第40話 新年
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、五島、千々石、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師、逮捕
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・浅利…竜主会監査部
・松浦…久留米競竜場元事務長、逮捕
大晦日の夜、戸川一家は蕎麦を食べ、焼酎を呑み、年末の特番放送をダラダラと見ながら過ごしていた。
「しかしこの焼酎は旨いなあ。返す返すも芋焼酎が無いのが悔やまれる」
「これ久留米の平岩調教師の推薦なんです。次回はちゃんと三本揃えますから楽しみにしていてください」
すると、かすてらもだよと梨奈が間髪いれずにせがんだ。
別に美味しいお菓子も見つけてるから、それも買ってきてあげるよと言うと、梨奈は奥さんの顔を見て大喜びした。
「平岩かあ。平岩は何となく覚えてるな。呂級まで来れるかもと三浦さんが話してた気がする」
もう何年も前の話、そう言って戸川は話し始めた。
高齢で引退した八級の調教師がいて、そこで調教助手をしていた。
その調教師は三浦も八級時代に世話になった方らしく、その愛弟子と言う事で話をよく聞いていたらしい。
「そうだったんですか! 向こうでは、後、杉さんと坂さんに良くしていただいてます」
「す、杉って、もしかして杉尚重か?」
戸川は焼酎のコップを机に置くと身を乗り出して聞いてきた。
一気に酒が抜けたという風な顔で驚きで目を見開いている。
「ご存じなのですか?」
「ご存知も何も近年で最も期待しとった奴や! どうにも名前を聞かへん思たら、杉もあそこで潰されとったんかい! うちらはどれだけ久留米に貴重な人材を潰されとったんや!」
戸川は怒りに震え机の上で拳を握りしめた。
梨奈は早くも酔っぱらったらしく、こたつに足を入れて可愛い寝顔を岡部に向けて隣で寝始めた。
風邪をひかないようにと岡部は毛布をそっとかけてあげた。
「事ある毎に南国旅行が楽しかった言うてはるな」
「梨奈ちゃんですか?」
「母さんも会長もや。よほど楽しかったんやろうな。僕も行ったら良かったわ」
実際岡部もあの旅行は楽しかったと感じる。
戸川と行った時に比べ食べ物も美味しかったし、買い物も楽しかった。
戸川は『皇都大賞典』が大詰めだったから来たくても来れなかったのだが。
「あんなにはしゃいでる会長を初めて見ましたからね」
戸川はくくくと笑いながら焼酎を口にした。
実はあの後、最上はあげはとかなり揉めたらしい。
どうやらあの時最上は、あげはには仕事だと言って出かけたらしいのだ。
義悦の会社を視察に行ってくると言って。
問題は梨奈があげはに土産として贈るようにと最上に買わせた巾着袋であった。
「会長、帰ってからそれを梨奈からや言うて渡したらしくてな、なんで私を連れて行かへんかったんや言うて激怒したんやって」
岡部は呆れて言葉が出なかった。
「会長が、また梨奈と旅行行きたい言うてはってな」
「僕も休めたら行きますよ」
洗い物を終えた奥さんが客間に戻ってきた。
戻って早々に焼酎を割り、くいっと呑んで旨いと唸った。
「良い飲みっぷりですね。買ってきた甲斐がありますよ!」
「これ、ほんまに美味しいよね! 綱ちゃんが久留米にいる間しか呑めへんとか残念やわあ」
早く八級に上がってもらわなくてはいけないから、そんな風に言うなと戸川が奥さんを咎めた。
奥さんもそれはそうよねと言って苦笑いした。
「そのうち毎年のように夏場に太宰府に行くようになりますよ」
「そうなん? そしたら毎年夏にこれが呑めるんやね!」
そんな話をしていると日付が変わった。
三人は、その場で新年の挨拶を交わした。
梨奈が寝ているので、三人で初詣に行こうと戸川が言ったのだが、奥さんが、後で何言われても知らないよと脅した。
とてもではないが寝起きが良いとは言えない梨奈を誰が起こすかで揉め、結局奥さんが起こす事になった。
その日の夜、岡部は久留米に戻った。
翌日、岡部は久々に厩舎へ出勤した。
出勤すると早々に荒木と服部を連れ神棚の御札を持って、高良大社へと向かった。
車で神社付近まで峠道を進んで行き、駐車場の空きを待ち、異常に長い階段を上がって本殿に参拝。
古い御札を収め、新しい御札と御神酒を購入。
鳥居から久留米競竜場が一望でき三人を感動させた。
厩舎に戻り厩務員を集めて、新たに納めた厩舎の神棚を全員で拝み、今年一年の無事と厩舎の好調を祈願した。
祈願が済むと国司が、ちょっと新年ぽい事をやってみたらどうかと提案してきた。
実はその為の準備もしてきているという事なので、飲み食い賭博以外だったらと許可した。
国司が用意したものは墨と紙と筆。
「先生、今年の抱負を書きましょうや! 書いたら叶うかもしれへんですし、皆の薫陶にもなるかも」
荒木は懐かしいと言って笑い出した。
服部は、成人しても、まだこんな事やらなきゃいけないのかと文句をたれた。
岡部は意外に乗り気で何を書こうか思案し続けている。
その間、国司はひたすら墨を磨った。
よし決めたと言って紙を文鎮で押さえ、筆を取り、いざ書こうとしたがすぐに筆を置いた。
「どないしたんです? やっぱ辞めます?」
「……漢字を忘れた」
調べたら良いじゃないですかと国司は呆れた顔をした。
辞書でちゃんと調べ力強く書き始めると、三人はそれを無言で見守った。
最後に小さく名前を書き、できたと言って皆に見せた。
三人はそれを見て言葉を失った。
「先生、その……僕らには、何て書いてあるか読めへんのですけど」
「何でだよ! 『真摯』だよ。『真摯』」
三人は、お腹を抱えて笑い出した。
味があるというのを越えすぎていると国司は笑った。
荒木は芸術品だと言って涙目になった。
僕より下手な人がいると服部は笑い転げた。
そんな三人を見て岡部は、お前らもちゃんと書けよと言って拗ねた。
荒木も国司も、悔しいくらい毛筆が巧く、それぞれ『健康』『無事故』と書いた。
服部は岡部ほどでは無いにしても字は下手で『勝利』と書いた。
四人の書初めは黒板に貼られる事となった。
岡部は四人の書初めを見比べ、習字しようかなあとぼそっと呟いた。
それが聞こえた荒木は、先生の貴重な才能をそんなつまらん事で費やす必要は無いと猛反対した。
そこに松井と臼杵が新年の挨拶にやってきた。
松井は目ざとく書初めをみると、面白そうだから俺もやろうと言って書き始めた。
自分は字が下手だからと言って臼杵は固辞した。
書けたと言って見せると、国司は、力強く荒々しい字だと言って褒めた。
『昇竜』と書かれた紙を乾かす為に松井は黒板に向かった。
皆は何を書いたんだと言って、黒板に吊られた書初めを見てすぐに笑い出し、腹が痛いと言ってしゃがみ込んだ。
「なんか、うちの娘の絵みたいなのがあるんだけど、これ何?」
四歳の娘の絵みたいと言われ、国司と荒木と服部は大爆笑であった。
「『真摯』って書いたつもりなんだけど……」
「字なのかこれ? 嘘だろおい!」
「『摯』の字が難しすぎた……」
それを見た臼杵が、これは勇気が出ると言って書初めを始めた。
松井たちが帰ると、入れ替わりに紅花会の調教師が勢ぞろいして岡部厩舎に挨拶に訪れた。
書初めの用意を見ると平岩が薫陶に良いかもしれないと言いだし、一人づつ書き始める事になった。
最初に書いた千葉が、墨を乾かそうと黒板の方に向かい、笑って崩れ落ちた。
神代が何があるのか聞いたのだが、千葉は涙目で、書いてからのお楽しみだと言って涙を拭った。
二番手の高木も黒板に乾かしに来て、同様に笑って崩れ落ちた。
杉は、そこに一体何があるんだと怖がった。
神代と平岩も同様に撃沈。
杉と坂は、一体あそこに何があるのかと千葉にたずねたのだが、千葉は思い出し笑いをするだけで答えてくれない。
杉は崩れ落ちるまではいかなかったが、鼻で笑って、これは酷いと言って唇を噛んだ。
最後の坂は腰を抜かすほど笑った。
そんな先輩たちの様子を岡部は極めて不機嫌な顔で見続けた。
その後、厩務員が休憩から戻ってきた。
国司は全員に、暫く厩舎に貼るから書初めをするようにと指示した。
全員非常に嫌がったのだが、下手でも良いから心を込めろと指導。
阿蘇と千々石がそれぞれ書き終えると、国司は、なんだ二人とも上手じゃないかと笑った。
これで上手と褒められるとと阿蘇が言うと、黒板にみんなの書初めが貼ってあるから見て来るようにと促された。
その頃には国司のいたずら心で黒板には布が張られていた。
内田と五島が書いていると黒板から奇声のような笑い声が聞こえてくる。
何事かと思いながら内田と五島も書初めを書き終えた。
黒板の方に向かった二人は、必死に笑いをこらえ、一人心を込め過ぎの方がと苦しそうに言った。
翌日、大村、宗像、成松は、他の面々から、絶対に笑ってはいけないと言い含められた。
宗像も成松も、他人の字を見て笑うわけないじゃないですか、そんな失礼なことと言い合っていた。
竜房に戻ってきた三人は、あれは卑怯だと言って涙を拭った。
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