に帰って行った。
翌日、『サケヨツバ』は南国へ放牧に出された。
先日の圧勝劇は新聞に取り上げられる事の少ない仁級としては異例の取り上げられ方をしている。
何度も繰り返し終着時の映像が報道によって流されており、近年で最も有名になった仁級の竜となっている。
その『サケヨツバ』の姿を届けようと朝から報道がその様子を中継。
そんな喧噪の中で行われた映像取材の中で岡部の口から『サケヨツバ』の引退と繁殖入りが公表されたのだった。
その日一日、岡部は取材攻勢に会いまともな厩舎運営ができなかった。
翌日、岡部は全ての取材を拒否し半日かけて事務作業を済ませた。
だが午後になるとまた報道が押し寄せ、それの対応に追われる事になった。
厩舎前での公開取材以外は一切受け付けないというのは、以前からの岡部厩舎の一貫した方針である。
久留米の報道たちの間ではもうかなりまで周知されているのだが、紀三井寺の報道たちやそれ以外はそうではない。
それで個別に申し入れが入っているのだが、ひたすらそれを荒木や国司が断り続けている。
夕方、荒木から報道以外からの連絡の報告があった。
基本的に岡部に直接用事のある人、特にある程度組織の上層の人物は岡部の直接の連絡先を知っている。
だがそれ以外はそうでは無い為、厩舎に連絡を入れてくる。
逆に言えば厩舎に連絡を入れてくる人はそこまで緊急性は無い。
だがその中に一件だけ緊急性のありそうな電話があった。
翌日、岡部は休暇を取り、その電話の人物に会いに太宰府の紅花会の大宿へ向かった。
受付横の待合で二人の人物が岡部を待って珈琲を飲んでいた。
岡部が声をかけると、その内の一人――止級研究所の成沢が、お時間をいただいて申し訳ありませんと挨拶した。
成沢は二か月連続の重賞制覇に触れ、さすがだと褒め称えた。
成沢はもう一人の若者を岡部に紹介した。
その人物は新関という止級研究所の取締役の一人で、大山と成沢が声をかけたうちの一人である。
大山にしろ成沢にしろ、いかにも会社員という感じの雰囲気の人物なのだが、新関はどこか大学生の雰囲気を残している。
髪もさらさらとしていて薄茶色に染めている。
襟締もかなり緩く縛っており、どこかチャラチャラした印象を受ける。
元々は最上運送で設計の仕事をしていた新人だった。
大山と同期入社なので成沢より一つ下の歳である。
工学系の大学で電脳を学んでおり、設計は入社してから学んだ。
さらに大山たちに誘われてからは独自に船舶の歴史も学んだという、見た目に反して止級研究所でも一番の勉強家である。
現在は開発設計部という部の部長をしているのだが部下は二人しかいない。
「その後、どうですか? 変わりはありませんか?」
「とんでもない方が来ちゃって大変な事になってますよ」
成沢は露骨に渋い顔をし額を擦った。
「それは良い方に? 悪い方に?」
「何なんですか、あの爺ちゃんは! うちらよりはっちゃけてて。何かって言うと覇気が無い、若さが足らん、頭が固いって。うちらより酒呑むし」
岡部はそれを聞くと腹を抱えて笑い出した。
新関も元気すぎて付き合い切れんと呆れ口調で言い出した。
「すっかり馴染めているようで何より」
岡部が笑いながら届けられた珈琲を口にすると、成沢は少し真面目な顔をした。
「その代り仕事の要求はかなり厳しいですよ。管理も大崎さんより厳格だし。その辺はさすがだって思いますよ」
「もう隠居するとか言ってたんですけどね」
それを聞くと成沢は、は?と何を言ってるんだという反応をした。
「無い無い。毎日毎日、やれあっちに呑みに行こうだの、ここの飯が旨かっただの、うちで一番南国を満喫してるんですよ?」
新関も、ありえないと言って大笑いしている。
「で、僕に会いたいってのは? まさか、わざわざ祝辞だけ言いに来たわけじゃないんでしょ?」
「実は今、例の件、完全に暗礁に乗り上げているんですよ」
「……船だけに?」
新関が思わずプッと噴出した。
「先生! 申し訳ないけど、そういう寒い冗談で笑える状況じゃ無いんですよ!」
成沢が本気で怒り出したので、岡部はごめんごめんと笑って謝った。
そこからは新関が説明を始めた。
竜運船の設計自体は新関が担当しており、大山から話を聞いてすぐに資料を取り寄せ、あっという間に最初の船の設計図を引いた。
その後、色々と試験をする上で改善点が上がってきて、その都度それを設計図に落し込んで行った。
だが一昨年の年末、会長と岡部が南国に来てそれまでの路線は完全に否定されてしまった。
社長の義悦の決断で、最初の試作船も破棄する事になった。
それ自体は残念な事ではあったが、ある意味割り切りができた。
このまま小手先だけで暗中模索するよりは、それまでの知識と経験を踏まえて最初から設計し直した方が良いだろうと。
そこから一年かけて木で船の模型を作ったりして、高速小型船、大型輸送船、両方の案を研究してきた。
結果としてやはり大型輸送船路線が現実的という事になり、高速小型船の案を捨てて話は進んでいた。
ところが昨年成沢たちが太宰府を見学に行き、その翌々月にも太宰府に競竜を見に来て、流れは大きく変わった。
国内輸送を考えたら高速小型船路線一択だろうと。
それから一年、数多の船の意匠を試したが、これという結論が出ずにいた。
そこに大宝寺がやってきた。
会議に出席した大宝寺はずっと首を傾げ続けていた。
義悦にどう思うかとたずねられた大宝寺は、この会議の主題は何なんだと言い出した。
会議の進行が下手すぎて、何を議論したいのか全く見えてこないと。
大山が大宝寺にここまでの事を順を追って説明。
すると大宝寺は、自分はまだよくわかっていないがと断った上で自分の私見を述べた。
「飛行機にも車にも大型と小型はあり、その用途は全く違う。今回の場合も、大型の船も重要だが、小型の船が無ければ片手落ちも甚だしいのでは無いか?」
その後、大宝寺を議長として開発の大きく遅れている高速小型船を研究し続けてきた。
大宝寺は大山から岡部の要求する性能諸元を聞き、それを最終目標に掲げた。
だがその目標は遥か彼方のもので、これという良い案が出ずに無駄に日付だけが過ぎた。
ついに先日の定例会議で大宝寺が、やむを得ないから岡部の知恵を借りに行ってくるかと言いだした。
どうやら大宝寺は自分が行くつもりだったようだが、大山は行くなら開発担当二人とピシリと仕切ったのだった。
「普通に考えると四十から五十海速くらい出なければならないんですよ」
一通り説明の終わった新関がそう言って岡部に意見を求めた。
「そんな専門的な事を言われても。僕もそこまで船に詳しいわけじゃないですからねえ」
「もの凄くざっくばらんに言えば、高速道路を車が走るくらいの速度を、海上で出せって言われてるって事ですよ」
「それは、相当難しそうですね」
岡部は他人事のようにカラカラと笑い出した。
「ね? どれだけ無茶なことかわかるでしょ? 車と違って船は前進にもの凄い抵抗を受けるんですから」
「あれはどうですか? ほら、波乗りみたいに板を浮かべて、水上を滑ったら」
「そんなのちょっとの風でひっくり返りますよ、それだと! 誰がそんな危ないもんに乗りたがるんですか!」
ここまでの岡部と新関のやり取りに成沢が何か引っかかるものを感じたらしく、目を細めて何かを考え始めた。
「前にも言ったんですけどね、速度を上げる方法なんて、喫水線を下げるか、推進力を上げる以外方法無いと思うんですけどねえ」
「先生。喫水線下げて推進力も上げたら、船どっかに飛んでっちゃいますよ」
新関がもうちょっと真面目に考えてくれと言ってゲラゲラ笑いだすと、岡部もだよねと言って笑い出した。
それまで考え事をしていた成沢が珈琲を口にし不気味に笑い出した。
「いやあ、やっぱり先生はさすがだわ。ほんと会いに来て良かった」
「成沢さん、今の話のどこにそれを言える要素が?」
そう言って新関が岡部の顔を見て笑った。
「新関、お前も俺と一緒で色々船の資料、穴が開くほど見ただろ? その中に今言ってた船があっただろ?」
「浮揚船の話なら先日速度が出ないって却下されてたじゃん。音がうるさすぎて竜にも悪いって」
「違う違う、まだ出てない話だよ! 覚えて無いかな? 水上を飛ぶ船の話」
新関は成沢が何を言いたいのか全くわからなかった。
岡部に至っては何を言ってるのかチンプンカンプンである。
「水中翼船って覚えてないか? 水上の飛行機って言われてる」
「ああ! 思い出した!」
「資料見てみないと詳しい事は言えないけど、確かあれの最高速度は四十海速くらいだった気がする」
皆一度は資料で目にしたはずだが、誰も議題にあげていない船だと成沢は指摘した。
そのせいで今の今まで忘れていたと。
「確かあれ、見るからに燃費が悪そうって話だったと思う。それと水をたっぷり抱えて浮けるのかっていう指摘があって候補からあっさり脱落したんじゃなかった?」
「確かにそんな話だったと俺も記憶している。だけど、これまで議題に上がってない船であることも確かだ」
さらに言えば船体が海上に浮いているから海水が船内に取り入れられないという指摘も出たはず。
でもこれまでの案と違い、速度と言う巨大な壁だけは超えていると成沢は指摘した。
「それを試してみる価値ってどれくらいあるんだろ? 値段ももの凄い高かった気がするんだけど。そういう根拠が緩いと大崎さんたちにつっこまれるよ?」
「根拠なんか少し目途がついてから、ゆっくり考えれば良いんだよ! まずは方針が見える事だって大宝寺の爺さんもよく言ってるだろ?」
岡部には終始何を言い合っているのかわからなかったが、どうやら光明が見えたと言う事だけは察した。
成沢と新関は岡部に深く感謝すると、明日、止級で水着のお姉ちゃん見て帰りますと言って笑った。
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